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波打ち際の考察

思ったこと感じたことのメモです。
コメント欄はほとんど見ていないので御用のある方はメールでご連絡を。
波屋山人

銀行

2021-09-17 20:12:40 | Weblog
執筆者や著作権者に支払手続きをすることがある。
支払先口座は、都銀、地銀、たまに信金、海外口座など多岐に渡るが、圧倒的に多いのは、三菱UFJ銀行の口座だ。
だいぶ離されて、三井住友銀行、みずほ銀行。
りそな銀行は珍しい。
ネット銀行も意外に少ない。
先生方には三菱UFJ銀行の評価が高いようだ。

それにしても、みずほ銀行のシステムの評判はよくない。
その場しのぎの小手先の対応ばかりやっていたら、やがて行き詰ってしまう時が来る。
それがわかっていながら抜本的な作り直しをしなかったのであれば、みずほ銀行は人々の支持を得られないだろう。

ちなみに、講談社のメインバンクは三井住友銀行。文藝春秋は三菱UFJ銀行。
だから、みずほ銀行にとってとても都合のわるい記事でも掲載できる。広告は減るだろうけど。
しかし、たしかKADOKAWAや新潮社や集英社のメインバンクはみずほ銀行だから、批判的な記事はかなり書きづらいのではないだろうか。

https://news.yahoo.co.jp/articles/e97788874499731d6ec7127c90585147c24a54f4
> ■「みずほ銀行」のシステム障害はなぜ防げなかったのか…エンジニアを見下す「悪しき体質」
> 9/17(金) 7:02配信 週刊現代

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/87384?page=4
> ■これから「みずほ銀行」に起こる、ヤバすぎる現実…システムの「爆弾」を誰も処理できない
> 週刊現代


余談だが、私のメインバンクは三井住友銀行だったけど、徐々に楽天銀行に移行中。
今年、クレジットカードの引き落としはすべて楽天銀行に変更した。

楽天銀行だと、他行への振り込みも月に3回までは手数料ゼロだ。利息も高め。
競争力のない銀行は危機感がないと、消滅してしまうかもしれない。



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R研

2021-09-16 20:56:14 | Weblog
同じ事象を目にしても、人によって認識は異なる。
人それぞれ言い分が異なると、何が事実なのか見極めるのは難しい。
被害者のように見えて加害者かもしれないし、加害者のように見えて被害者かもしれないし、どっちもどっちなのかもしれない。
一方の言い分だけを聞いて鵜呑みにすると判断をあやまる可能性がある。

だから、なんとも言えないけど、R研と言われると理研のことだろうと想像する。
神様のような名前といえば、布袋とか大黒といった名字もあるけど、いちばん有名なのは青森県などに分布する神(じん)だろう。


新世紀ユニオンという労働組合の委員長のブログ
  ↓
http://shinseikiunion.blog104.fc2.com/
■R研の女性研究者へのパワハラ・セクハラ事案について
Aさんは博士号を持つ若手女性研究者である。AさんがR研で受けたリーダー長のパワハラ・セクハラはひどいもので、怒鳴りつける、おしりや胸に日に10回も触りまくる。
パソコンを取り上げ、研究を禁止し、退職を強要し、Aさんに屈服を迫った。
この神様のような名前のリーダー長は「名は体を表さない」典型的人物で、朝から職場でテレビを見ながら酒を飲み、定時後は女性研究者数人を侍らせて宴会を行う。Aさんは日に3時間も宴会に付き合わされ、そのあとで自分の研究を行わねばならなかった。
(略)
新世紀ユニオンはR研が名誉棄損で訴えてくれれば、訴訟費用が安上がりに闘えるので、ぜひ訴えてほしいと思っています。R研には女性研究者の被害者がほかにもたくさんいます。多くの被害者が我々の闘いに賛同されることを期待しています。
# 国立R研 #パワハラセクハラ事件



理化学研究所のHPを見ると、すぐに該当する人らしき研究室が出てくる。
私は検索が下手なので、下記はまったく関係のない研究室かもしれない。
でもチームリーダーは神様のような名前の人だ。

https://www.riken.jp/research/labs/bdr/nanobio_probes/index.html
> 生命機能科学研究センター
> ナノバイオプローブ研究チーム


少し検索してみると、研究室のメンバーが異なるページもあった。
http://www.qbic.riken.jp/japanese/research/member/lab-04.html


最新のページには掲載されていない女性研究員の名前を検索すると、Natureの論文が出てくる。
https://www.nature.com/articles/s41598-017-11784-y
Normothermic Microwave Irradiation Induces Death of HL-60 Cells through Heat-Independent Apoptosis
Mamiko Asano, Satoshi Tanaka, Minoru Sakaguchi, Hitoshi Matsumura, Takako Yamaguchi, Yoshikazu Fujita & Katsuyoshi Tabuse
Scientific Reports volume 7, Article number: 11406 (2017)

写真を見る限り、女性研究員は容姿端麗。セクハラに遭いやすいのだろうか。
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/245062/1/rish_01500_43.pdf
> 2017年理化学研究所研究員/2018年京都大学生存圏研究所研究員


チームリーダーはパワハラ的な圧力を醸し出しているようにも見えるけど、写真のうつりがわるいだけかもしれない。
https://www.bdr.riken.jp/jp/research/labs/jin-t/index.html
> ナノバイオプローブ研究チーム


真実はどうなのかよくわからないけど、とりあえず、理研で何やら問題が発生しているようだ。
「R研には女性研究者の被害者がほかにもたくさんいます。」と書かれているのがこわい。

理研といえば、日本の研究機関ランキングで東大京大の次に位置する。
ノーベル賞級の研究も多く行っている、日本を代表する研究所だ。
もし、研究者たちの待遇に何か問題があるのであれば、ぜひ改善してほしい。




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『「本当のこと」を伝えない日本の新聞』マーティン・ファクラー著、双葉社、2012年

2021-08-29 15:55:34 | Weblog
日本の新聞の問題点を指摘した、ニューヨーク・タイムズ東京支局長による貴重な本。
冒頭の、東日本大震災時の取材事例に引き込まれ、今朝、鎌倉に向かう電車内で読み進めた。
サラリーマン的な記者がジャーナリズムから遠ざかっている現実は、新聞社だけではなく放送局や出版社にも当てはまるだろう。

貴重な指摘や提言は、なぜか双葉社というニューヨーク・タイムズと対極的な会社から刊行。
大手の出版社であれば、次のような文章は校正でひっかかって修正されるはず。
「日本経済新聞の紙面は、まるで当局や企業のプレスリリースによって紙面を作っているように見える」
改訂版を出すのならぜひ大手出版社から大々的に売り出してほしい。

2012年に刊行された本なので、現在とは少し状況が違う面もある。
もうニコニコ動画はあまり注目されていないし、メディアのネット利用もずいぶん変わった。優秀なフリーのジャーナリストは増えてきた。
ただ、今も記者クラブは存続したままだ。根本的なことは変わっていない。

新聞社の間違いについて自省的に何例も書かれた部分があったが、従軍慰安婦報道の誤報についてはまったく書かれていなかった。
本の刊行は2012年だが、検索してみると、朝日新聞社が多くの従軍慰安婦関連記事を撤回したのは2014年だった。
ぜひ、近年のジャーナリズムの現状を補った、改訂版か増補版を見てみたい。


印象的だった部分の一部をメモ。

■『「本当のこと」を伝えない日本の新聞』マーティン・ファクラー著、双葉社、2012年

P6
(略)バブル崩壊後、経済が停滞しているのに、日本社会はなぜ若者にもっとチャンスを与えないのか。団塊の世代ばかりを手厚く守り、彼らの子や孫はまるでどうでもいい存在であるかのように扱われている現状は明らかにおかしい。
 世代間格差や社会システム、官僚制度の硬直化など、この国が本当に解決すべき問題を、なぜか記者クラブメディアは積極的に扱おうとしない。

