世の中では、差別をする者は、「法律や道徳やマナーに反しており、否定されるべき存在」として認識される。
考え方や姿勢を改めることを求められ、時には糾弾され、排除される。
差別者を非難することは正しいことであり、肯定されるべきことであり、よりよい社会を成立されるために役立つことだと思われている。
だが、学生の頃からずっと差別問題に関心を持ってきた私から見れば、
差別者を排除する一般人の姿勢は、差別者と同じ思考パターンではないかと感じられる。
「ルールに反するものは排除して当然」という意識や、
「罪人に人権など必要ない」という考えは、差別構造と密接な関係があるのだ。
歴史的に見ても、ある価値観を持つ者が異なる価値観を持つ者から否定的に扱われ、社会的地位を得られず罪人や被差別者となった例は多い。
差別問題に関心がある人は、まず、差別とはなんだろうかということをよく考えてほしい。
気軽に「差別」という言葉を使う人の多くは、差別という言葉で示される構造について考えを深めていることが少ない。
あたかも「差別」というものが存在しており、それを排除すれば差別はなくなるというような認識で行動すると、時には差別者と何も変わらない「見下し」「排除」「罪人視」といった姿勢を見せてしまう。
人類が、より高度な意識レベルにたどり着くためには、きちんと物事の因果関係を把握し、
自分が否定している構造が、自分の思考の中にも存在しているという矛盾に気づくことが必要ではないかと感じる。
戦争を否定する人が暴力的な発言や腕力で戦争を否定しようとしても、世の中から戦争はなくならない。
全体主義を否定する人が異論を認めない強固な組織を作って闘っても、世の中から全体主義はなくならない。
差別を否定する人が差別者を見下したり罵ったりしても、差別はなくならない。反差別者はすでに差別的意識を備えている。。。
戦争や全体主義や差別のない社会にたどり着くには、まずはそれらがどういった構造をもつものなのか、地道に把握していく必要がある。
「戦争」「全体主義」「差別」などという言葉で表現されるものが存在していると認識すると、勘違いをしてしまう。
私論だが、一般的に日本語で「差別」とネガティブな印象で認識されている言葉は、言ってみれば「差別問題として社会問題化している差別的構造」のことを指している。
「差別問題」として表出している、女性差別、人種差別、同性愛者差別などだけではなく、
年齢差別、容姿差別、動物差別、害虫差別、犯罪者差別だって立派な差別的構造を備えているのだ。
(ホリエモンのことをゼンカンモンと言って嘲笑する人がいるが、それはホリエモンだけではなく、罪を償った元犯罪者に対する差別でもある。新卒であれ、中年であれ、同じ仕事をしているのに賃金に差があるというのは年齢差別だと言える。特定の蚊やゴキブリといった虫だけ抹殺されることも差別的。笑いにされるハゲいじりは差別意識が問題化され、そのうちコントの再放送も難しくなるかもしれない)
文化や世代によって異なる価値判断基準がぶつかり合うことによって、一部の価値判断基準のズレが社会問題化している。
多くの文化や世代によって共有されている「見下し」「排除」「罪人視」などは、差別問題と同じ構造を備えながらも、問題として表面化しない。
差別について考えるとき、特定の価値観と価値観のぶつかりあいによって表面化している差別問題だけに目を向けても、根本的な解決にはたどり着くことはできない。
だから、差別問題に注目する人が増えることはありがたいけど、
差別に反対する人たちから、対立する者を見下したり嘲笑・攻撃したりするような言説が出てくることを残念に思う。
差別に反対して行動しているからといって、自分の内なる差別意識が免罪されるわけではない。
日本国内の韓国人や中国人に対するヘイトスピーチに抗議する人も、中国国内のウイグル人やチベット人、モンゴル人などに対する迫害に抗議する人も、そういったことを少し意識してもらえればと思う。
考え方や姿勢を改めることを求められ、時には糾弾され、排除される。
差別者を非難することは正しいことであり、肯定されるべきことであり、よりよい社会を成立されるために役立つことだと思われている。
だが、学生の頃からずっと差別問題に関心を持ってきた私から見れば、
差別者を排除する一般人の姿勢は、差別者と同じ思考パターンではないかと感じられる。
「ルールに反するものは排除して当然」という意識や、
「罪人に人権など必要ない」という考えは、差別構造と密接な関係があるのだ。
歴史的に見ても、ある価値観を持つ者が異なる価値観を持つ者から否定的に扱われ、社会的地位を得られず罪人や被差別者となった例は多い。
差別問題に関心がある人は、まず、差別とはなんだろうかということをよく考えてほしい。
気軽に「差別」という言葉を使う人の多くは、差別という言葉で示される構造について考えを深めていることが少ない。
あたかも「差別」というものが存在しており、それを排除すれば差別はなくなるというような認識で行動すると、時には差別者と何も変わらない「見下し」「排除」「罪人視」といった姿勢を見せてしまう。
人類が、より高度な意識レベルにたどり着くためには、きちんと物事の因果関係を把握し、
自分が否定している構造が、自分の思考の中にも存在しているという矛盾に気づくことが必要ではないかと感じる。
戦争を否定する人が暴力的な発言や腕力で戦争を否定しようとしても、世の中から戦争はなくならない。
全体主義を否定する人が異論を認めない強固な組織を作って闘っても、世の中から全体主義はなくならない。
差別を否定する人が差別者を見下したり罵ったりしても、差別はなくならない。反差別者はすでに差別的意識を備えている。。。
戦争や全体主義や差別のない社会にたどり着くには、まずはそれらがどういった構造をもつものなのか、地道に把握していく必要がある。
「戦争」「全体主義」「差別」などという言葉で表現されるものが存在していると認識すると、勘違いをしてしまう。
私論だが、一般的に日本語で「差別」とネガティブな印象で認識されている言葉は、言ってみれば「差別問題として社会問題化している差別的構造」のことを指している。
「差別問題」として表出している、女性差別、人種差別、同性愛者差別などだけではなく、
年齢差別、容姿差別、動物差別、害虫差別、犯罪者差別だって立派な差別的構造を備えているのだ。
(ホリエモンのことをゼンカンモンと言って嘲笑する人がいるが、それはホリエモンだけではなく、罪を償った元犯罪者に対する差別でもある。新卒であれ、中年であれ、同じ仕事をしているのに賃金に差があるというのは年齢差別だと言える。特定の蚊やゴキブリといった虫だけ抹殺されることも差別的。笑いにされるハゲいじりは差別意識が問題化され、そのうちコントの再放送も難しくなるかもしれない)
文化や世代によって異なる価値判断基準がぶつかり合うことによって、一部の価値判断基準のズレが社会問題化している。
多くの文化や世代によって共有されている「見下し」「排除」「罪人視」などは、差別問題と同じ構造を備えながらも、問題として表面化しない。
差別について考えるとき、特定の価値観と価値観のぶつかりあいによって表面化している差別問題だけに目を向けても、根本的な解決にはたどり着くことはできない。
だから、差別問題に注目する人が増えることはありがたいけど、
差別に反対する人たちから、対立する者を見下したり嘲笑・攻撃したりするような言説が出てくることを残念に思う。
差別に反対して行動しているからといって、自分の内なる差別意識が免罪されるわけではない。
日本国内の韓国人や中国人に対するヘイトスピーチに抗議する人も、中国国内のウイグル人やチベット人、モンゴル人などに対する迫害に抗議する人も、そういったことを少し意識してもらえればと思う。