多くの人は自分のことを、普通で、正常で、肯定されるべき存在だと思っている。
だけど、その視点を元に世界を解釈すると、自分の存在を守るための一方的な視点になりがちだ。
「自分は被差別者で、時には一般的な世の中のルールに抵触する思考や行動を行い、守るべき自分の形なんてたいした価値はない」、などと考えている人は、簡単に自分を正義の側には置かない。
謙虚な人はあまり声高に主張しない。
意見の異なる相手を見下さず、侮蔑の言葉を投げかけられ、暴力で威嚇されても、憎しみの心を持たない。
そんな平和的な人は過去にもたくさんいた。
だけど、自己肯定的な、暴力的な人たちの圧力によって、存在を抹殺されてしまう人も多い。
知的で優しくて恥じらいを知る人が、世の中の人々に評価されるとは限らない。
いつまでたっても、武力や言葉の圧力によって自分の意見を通すことはなくならない。
ため息を隠し静かに苦笑いする避難民は、強者によって奪われた故郷に戻ることはできない。
自分の利益が大事な強者は、経済力や武力を背景に、自分の行為を正当化する。
ぼくはせめて、自分の正当性を声高に叫ぶ人の陰で、声を上げることもなく滅びていった人たちの知性と、悲しみと、やさしさに同調したい。
滅びた人たちのことを懐かしく思えば、彼らもうれしく思ってくれるだろう。
彼らの知性は忘れ去られることなく、静かに伝わっていると想像する。
組織や生命を存在させ続けることは、絶対的に肯定されがちだ。だけど、存続しなかった、勝ち残らなかった人にも際立つ知性がある。
何かを排除したり、どこかに矛盾を隠したり、強引に境界を決めたりしないと、強力な組織を作ることはできない。
強力な組織を作ることは、知性から遠ざかることにつながりがちだ。
強力な組織化から距離を置く思想家や宗教家は、考えかたの異なる人を排除しない。
意見が異なる人を暴力的に排除する民衆や政治家すら排除しない。
暴力的な勢力のほうが現実世界で勢力を増すのは目に見えている。
形とか秩序とか組織とか排除とか価値の比重などにからめとられる世界を脱して、混沌に向き合い、世界のしくみを考える人はむかしから存在した。
だからぼくも旅をする。
さまざまな価値観の人たちとの出会いは、自分の輪郭を自覚させてくれる。
ぼくは決して正しい側とは限らない。
戦後民主主義者は、新保守主義者を批判する。
旧メディアは新メディアをなかなか評価しない。
暴力的な政府は、抵抗する政府を恫喝する。
劣等感を隠す創作的な歴史を隣国にも共有させようとする人々。
高給の金融マンと薄給の弁護士の対話には思想や芸術の話がなかった。お金と名誉の話ばかり。
そんな世界の中で、堂々巡りは続く。
どこに価値を置こうが、自分を正当化しようが、砂上の楼閣。幻のようなものかもしれない。
幻を幻だと自覚してこそ、妙な執着心や不満、わだかまりや見下し、目くらましなどを越えて行けるのではないだろうか。
だけど、その視点を元に世界を解釈すると、自分の存在を守るための一方的な視点になりがちだ。
「自分は被差別者で、時には一般的な世の中のルールに抵触する思考や行動を行い、守るべき自分の形なんてたいした価値はない」、などと考えている人は、簡単に自分を正義の側には置かない。
謙虚な人はあまり声高に主張しない。
意見の異なる相手を見下さず、侮蔑の言葉を投げかけられ、暴力で威嚇されても、憎しみの心を持たない。
そんな平和的な人は過去にもたくさんいた。
だけど、自己肯定的な、暴力的な人たちの圧力によって、存在を抹殺されてしまう人も多い。
知的で優しくて恥じらいを知る人が、世の中の人々に評価されるとは限らない。
いつまでたっても、武力や言葉の圧力によって自分の意見を通すことはなくならない。
ため息を隠し静かに苦笑いする避難民は、強者によって奪われた故郷に戻ることはできない。
自分の利益が大事な強者は、経済力や武力を背景に、自分の行為を正当化する。
ぼくはせめて、自分の正当性を声高に叫ぶ人の陰で、声を上げることもなく滅びていった人たちの知性と、悲しみと、やさしさに同調したい。
滅びた人たちのことを懐かしく思えば、彼らもうれしく思ってくれるだろう。
彼らの知性は忘れ去られることなく、静かに伝わっていると想像する。
組織や生命を存在させ続けることは、絶対的に肯定されがちだ。だけど、存続しなかった、勝ち残らなかった人にも際立つ知性がある。
何かを排除したり、どこかに矛盾を隠したり、強引に境界を決めたりしないと、強力な組織を作ることはできない。
強力な組織を作ることは、知性から遠ざかることにつながりがちだ。
強力な組織化から距離を置く思想家や宗教家は、考えかたの異なる人を排除しない。
意見が異なる人を暴力的に排除する民衆や政治家すら排除しない。
暴力的な勢力のほうが現実世界で勢力を増すのは目に見えている。
形とか秩序とか組織とか排除とか価値の比重などにからめとられる世界を脱して、混沌に向き合い、世界のしくみを考える人はむかしから存在した。
だからぼくも旅をする。
さまざまな価値観の人たちとの出会いは、自分の輪郭を自覚させてくれる。
ぼくは決して正しい側とは限らない。
戦後民主主義者は、新保守主義者を批判する。
旧メディアは新メディアをなかなか評価しない。
暴力的な政府は、抵抗する政府を恫喝する。
劣等感を隠す創作的な歴史を隣国にも共有させようとする人々。
高給の金融マンと薄給の弁護士の対話には思想や芸術の話がなかった。お金と名誉の話ばかり。
そんな世界の中で、堂々巡りは続く。
どこに価値を置こうが、自分を正当化しようが、砂上の楼閣。幻のようなものかもしれない。
幻を幻だと自覚してこそ、妙な執着心や不満、わだかまりや見下し、目くらましなどを越えて行けるのではないだろうか。