P52
 私が日本で取材をするようになって最も驚いたこと、それは「kisha club(記者クラブ)」の存在だった。新聞や通信社、テレビといった日本の主要メディアの記者たちは、その大半がなんらかの形で記者クラブに所属し、取材活動を行っている。新聞やテレビから流れてくるニュースが似たり寄ったりである第一の理由は、当局からの情報を独り占めする記者クラブの存在にある。一方、そこに所属できない雑誌メディアやインターネットメディア、海外メディアの記者やフリーランスのジャーナリストたちは、独自の取材により情報を発信している。

P54⁻55
 アメリカ人にとって、ジャーナリズムは「watching dog(番犬=権力の監視者)」であるべきだという強い共通認識がある。権力をじっと監視し、ひとたび不正を見つければ、ペンを武器に噛みつく。だから、省庁や警察署内に詰め所を設けてもらい、各社の記者が寄り集まってプレスリリースをもらうなどという記者クラブのシステムは理解できない。

P62
(略)電力会社が活断層の存在を認めた瞬間、新聞に記事が出る。裁判で原発の危険性が言及された段階で、ようやく記事を書く。自らが疑問を抱き、問題を掘り起こすことはなく、何かしらの「お墨付き」が出たところで報じる。これでは「発表ジャーナリズム」と言われても仕方がないと思う。

P75
 記者クラブによる報道のおかしさは、東日本大震災前から常に感じてきた。当局の発表どおりに、まるでプレスリリースのような記事をほとんどそのまま書いてしまう。よく言われるが、「これでは大本営発表と一緒ではないか」と感じる場面が何度もあった。

P96
 本書第2章で述べたように、私からいわせれば、記者クラブメディアはスクラムを組んで、フリーランスの記者や外国人記者を排除してきた。当局の情報を寡占状態に置こうとしてきたと言える。日本経済新聞については、寡占ではない。当局や一部上場企業が発信する経済情報を、日本経済新聞が事実上独占しているように感じるのだ。
 なぜ日本のビジネスマンが、日本経済新聞をクオリティペーパーとして信頼するのか私には理解しがたい。日本経済新聞の紙面は、まるで当局や企業のプレスリリースによって紙面を作っているように見える。言い方は悪いが、これではまるで大きな「企業広報掲示板」だ。大量のプレスリリースを要点をまとめてさばいているだけであって、大手企業の不祥事を暴くようなニュースが紙面を飾るようなことは稀だろう。

P114-115
 また「~だということがわかった」という“主語なし文章”も不思議な表現だ。政府や捜査当局、企業の公式発表があったのであれば、「××は△△と発表した」と主語をはっきり書けばいいはずだ。これでは発表されたものを報道しているのか、記者が自分で見つけてきたネタなのか、読者は区別がつかない(賢明な本書の読者はご存じだろうが、「~がわかった」という新聞用語は発表報道の典型的な表現だ)。それとも、日本の新聞記者はある日突然、神の啓示のようにニュースが頭のなかに舞い降りてくるとでもいうのだろうか。
 理解不能なのは、ほかのメディアの後追い報道をするときに、「~だということがわかった」と表現することである。こんな記事を書く記者は、ニューヨーク・タイムズのみならず、欧米メディアであったらただちに追放されてしまうだろう。
 どうわかったのか。ニュースソースはどこにあるのか。ニュースソースをはっきり示せないのであれば、なぜ匿名にしているのか。理由が示さなければ、読者はいったいその記事をどうやって信用しろというのだろうか。そうした現状の裏側には、スクープを抜かれ、他紙の後塵を拝することを極端に恐れる日本の新聞の体質があると私は感じている。

P124
 ニューヨーク・タイムズで記事を書くときのルールのひとつは、先ほど述べたように基本的に匿名を使わないことだ。もし名前を書かないときには、その理由をはっきり書く。
 もうひとつ、日本の新聞と最も違うルールがある。誤報を出してしまったときの新聞社としての対応だ。誤報が出ないように記者も新聞社も最善を尽くすが、もし間違いが出てしまったら必ず訂正報道をすることが重要なのだ。この点に関しては、アメリカの新聞は徹底している。

P142
 高田昌幸氏の著書『真実 新聞が警察に跪いた日』を読む限り、北海道新聞はただ利益を追求していればいい一般企業と同じように見えてならない。世間に真実を知らしめる使命をもつ新聞社の幹部が、自分たちの組織を守るために保身に走る。とんでもないことだ。

P150
 日本のキャリア官僚は、不思議なことにそのほとんどが東京大学や京都大学から輩出される。東大や京大に続いて、早稲田大学や慶應大学などの難関私立大学の出身者が多く完了に採用されていく。つまり、官僚とジャーナリストは同じようなパターンで生み出されていることになる。大学で机を並べていた者たちが、官庁と新聞社という違いはあるにせよ、“同期入社組”としてそれぞれが同じように出世していく。
 これは何を意味するのか。私が12年間、日本で取材活動をするなかで感じたことは、権力を監視する立場にあるはずの新聞記者たちが、むしろ権力者と似た感覚をもっているということだ。似たような価値観を共有していると言ってもいい。国民よりも官僚側に立ちながら、「この国をよい方向に導いている」という気持ちがどこかにあるのではないか。やや厳しい言い方をするならば、記者たちには「官尊民卑」の思想が心の奥深くに根を張っているように思えてならない。

P152
(略)「ジャーナリスト=専門職」という意識をもつ記者は日本の報道機関にとって不要であり、「ジャーナリスト=サラリーマン」であることが望ましいのだろう。
 私は、ジャーナリストは専門職であるべきだと思っている。

P153
(略)ジャーナリストを目指す者までみんな揃ってリクルートスーツというのは日本に来て初めて知ったルールだった。世の中を疑い、権力を疑うジャーナリストは組織から距離を保った一匹狼であるべきはずだが、採用する新聞社も、志望する学生も無意識のうちに「記者になる=サラリーマンになる」と思い込んでいるとしか思えない。

P177
 記者クラブの会見とは対極的に、FCCJの会見にはだれでもアポイントなしで自由に取材に入れる(クローズドな昼食会を除く)。リンゼイさんの遺族をFCCJの記者会見に招いたときは、出席した記者に自由に取材をしてもらった。(略)
 自民党の安倍晋三氏が「従軍慰安婦は作り話」という趣旨の発言をしたときには(2005年3月)、韓国から元従軍慰安婦の女性を呼んで話してもらった。

P214
 高度成長期のような活況はもはや望めないことは誰もがわかっている。いま求められているのは、新たな産業やアイデアを生み出す力だ。だが、この国には既得権益を手放さず、若者やチャレンジャーをつぶそうとする層が存在する。新聞で言えば、記者クラブがそれにあたるだろう。

P220
 本書のなかで、私は日本の新聞について厳しい指摘をいくつもした。
 誤解してほしくないのだが、日本のメディア批判をしたかったわけでも、日本よりアメリカのメディアが優れていると言いたかったわけでもない。健全なジャーナリズムを機能させるにはどうしたらいいのか。日本でその議論を起こすために、記者クラブメディアが抱える問題点を具体的に提示したつもりだ。


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チャン・リン・シャン

2021-08-22 22:38:20 | Weblog
何十回か海外旅行に行った。東南アジアやヨーロッパが中心で、ヨーロッパは20か国ぐらい。
一人旅の場合はバックパッカースタイル。二人旅の場合は少しはマシな宿に泊まる。
どちらにしても、現地の人々の暮らしを感じられる市場や下町に足を運ぶことが多い。

それなりに現地の人と接する機会もあるけど、最近まで「チン・チャン・チョン」という言葉を知らなかった。
アジア系の人を揶揄する、有名な言葉なのだとか。
目じりを指でつり上げてからかう人がいることは知っていたけど、「チン・チャン・チョン」とか「チン・チャン」は聞いたことがなかった。

中国や韓国に、チン・チャン・チョンという姓の人が多いことに関連しているのだろうか。
あるいは、中国や韓国の人が話しているとチン・チャン・チョンという音が目立つのかもしれない。

私としては、「チン・チャン・チョン」という言葉や「つり目ポーズ」が、差別的なのかどうなのかよく分からない。

もしかしたら、特に否定的な意味はなく、ただ単に自分たちと異なる特徴を持つ人に対して興味を持っているだけなのかもしれない。
日本の田舎の人が外国人におどろいて、金髪だー! アフロだ―! ガイジンだー! と口にしたからといって、外国人を見下しているとは限らない。
「差別だ!」となじられたり犯罪視されたら、心を閉ざしてしまうかもしれない。

江戸時代に千島列島に漂着した日本人は、現地で会ったアイヌ人について、「猿目」と評している。
きっと、切れ長な目ではなくて、猿のように真ん丸な目が印象的だと感じたのだろう。
それは、一概に差別的な表現だとは言えない。

また、江戸時代の浮世絵画家に「あなたの描く絵は目が細いね」と言っても、差別的というか否定的な意味にはとらえないだろう。当時は、切れ長な目が肯定的に評価されていた。

現代の日本では欧米文化に影響されて、欧米人のように高身長・小顔・足長・色白・大きな目といった感じの人が憧れられたりするが、そういった価値観に付き合わなくてもいい。
目が細くても、べつに卑下する必要はない。堂々としていればいい。

私はべつに目が細くてもそのことをネガティブにとらえないので、目が細いことをバカにされてもきょとんとするだけで、バカにされていることに気がつかないかもしれない。


そういうことを考えていると、ふと、「もしかして、私も『チン・チョン・チャン』と言われたことがあるのかもしれない」と思った。
うっすらとした記憶なので、東ヨーロッパか南ヨーロッパか、コーカサスか、どこでのことかよくわからない。
ジョージア(旧・グルジア)の首都トビリシの旧市街かもしれない…

公園を歩いていると、白人系の中肉中背の比較的若い男に何か言われた。
無垢な笑顔でもなければ、見下したような笑顔でもない。恥じらいがある笑顔でもない。
ニヤニヤとニコニコを少量ずつ足したような表情だろうか。
よく聞き取れなかったけど、私は「チャン・リン・シャン」を連想した。
もしかしてこの男は30年ぐらい前に流行したリンス入りシャンプーのコマーシャルを知っているのだろうか。
「チャン・リン・シャン?」と笑顔で問い返してみた。

すると、その男は、「いやいや、×ン・×ン・×ン、だよ」みたいなことを言った。
(もしかしたら、「チン・チョン」だったかもしれない)
「チャン・リン・シャン」と言っているわけではないようだ。残念。
「それって何?」と無邪気に聞いたけど、何と言われたか覚えていない。
「名前だ」あるいは「名前は?」と聞かれて、自分の苗字か国籍を答えたかもしれない。

あまり話がかみ合わなくてすぐにその場で別れた。


たまに、外国の田舎町を歩いていると、ニヤニヤした顔を向けてくる男もいる。
多くの場合、彼らは東洋人をバカにしているのではなくて、見慣れない外来者を目にしてどう反応すればいいのか戸惑っているのだと思う。

田舎の日本人だって、白人を見たらニヤニヤしながら「鼻高! 色白!」と口にしてしまうかもしれないし、黒人を見たら「癖毛! 色黒!」などと口にしてしまうかもしれない。
それは、肯定的でも否定的でもなく率直に感じた違和感を表明しているだけかもしれない。

私は、悪意のない人に対しては、「チン・チョン・チャン」と言われても、つり目ポーズをされても、怒りを感じる必要はないと感じる。
「差別的に感じる人もいるよ」とか「気分を害する人もいるから気をつけた方がいいよ」と教えてあげる程度でいいかもしれない。

東洋人を見て「チャン・リン・シャン」と言う人が増えてきたらおもしろいなと想像する。
中高年の日本人なら、「チャン・リン・シャン」と外国人が言うのを聞いたら白い歯を見せるのではないだろうか。
打算のない、純粋な笑顔を目にすれば、心のすさんだ差別的な感情を持つ人も、あまり敵意を向けてこないかもしれない。

もし、海外で「チン・チョン・チャン!」と言われたら、「それ、どういう意味? おもしろいの? チャン・リン・シャンって言ってみて? 東洋人を見たら、チャン・リン・シャンって言った方がいいよ」と笑顔で応えたい。


ついでに言うと、人種差別だと思われている行為は、個人差別の場合も少なくない。
外国人と日本人では美醜の基準が違うと言われるけど、ある程度は一致していることが多い。
さえない表情で無気力に歩いている多くの日本人は、日本社会の中では埋没して特に問題視されることがないけど、外国ではその存在が目立つ。

日本人から見てもネガティブオーラを放っている容姿の人が「人種差別を感じた」と口にしても、それは人種差別とか東洋人差別と言うより、その人自身が否定的に見られている可能性がある。
何でもかんでも「人種差別」と言って問題視せず、個人の問題ではないかと考えることも問題解決には必要ではないかと感じる。


・参考 ちゃんりんしゃん(Soft in 1)のコマーシャル 1989年
https://middle-edge.jp/articles/I0001795


追記
目をつり上げるポーズをしてからかわれたら、自分も目をつり上げて、歯茎を見せながら口を横に広げて「レクサス!」と言ってみてもいい。
目を見開いて鼻を指で押し上げてブタ鼻を見せて「BMW!」と続けてもいいかもしれない。
車のヘッドライトが丸かろうが細かろうが、ボディーが白だろうが黒だろうが、ただのバリエーションにすぎない。人間の容姿もそんなものだと教えてあげればいい。


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コロナのおかげ

2021-08-18 21:08:32 | Weblog
2019年1月頃、コロナ禍はまだ中国に限られた話だった。
友人宅で旧正月を祝いながら、重慶での危機的な状況をスマホで見せてもらったことを覚えている。
3月にもなると日本でも緊迫感が強まって来たので、私もオーストラリア旅行をあきらめた。

コロナ禍での自粛生活はもう1年半になろうとしている。
不安を抱えたり、ストレスを溜めたりしている人も多いのではないだろうか。

だが、イラついたり攻撃的になったり鬱々としたりあきらめの気持ちになっても、状況は改善しない。
暗い気分になるだけ損するようなものだ。

お金がなくても、笑顔の絶えない楽しい生活をしている人だっている。
お金があっても、不平不満の多いつまらない生活をしている人だっている。
もちろん、お金がなくて、不平不満の多い生活をしている人だっているだろう。
しかし、嘆いても怒っても何も状況が改善されないのであれば、同じ状況なら楽しい生活をした方がお得ではないだろうか。

そういうわけで、コロナ禍で世界中たいへんな状況だけど、日々の中に、楽しみを見つけるのもいいと思う。

状況の改善は、着々と試みればいい。
人ごみに立ち寄らず、ワクチンを打って、手洗いやうがいを励行すればいい。
できることを淡々と進めながら、日々の生活を楽しむことも可能だ。

その上で、コロナ禍のよい面に目を向けてもいい。
「コロナのおかげ」というと不謹慎かもしれないが、コロナ禍によって生活様式が大きく変わったことを肯定的にとらえることもできるのではないだろうか。

私なりに、コロナ禍の肯定的な面もいくつか挙げてみたい。

■コロナのおかげ
1.新型コロナ以外の感染症の激減
マスクが日常化し、それとともにインフルエンザや風邪の感染者が激減した。感染症による死者が激減したこともあり、日本人の平均余命は長くなった。

2.テレワークの普及
この利点は多い。満員電車の息苦しさからの解放。社内のパワハラ的言動からの逃避。もちろん、社内の近くの席の人のゲップ・体臭・独り言などを気にしなくてもいいのは助かる。女性社員を「お前」呼ばわりする声や、科学リテラシーの低い「マイナスイオンを感じる」「ファイテンが効く」などといった言葉も聞かなくて済む。

3.キャッシュレスの推進
最近現金を使うのは、コインランドリーぐらい。ほとんどカードで済ませている。社会全体でキャッシュレスが進んでいるので、スーパーでの待ち時間も短くなっている。汚れた紙幣やコインを触る機会が減るのもありがたい。

4.飲み会文化の低迷
日本酒やワインは好きだけど、人工的な安酒を飲みながら騒ぐのは好きではない。ノリのいい人たちや一部の押しつけがましい人たちにとっては、みんなで集まって飲む機会が激減したことは残念だろうけど、静かに少人数でおとなしく過ごしたい人にとってはとてもありがたい。

5.静かな観光地
コロナ禍の前は、田舎の観光地にも多くの観光客があふれていた。コロナ禍により海外から人が来れなくなったこともあり、沖縄の海も北海道の大地も各地の温泉街も静かさを取り戻している。ゆっくりたたずめるのはありがたい。さすがに緊急事態宣言が出ているうちはどこにも出かけたくないけど、落ち着いたらまたひっそりと観光地に滞在したい。以前より安く旅行できるのもありがたい。

6.産業構造の変化
コロナ禍によって、オンラインでの会議・清算・申請など、新たな技術の活用が進んでいる。その変化は、日々の暮らしをより快適に過ごすことにつながっている。コロナ禍がなければ、このように速やかに新しい技術の利用が浸透することはなかった。

7.硬直した組織のあぶり出し
コロナ禍において、たいへんな思いをしている人は少なくない。困難に直面した時は、生き延びるために変化が必要だ。変化に対応できない硬直した組織は滅びることが多い。行政、メディア、医療、輸送、等々、さまざまな業界で硬直化して現状に対応できない面が表面化し、変化が進んでいる。より強靭で柔軟な社会を作ることにつながる。

8.「正しいこと」を考えるきっかけ
コロナ禍においては、さまざまなデマも流れている。何が正しいのか、何が信用できるのか、自分なりに情報を集めて考え、安易に流されないように気をつける人が増えている。
自分の頭で考えるきっかけとなっている。

9.マスクで容姿を隠しやすい
私の住んでいるエリアは、芸能人が少なくない。道端やスーパーでときどき見かける。
マスクに帽子、サングラスといった格好の小顔女性がいると、芸能人かもしれないけど誰なのだろう、と少し気になる。
現在では、マスクをしないで出歩いている人の方が珍しい。芸能人や自意識強めの人にとっては、マスクやサングラス、帽子などで顔を隠しても不自然ではない、過ごしやすい時代だと思う。
一般人も、ひげを伸ばす人が増えた。毎日剃るのは手間がかかるし、肌にもよくない。マスクで隠せるのはありがたい。

10.資産の増加
コロナ禍の影響で、海外旅行に行けなくなった。飲食店にも飲みに行けなくなった。
国内旅行に行ったり、お酒を買って自宅で飲むことはあるけど、それでも海外旅行や外食に比べたらかなり支払いは少ない。出費が減ると、その分貯金は増える。
コロナ禍当初の2020年3月頃には、株価が大きく下がった。私の持っている株の評価額も何百万というレベル以上に下がった。
だけど、その後は逆に大きく評価額が上がっている。コロナ禍のなかでも業績を大きく伸ばしている企業は少なくない。社会構造が変化するときに、大きく伸びそうな会社の株を狙うのもいいかもしれない。



自分なりに、コロナ禍のよい影響について考えてみるのもいいのではないだろうか。
コロナ禍をありのままに受け容れて観察すると、気づくこともあるかもしれない。

とは言っても、コロナ禍のよくない面もある。
突然失われる命の多さ、経済的困窮、行動の制限など。

状況は刻々と深刻化しているのに、ぐだぐだな対応がまかり通る、というのは大きな問題だろう。
ぐだぐだでもその場をやり過ごせばなんとかなるという意識は人間の成長をさまたげる。
いっそのこと、社会が壊れるような大きな変化があってもいいのではないかと感じている人も増えているのではないだろうか。


追記
欧米の生活様式がなかなか変わらないのもよくない面だろうか。
土足で部屋に入らない、部屋に戻ってきたらうがいして手を洗う、などといった習慣に移行してもいいのではないかと思う。
欧米は保守的な人が多いのだろうか。
思想的には寛容を主張していても生活習慣が変えられない人は多そうだ。


追記
11.平日の昼間に住宅地をうろうろしていても不審に思われない
も加えておきたい。
コロナ禍以前は、平日の昼間に近所を歩いていると、少し人々の視線が気になった。
ところが、テレワークが一般化してからは、自営業者や平日が休日の人だけでなく、一般的な会社員が平日の昼間に私服で出歩くこともめずらしくなくなった。
平日にふらふら住宅街を歩いていても不審者を見るような目を向けられなくなったのはありがたい。

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映画

2021-08-04 20:19:57 | Weblog
都内の新型コロナ感染者数は連日3千人、4千人と激増。
昨年、「都内で20名も感染者が出たらしいから今日会うのはやめておこう」と留学生と話したことを思い出す。
あの頃の100倍以上の感染者数なのに、オリンピックのメダル獲得がニュースの中心で、世の中は比較的平穏だ。
ワクチン接種が進み、感染者数の割に重症者数や死亡者が少ないことも影響しているのかもしれない。

オリンピックの会場は無観客だけど、劇場も映画館もライブハウスも、多くの人であふれている。
密室ではない国立競技場よりも、空気の入れ替わりが少ないライブハウスの方が危険だと思うのだが、どうなっているのだろうか。
自分でリスクを考えて、とりあえず小型のライブハウスに行くのはしばらく控えておきたい。

だけど、久しぶりに映画は見に行きたい。「竜とそばかすの姫」など、見たい映画がいくつかある。
映画のチケットは2019年6月に1800円から1900円に値上がりしたので割高な印象だけど、女性と見に行くと安くなる。
「夫婦50割引」は2人で2200円から2400円に値上がりしたけど、まだまだ安い。

> 夫婦50割引
> ※どちらかが50歳以上のご夫婦のみ。 ※年齢の証明になる身分証(運転免許証など)のご提示お願いいたします。 ¥1,200

ちなみに、「夫婦50割引」で入場する時、夫婦である必要はない。カップルで問題なし。
(同性カップルの場合はどうなのか知らない)
また、今まで50歳以上であることの確認を求められたことは一度もない。何もなくふつうに入場。
(白髪と薄毛がID代わりになっているのかもしれないが…)

また、夫婦のどちらかが50歳以上であればいいので、男性が50歳、女性が30歳でも1200円×2人で鑑賞できる。

TOHOシネマズは2021年7月7日に「レディースデイ」を廃止した。
「映画を安く見たいけど、レディースデイがなくなってしまった。60歳以上のシニア割引の対象ではないし、どうしよう」と思っている女性もいるだろう。
そういう人は、50代以上の男性と映画を見に行けばいい。
場合によっては、映画代を払わなくて済むかもしれない。
(私は、おごってもらうことを前提にしているような自立していない女性とはあまり出歩かないが、自分の分を払うような姿勢を見せる人の分は全部払うことが多い)


最近は50代独身男性がとても多い。出会いがないと嘆く人も多いけど、たまには知り合いの女性を映画にでも誘ってみればどうだろう。
まあ、声をかける程度で、深追いは不要。
「割安で映画を見られるから、よかったらどうぞ」「まったく特別な意味はない」「都市部ではちょっと時間の空いた時に男女で映画を見に行くのは自然」といった意識で、あくまでも気軽に。
日常会話の中で映画に言及して、あの映画見てみたいね、という話になれば、声をかけやすいと思う。


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反省記

2021-08-02 20:47:01 | Weblog
1990年代には、アスキーの西和彦、という名前をメディアでよく目にした。
あまりパソコンにも実業界にも興味がなかったので関連書籍を読んだことはなかったけど、2020年に出た『反省記』という本はとても興味深かった。
ビジネス書というよりも、天才的アウトサイダーの奮闘記、といった印象。
エピソードに驚く。
早稲田大学理工学部3年のときにビル・ゲイツに直接国際電話をかけて4か月後の1978年6月にはアメリカに会いに行ったり、20代でアメリカのマイクロソフトの副社長になって、世界初のノートパソコンや世界初の「右クリック左クリック」マウスを開発したり。
経営方針の対立などでマイクロソフトをやめさせられて、1977年5月に月刊アスキーを創刊。巻頭言では、「コンピュータは対話のできるメディアなのです」と宣言。
その後、アスキーが大赤字になってたいへんなことになったり、40代半ばからは大学講師など教育の道にも進んだけど、公立会津大学の学長選へ立候補しても落選したり。
人生のアップダウンが激しいけど、興銀元頭取の中山素平、CSK創業者の大川功といった賢人の指導を受け、人間的にも多くのことを学ばれている様子。

ネットで検索してみると、小田原市の関東学院大学のキャンパスがあったところには「日本先端大学」、群馬県の東洋大学のキャンパスがあったところには「日本先端情報大学」を作るつもりだとか。
とても興味深い。京都で日本電産の永守重信会長が経営する「京都先端大学」と並んで楽しみな大学だ。


印象深かったところをいくつかメモ。
というか、神戸のお嬢様は「やめてごらん、何々よ」といった口調で話すのだろうか。以前、神戸の高級住宅街に住むお上品な女性があまり関西弁を口にしないように感じたが、そういうものなのだろうか。
(もしかしたら、関西弁を話さない私に合わせて共通語を話してくれただけかもしれないが)
関西の庶民は、「人と喧嘩するのやめーや。喧嘩売られても我慢せーや」などと言うのではないかと思う。


『反省記』西和彦、ダイヤモンド社、2020年9月

P7
(略)マイクロソフトで喧嘩して、アスキーでも喧嘩して、まさに喧嘩男のちゃぶ台返しの人生。「あ~あ、バカだなぁ……」とため息が漏れる。
 子どもの頃に、妹に言われた言葉を思い出す。何か気に入らないことがあると、すぐに喧嘩をしていた小学5年生の僕に、妹はこう言ったのだ。
「お兄ちゃん、人と喧嘩するのをやめてごらん。喧嘩を売られても、我慢するの。そうするとすぐに学級委員長になれるよ。学級委員長になっているのは、喧嘩をしない子よ」

P70-71
 小学三~四年の頃には、こんなこともあった。
 学校で全生徒を対象にIQテストを行ったのだが、僕のIQは191と出た。すごくよい数値だった。しかし、先生はおかしいとか言って、もう一回テストをやらされた。すると、今度は200を超えた。それでも、先生は「やっぱり、おかしい」と言う。「こんなにIQが高いのに、こんなに成績が悪いはずがない」と言うのだ。それで、結局IQ150ということにされた。そんなんありか?

P150
 大事なのは、関西でいう「ええかっこ」をしないことだ。「へへ、ちょっとごめんくださいませよ」と潜り込んで、ニコニコ笑いながら言いたいことを言って、「はい、さよなら」とやる。浪速の商人みたく、低姿勢に、だけどしたたかにやる。これは、世界中で通用するビジネス・マナーだと思う。そして、これが身についてきたら、僕も本格的に遠慮がなくなった。

P187
 僕が果たすことができたのは、格好よく言えば「プロデューサー」の役割だ。世界のパソコン・ビジネスの最新情報を常に摂取しながら、僕なりの「理想のパソコン」をイメージする。そして、「理想のパソコン」を作るためには、どうすればいいかを考える。
 ただし、ゼロから考えるわけではない。「誰」と「誰」を結びつけて、「あの技術」と「この技術」を結びつければ、できるんじゃないかと考える。つまり、すでに存在している「要素」を組み合わせるのだ。そして、僕は、それらが融合するように働きかける。すると、その「場」に集った方々が創造性を発揮されて、世界にも通用するイノベーションが生み出されたのだ。

p402-403
 僕が何より否定的だったのは、「金の勘定」だけをする人たちだった。CSKには証券会社から移ってきた人もいたが、彼らの多くは「金」にしか興味がないように、僕の目には映った。
もちろん、「金」は大事だ。僕は、アスキーで「面白い!」「行ける!」という感動を起爆剤にして、金勘定を度外視するように事業を多角化して失敗した。そして、リストラのプロセスで、「実現可能性」「収益性」などを多角的にチェックする思考法を叩き込まれた。いくら「感動」があっても「金」にならない事業はやらない、ということだ。
しかし、「金」のことばかりで、出発点に「感動」のないプロジェクトが成功などするはずがない。そんなものが、お客様の心に響くはずがないではないか。それは、「モノづくり」に対する冒涜だとすら思う。結局、そんなビジネスは失敗する運命にあるのだ。

P442
 そして、現在、神奈川県小田原市にある関東学院大学のキャンパスに、「日本先端大学」という名称の新設大学を創立すべく活動を進めている。
 工学部のみの単科大学として、IoTメディアなど3学科を創設する予定だ。海外からも教員を集め、理系に尖った人材を育てるとともに、MITメディアラボラトリーのように、起業までを視野に入れた体制を整えたい。そこには、僕がこれまでに培ってきた、世界中の研究者・実業家のネットワークを活かせると思っている。2~3年以内には、開学に漕ぎ着けるべく準備を進めているところだ。

P455
 感謝している時が「幸せ」なのだ――。
 この気づきこそが、これまでさんざん経験をしてきた失敗から学んだ最大の知恵だと思う。


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選挙

2021-07-26 23:29:33 | Weblog
知り合いに政治家はいない。
だけど、たまに知り合いがtwitterやfacebookで政治家について言及しているのを目にすることがある。
山口という国会議員は知っている教授の同窓らしい。兵庫の有名私立進学校から東大。

先日、兵庫県知事選に出ていた斎藤という人も、知り合いの知り合いらしい。信頼できる人だとか。
しがらみに流されがちな政治の世界で、比較的若くて行動力のある人に期待する人は多いだろう。

https://www.kobe-np.co.jp/news/senkyo/2021/0014459738.shtml
> 兵庫県知事選
> 当 斎藤元彦 858,782 無新
>   金沢和夫 600,728 無新
>   金田峰生 184,811 無新
>   中川暢三 140,575 無新
>   服部 修  46,019 無新

知事選の同日には、兵庫で町長選や市議選も行われていた。
ちょっと見てみると、上郡町長選は大接戦だったようだ。40票差。負けた方はとても悔しいのではないだろうか。

https://www.kobe-np.co.jp/news/senkyo/2021/0014496616.shtml
> 上郡町長選
> 当 梅田修作 3,073 無新
>   琴川邦寛 3,033 無新
>   遠山 寛 2,683 無現

立候補者の経歴を見ると、関西学院大経済学部卒、早稲田大学人間科学部卒、早稲田大学法学部中退。皆さん高学歴。

>立候補者
> 07月13日 17:00現在 届け出順経歴の見方
> 遠山 寛 とおやま・ゆたか/73
> 無・現2 白陵高評議員 関学大経済
>
> 梅田 修作 うめだ・しゅうさく/52
> 無・新 不動産業 早大人間科学
>
> 琴川 邦寛 ことかわ・くにひろ/66
> 無・新 元衆院議員秘書 早大法中退

早稲田大学の人間科学部は新しくできた学部ではないだろうか。
検索してみると、人間科学部が設置されたのは、1987年。
52歳の人が18歳だったのは、1989年? 初期の入学者なのかもしれない。

また、早稲田大学の人間科学部といえば、学力試験なしで入れる通信制のeスクールが有名。
何人ものジャニーズアイドルが履修していた。

この、早稲田大学人間科学部eスクールは一般の人間科学部と異なり、学科がないようだ。
梅田修作という人の公表している経歴を見ると、早稲田大学人間科学部卒。2015年からは慶應義塾大学法学部政治学科に在籍。
慶應は学科まで書いているのに、早稲田は学部までしか書いていない…
人間科学部eスクール履修者ではないだろうか。

> 梅田修作@umeda_syusaku
> 「若い世代が住みやすい町」「活気ある魅力的な町」を作るため、議員に。現在3期4年目。早稲田大学人間科学部卒。2015~慶應大法学部政治学科。

「2015~慶應大法学部政治学科」と書いているのも、通信制の法学部乙類である可能性が高い。
https://www.tsushin.keio.ac.jp/faculty/law/

正直に「早稲田の通信課程を履修してから慶應の通信課程に進んでがんばって学んでいます」と書けばいいのではないだろうか。
あえて「早大卒。慶應在籍」と書くのは、有名大学の名前を利用しようとしているように見えてしまう。
見る人が見ればわかる、虚飾。

下記のような学歴を比較すると、関東と関西では評価が異なるだろう。

> 関西学院大学経済学部
> 早稲田大学人間科学部
> 早稲田大学大法学部中退

関東では、関西学院大学を「かんせいがくいん」と読むことも知らない人が多いし、所沢市にある早稲田大人間科学部の難易度が体育系学部並みに低いと思っている人もいる。(近年はかなり難化しているらしい)
関東の人から見ると、中退とは言っても早大法学部がいちばん頭がよい印象ではないだろうか。
だが、関西の人から見ると早大中退はいちばん低く見られるかもしれない。


下記のような経歴だったらどうだろうか。

> 有名私立進学校から関西学院大学経済学部に進学して卒業
> 無名公立校を出てから早稲田大学人間科学部eスクール(通信課程)を履修
> 有名私立進学校から早稲田大学大法学部に進学して中退

通信課程履修者だけちょっと経歴が違うな、と感じる人も多いだろう。
学力試験なく入学できる通信課程の履修者は、学力試験を経て入学した人と大きな学力差がある。

卒業証書に「早稲田大学人間科学部通信課程」と書いてあるのに、経歴から「通信課程」を隠すのは妥当だろうか。
有権者が立候補者の能力を正しく判断するためにも、大きな学力差が推測される場合、卒業証書通りに「通信課程」の履修者であることを記載すべきではないだろうか。

そういえば、知り合いに、法政大学の夜間部を修了した人がいた。卒業証書には「通信課程」とか「夜間」とか「二部」の記載はなく、昼間部と同じだった。その場合は、就職活動中に夜間卒であることを名乗らなくても何も問題がなかったらしい。

町長選で僅差で負けた琴川という人は、山口壮という国会議員の秘書をしていた人だそうだ。
そうすると、知り合いの知り合いの元部下。
ちょっと親しみを感じるけど、残念でした。
選挙期間中に、梅田修作という人の経歴誇張(詐称?)疑惑を問題視していたら、逆転できていたかもしれない。
早稲田卒は早稲田中退より偉い、と思い込んでいる田舎の人もいるだろう。
早稲田の法学部に入ることは、無試験で入れる人間科学部eスクールを修了するよりはるかに難しいんだ、ということを周知していれば、結果は異なっていたかもしれない。


地方の市町村では選挙管理委員会もあまり機能していないのか、学歴の記載に関する規定がないところも多い。
その穴をついて、「通信課程」を隠してスペックを高く見せる立候補者もいる。
そういった人は、選挙公約で美辞麗句を並べても、飾りだけである可能性が高い。
騙される有権者にも責任がある。
この、上郡町という自治体は急速に少子高齢化が進み、いろいろ問題を抱えているようだけど、状況が好転することはあるのだろうか。

新しい兵庫県知事には、日本社会の縮図のような、小さな市町村の問題点もばっさり刷新するような取り組みを期待したい。


追記 facebookを見ると、梅田修作さんが早稲田大学人間科学部で学んだのは2010年5月からのようだ。
2011年10月の町議選で初当選しているようなので、通学ではなく通信制(人間科学部eスクール)の可能性が高い。





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ベンデレ、グリーズマン

2021-07-10 16:18:18 | Weblog
関西出身の日本代表サッカー選手が東南アジアに行ったとする。
ホテルで電球が切れていたのでフロントに電話すると男性スタッフが何人か来た。
でもスタッフはぼんやり天井を眺めたままで直らない。時間だけ経ち何の説明もない。
モテなさそうな珍妙な容貌のスタッフは表情も変えずコミュニケーションもなくたたずんだまま。

いったい何をやっているんだ? とサッカー選手はイラついてくる。
動画を撮りながら「こいつら何ボーっと突っ立っとんねん。ブッサイクやで。暗いわー。アホちゃうか。何しとんねん。ほんま殺してしもたろか?」などとつぶやいたとする。
同室の他の選手も暇だし仲間のイラ立ちも理解できるので一緒になって笑う。

友人に送った動画は、2年後にyoutubeにアップされて注目された。
ちょうど人種差別が世界的な話題になっていた時期なので、目をつけられたのだろう。
しかし、その動画では英語での翻訳文がちょっと原文と意味が異なっていた。
「彼らはなぜウスノロで立ち尽くしているのか。醜い、黒い顔だ。無能じゃないだろうか。何をしているのだろう。ほんとうに殺してしまいたい!」

この訳文を見た人たちは非難の声を上げる。
これは、とんでもない人種差別ではないか。言ってはいけないことを言っているのではないか。この日本代表選手を追放すべきではないか。そんな声が高まる。

中には、サッカー選手を擁護する人もいる。
「言うべきではない汚い言葉だけど、関西ではイライラした時の慣用句のようなものだ。ブサイクとか殺したろかというのは、容姿を見下したり殺人をほのめかしたりというのではなく、不満を感じたときについ口に出してしまう言葉だ。関西の芸人さんもよく言うではないか」
しかし、世論はおさまらない。

サッカー選手は「差別の意図はありませんでした。ブサイクとか殺してしもたろかという言葉は仲間内のスラングで、特定の人を侮蔑する意味はありません。でも気分を害されたのならすみません。謝ります」と謝罪コメントを出した。
それが言い訳にすぎないとしてさらなる炎上を呼び、サッカー選手は人種差別者のレッテルを貼られ、肩身の狭い思いをすることになった…


フランス代表選手のベンデレとグリーズマンの一連の騒動を見ると、そんな状況を想像する。
日本人も、海外で安易に荒っぽい言葉遣いをしない方がいい。差別主義者のレッテルを貼られ、疎外・排斥されてしまうかもしれない。


ほんとうは、共同体や組織の維持発展に不適切な行為を否定し排除することが、差別的な構造のベースにある。
劣っている者、不適切な者、間違っている者、などと認識される人々は、価値がない者として社会からはじき出されがちだ。

時代の変化や共同体の位置する場所によってそれぞれ価値観が異なるので、ある時代やある文化圏では問題とされていない価値観や構造が、別の時代や文化圏では差別的あるいは抑圧的として問題視される場合もある。
現代社会において、自分は一切差別などしていないと思っている人でも、後世の人たちからは「犯罪者差別」「動物差別」「害虫差別」「なまけもの差別」「薄毛差別」「多重恋愛者差別」などに積極的な差別者として認識されるかもしれない。


本当に世の中から差別問題をなくしたいと思っている人であれば、間違っていると思われる行為をしている人に対して、非難・見下し・否定・疎外などの姿勢を見せない方がいい。
「間違っているものを排除すれば問題が解消される」と認識するのは、まさしく差別をしている人たちと同じレベルの意識だからだ。

自分の価値観について自覚的な人々が増えれば、少しずつ差別問題の少ない世の中になるのではないだろうか。
差別をなくそうとしている人が、差別者と同じようなことをしているうちは、差別はなくなりようがない。
差別に反対している学者や評論家や精神科医やタレントさんたちが、差別的な人を攻撃し、価値のない人扱いして見下している様子を見ると、残念に感じる。
非難も侮蔑も怒りもなく、状況を変えることは可能だ。



https://news.yahoo.co.jp/articles/3047829801b9528f8e2469c5f3a46ed2dbce13b2
デンベレ差別発言を謝罪も「逆ギレ」と収まらず 批判と異なる「差別コメント」の日本語投稿も
7/6(火) 20:10配信
 サッカー・フランス代表のFWアントワーヌ・グリーズマンとFWウスマン・デンベレは、過去に日本滞在中に撮影された差別的発言を含む動画について、2021年7月5日、自身のSNSを通じて謝罪した。
 2人の謝罪内容もまた物議を醸し、日本のツイッター上では「開き直り」「謝るどころか逆ギレしてる」と批判が集まっている。その一方で、デンベレのインスタグラムには批判とは異なる、明らかな「差別的投稿」も相次いでいる。
■フランスメディアも批判
 グリーズマンとデンベレはフランス代表の中心的選手。ともにFCバルセロナ(スペイン)に所属する。19年7月にはクラブの日本ツアーで来日していた。
 問題になっているのは、その来日時にホテルの一室で撮られた40秒ほどの動画。2人はサッカーのテレビゲームをするため、ホテルのスタッフにセッティングを任せていた。しかし、デンベレはセッティング中のスタッフを前に、フランス語で「醜い面」「ひどい言葉だ」などと発言。グリーズマンはデンベレの隣で、終始笑みを浮かべていた。
 この動画が21年7月2日にインターネット上で拡散され、「日本人差別ではないか」と批判を集めた。3日には日本のウェブメディアが動画の内容を相次いで報じた。4日にはフランスで最も歴史のある日刊紙「フィガロ」電子版が動画を取り上げ、「人種差別的な発言」「悪い冗談を言いながら、スタッフの出自を公然と馬鹿にし、不快なカメラズームと太い笑い声を繰り返している」(編集部訳)と批判した。
 そうした中、5日夜にデンベレとグリーズマンは自身のSNSを通じ、騒動を謝罪した。
 デンベレはインスタグラムのストーリー機能を通じてメッセージを投稿した。動画での発言は「プライベートで、友人との間で、相手がどこの国の人であろうと使う傾向があります」と説明。動画はもともとプライベートで撮影されたとした上で、「このビデオが公開されたことで、そこに映っている人たちが傷つく可能性があることは十分に理解しています。だからこそ、彼らに深く謝罪したいのです」とした。
 グリーズマンはツイッターで、フランス語で次のような文章を投稿した。
「私は、どんな差別にも反対してきました。ここ数日、ある人たちが私をおとしめようとしています。私に対する非難には断固として反論し、日本の友人たちを怒らせてしまったならば申し訳ないと思っています」



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有観客開催

2021-06-15 20:14:11 | Weblog
東京オリンピックは、国内のチケット購入者を観客席に入れて開催されるだろう。
そうなった際に、どのように入場や退場を進めるのか、マニュアルは用意されているはずだ。

日本人はルールを守る人が多いので、スムーズな入退場や静かな観客席は世界のメディアにも好意的に報じられるかもしれない。
しかし、どこにでもルールを守らない人もいれば、マニュアル通りにいかないこともある。

問題が発生した時にどのように対処するのか、そういったところまで考えておけば、スムーズに開催・運営されるのではないだろうか。


そのようなことをふと思ったのは、6/13(日)に中野サンプラザで行われたAJICO(UAと浅井健一のバンド)のライブを見に行ったからだ。

非常事態宣言中だが、2222席ある会場で客の入りは100%。5/18に同じ場所で行われた岡村靖幸のライブは50%で、一席ごとに空いていたが今回は満席だ。
(ちなみに、岡村靖幸のライブのチケットは1万3~4千円。AJICOは8~9千円。席数が少ない方が高く設定されていた)
ライブ会場もスポーツイベントも映画館も飲食店も通勤電車もユニクロも人であふれているというのに、競技会場だけ無人にしてもポーズにすぎないのではないだろうか。

ライブ会場に入る際は、座席の列ごとに時間差を設けて並び、手を消毒し、といったマニュアルに沿ってスムーズに運営。
ライブ中も多くの人が立ち上がっていたけど騒ぐことはなく、咳き込む人もなく、とくに危険は感じなかった。

それでも、指示を守らない人もいた。
アンコールで声を上げる人。終演後は列ごとに退出を指示されるけど、ダッシュして去っていく男。
帰るときに「ロビーにとどまらないで」とアナウンスが流れても仲間内で集まって会話する人たち。
ライブ中も、ときどきウィスキーの香りがしていた。酒類は禁止だけど、ペットボトルに水割りを入れて持ち込んでいる人がいるのだろう。

東京オリンピックでもおそらく決まり事を守らない人は出てくるだろう。
席でお酒を飲んだり、声を上げたり。退出の指示を守らないで自分だけ先に走って帰ったり。

結果的に、競技会場で新型コロナを感染させたり、感染させられる人も出てくるかもしれない。
リスクを感じる人は、チケットを持っていても会場に行かないという選択肢も検討すべきだろう。

コロナ禍において、私たちは自分で自分の身を守ることの必要性を学んだのではないだろうか。
運営者や政府や区役所に任せておいたのでは、自分たちが不利益をこうむる恐れがある。
責任を追及してもうやむやにされる可能性が高い。
自分の身は自分で守る必要がある。そのことを自覚して行動する人が増えれば、日本の政府や区役所などの、うやむやな姿勢が変わるのではないだろうか。
責任者のレベルは、一般人のレベルに比例しがちだ。

あいまいでその場しのぎの姿勢を見せる政府やJOCやスポンサーなどに不満をぶつける人も多いだろうけど、おそらく日本社会のレベルがその程度なのだ。
もう開催が止められない段階になってから人々が不平不満を述べたところで、問題は解消されない。
不安や怒りを感じても何も変わらないのであれば、状況を把握して自分の身を守る行動をした方がいい。

日本社会の各所に見られる非論理的なその場しのぎの傾向は、よほど手痛い目に遭わないと変わらないのかもしれない。
もしかしたら、ひどい目に遭っても変わらないのかもしれない。
そうであれば、まずは自分だけでも意識や行動を変えてもいいのかもしれない。
コロナ禍のなかで、そのように考える人も増えたのではないかと想像する。


そういうわけで、私はオリンピックが開催される頃は東京の喧噪を離れ、広々としたラベンダー畑でも眺めながらゆっくりするつもりだ。
状況を把握し適正化するには、不平不満を感じたり、他者を咎めたり、非難したり、恨んだり、憎む必要はない。
不平不満を感じるだけ、自ら重荷を背負ったりストレスフルなものに目を向けるようなものではないかと感じる。


※7/10追記
一都三県の会場は無観客になったらしい。7/12~8/22まで東京と沖縄は非常事態宣言だそうだ。8月に茨城で予定されていた大型ロックフェスも中止。
それでも、都内の大型ライブハウスではライブが行われる。アーケード街も人だかり。新宿や渋谷の雑踏では咳き込んでいる人もいる。
中止・実行の基準があいまい。付き合っていられない人は、政府や医師会の指示の有無にかかわらず、しれっとやりたいことをやるのではないかと想像する。

※7/14追記
昨日、初台の新国立劇場に行って、三谷幸喜作品の「日本の歴史」を見た。日本の歴史とテキサスの家族の歴史が交差するエンタメ系ミュージカル。ベテラン俳優に加え、秋元才加や宮澤エマもよく通る声でいい舞台だった。中劇場は千人以上入るらしいが満席。席と席の間には仕切りが設置されていた。非常事態宣言中でも劇場や球場はごった返している。無観客のオリンピックを不思議に感じる。まあ、ずいぶん前にオリンピックのチケットは払い戻してもらってるから関係ないけど。



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新聞記者

2021-06-04 20:28:21 | Weblog
むかし、同僚女性が新聞記者の中途採用試験を受けた。
試しに私もついて行ったら、私だけ筆記試験に受かってしまい少し気まずかった。
東京支社で受けた面接では、「今の勤務先の方がいいのではないか?」などと言われて採用されなかった。

何年も後にあるイベントの会場で、その新聞社の東京支社長(当時)と偶然知り合いになった。
もし、その人と早く出会っていれば、私は今ごろ新聞記者になっていたかもしれない。

だけど、実名で記事を書く記者は、バッシングを受けることも多い。
99本の正確な記事を書いても、1本不正確な記事を書いただけで、全否定されることもある。
記者の仕事も責任重大でたいへんだな、と感じる。
(最近は記者も危険性の高い権力者・扇動者扱いされているのか、市民から監視や批判の対象になることも少なくない)

以前、ある記者が叩かれていたことを覚えている。
知り合いの元東京支社長と同郷の、その記者の実家はのどかな田舎のよい所にある。

http://asunaroojisan.blog113.fc2.com/blog-entry-4193.html
> おい朝日! 慰安婦の検証事案で世間を騒がしている最中に、よりによってこんなポン助記事を! 記事の執筆者の「小河雅臣」とやらは第二の植村隆か!、それともただのアホか!

http://ameblo.jp/mikan-ha417/entry-11908787153.html
> マンガン記念館についていて書いた小河雅臣なんて記者の名前を聞くのは初めてですが、正義感溢れる左巻きの青年なんでしょうね。証拠はないけど日本は悪いことをしたに決まっている!

2014年ぐらいに、マンガン記念館についての記事についてずいぶん叩かれていた。
たしか、この記者は橋下知事(当時)について攻撃的な記事を書いて一部から反発を招いていた。

多少事実誤認があっても、全体として人権の尊重や弱者の救済や平和や民主や社会正義につながり、そういったことを旗印にする勢力の拡大に役立つのであれば、容認するという人もいるだろう。

小河記者は、2020年の段階では朝日新聞大阪社会部次長になっている。
たしか筑波大学の国際関係学類(当時)を出て1997年に入社。朝日新聞社で順調に出世しているようだ。
最近はジャーナリズム賞を受賞。おめでとうございます。

https://www.koekizaidan-sakatakinen.jp/pc/free9.html
>第27回坂田記念ジャーナリズム賞授賞理由一覧(敬称略)
【第2部門】(国際交流・国際貢献報道)
 新聞の部 坂田記念ジャーナリズム賞特別賞(1件)
   ★朝日新聞大阪社会部・国際報道部・映像報道部取材班
    代表=朝日新聞大阪社会部次長・小河雅臣
    被爆75年と冷戦終結30年の節目でのゴルバチョフ元ソ連大統領への単独インタビュー


ただ、丹波マンガン記念館については、田中宇さんの本が、古典的な名著?として有名だ。
この本を読んでいれば、安直な記事は書けない。
小河雅臣記者は、この本を読まずに取材したのではないだろうか。
そういえば、この本の書評は読売や産経には掲載されていたようだが、朝日や毎日には載っていなかったようだ。世界観に合わなかったのだろうか。
http://tanakanews.com/i11.htm
(小河記者のことを非難する人も、的外れなことを言わないためにも読んでおいた方がいいと思う)

ジャーナリストの田中宇さんは、どちらかというと保守派ではなくリベラル。右ではなく左。中国韓国に対して否定的な姿勢ではない。
だけど、地道な取材を続けると、思い描いていた構造が現実に当てはまらないことに気づくこともある。

少なくとも、田中宇さんの慎重な調査では、マンガン鉱山での強制連行や徴用は確認できなかった。
しかし、小河雅臣さんの記事を読めば、マンガン鉱山で強制連行による強制労働が行われたように読める。
小河記者は、何か新情報を得ることができたのだろうか。
もし、地道な調査を行わず、一方の利害関係者にとって都合の良い記事を仕立て上げたのであれば、ジャーナリストとして誠実な行為だろうか。
権力者におもねるのも、反権力の人の世界観を無条件に肯定するのも、似たようなものではないだろうか。

小河記者は、もし誰かが「私の祖父は小河記者の祖父と共に中国に出征した。体格のよかった小河記者の祖父は無抵抗の捕虜や市民を残虐な方法で殺害するなど、非人道的な行為を行ったと伝え聞いた」と証言したら、どう思うだろうか。
証言があれば、まずは調査を行うのではないだろうか。
そこで、実際にひどい行為をしていたことが判明したら謝罪し、していなかったのであれば汚名をすすごうとするのではないだろうか。
一方的な証言を元に、自分の身内を犯罪者扱いして貶めたりはしないのではないだろうか。

最近、久しぶりに『マンガンぱらだいす』を読み直して、ふとそんなことを思った。


<参考>
http://tanakanews.com/mangan3.htm
http://tanakanews.com/mangan4.htm
『マンガンぱらだいす 鉱山に行きた朝鮮人たち』田中宇著、風媒社、1995年
P28-29
 事業を次々に思いつくが、なかなかうまく行かない。生活に困り、一家でトラックに乗り、町内の廃品回収もしたが、これも田舎では廃品が少ないので失敗した。農家が多い田舎町では、貞鎬さんのような人は奇異な存在だった。孤立無援の状態が続いた。
 そんな貞鎬さんが、鉱山を使った事業として最後に考えたのが、マンガン記念館だった。この、最後の「ほるもん事業」は成功した。マンガン記念館には開館直後から、マスコミが取材に来るようになった。虐げられてきた在日朝鮮人たちが自分たちの歴史を残すため記念館を作った、というストーリーが、ジャーナリストたちの正義感をくすぐったのだ。ニューヨークタイムズまでが取材に訪れ、大きな記事が出た。記念館の展示室には、その記事が誇らしげに掲げてある。かく言う私も、通信社の記者として記念館を取材し、記事を書いた一人だった。

P38-39
 記念館がオープンしたのはちょうど、強制連行や朝鮮人従軍慰安婦のことがクローズアップされ出した時期だった。日本の戦争責任を考える市民グループには、学校の先生が多い。それで記念館には、ドライブなどで訪れる人々に混じって、課外授業で先生に連れられて小中学生がやって来た。市民グループの団体も多くなった。在日朝鮮人が自分たちの歴史を残すために作った博物館は、日本でここだけしかないということも、遠くから人々が訪れる理由となった。(略)
 告発調の展示がないにもかかわらず、記念館に置いてある感想文ノートには、ざんげ調の文章が多い。(略)まるで奉納した写経か絵馬のように、同じような文章が並んでいる。日本の戦争責任を重く考える「良心派」の人々が書いたものだ。

P40-43
(略)だが息子の竜植さんは、なぜ貞鎬さんがしきりに賞賛されるのか、どうも納得いかない。(略)
 竜植さんが「良心派」の日本人たちと比べ、マンガン記念館や鉱夫たちのことを覚めた目で見ているのは、父親をはじめとする在日朝鮮人一世、二世たちの仕事ぶりを、つぶさに見てきたからだ。
(略)生活していくためには、法律違反すれすれの、少々やばいことでもしなければならない。貞鎬さんが交通事故の示談屋をしたり、企業恐喝まがいのことをしてきたのも、そうした背景があったからだ。
 だが、良心派の人々は在日朝鮮人のこうした各種のやばい事業について、詳しく知りたいと思っていない。知ってはいけないし、在日朝鮮人にそのことを穏便に尋ねることすら良くないこととされている。それは、日本が朝鮮を植民地支配し、戦後も在日朝鮮人を差別してきたことについて、罪の意識を持っているからだ。良心派の人々の多くは、日本人は、朝鮮人を批判したり、ありのままをとらえて見る権利が全くないと思っている。
 こうした掟ゆえ、良心派の人々は、貞鎬さんのことを賛美することはできても、批判することはできない。「ほるもん事業」の闇の部分の存在を感づいても、貞鎬さんにそれをあれこれ尋ねることはタブーである。かくいう私も、そのタブーを長く感じていた。
 竜植さんは、そういった良心派のいかがわしさを批判しているようだ。

P53-57
 その後、京北町の北にある美山町に住む在日一世の男性、全谷介さんに会いに行った。谷介さんは平成四年に八十七歳で亡くなったが、私たちはその少し前、平成三年四月に、谷介さんがじん肺で入院していた美山町平屋の病院を訪れた。(略)
 「田中さん、質問してください」と貞鎬さんに促されたものの、私は谷介さんの痛ましい姿を前にして、「加害者」である日本人としてどう振舞って良いか分からず、委縮してろくな質問ができなくなってしまった。その日はちょうど、朝鮮日報の記者で、在日二世の女性、鄭容順さんが同行していた。私は「在日朝鮮人の容順さんなら、質問しても大丈夫だろう」などと思い、容順さんに質問してもらった。すると、話の中にこんなやり取りがあった。
 容順「日本人に言いたいことはありませんか」
 谷介「ありません。みんな大切にしてくれるから」
 容順「今は、大切にしてくれますからね」
 谷介「今じゃなくても、その時(昔)でも」
 日本語がたどたどしく、言葉が聞き取りにくい谷介さんが、日本人への恨みを聞かれ、「ありません」と、意外にはっきりした口調で言ったことが、強く印象に残った。その言葉は、聞き取りに来た私が、日本人に酷使された朝鮮人、という先入観を持っていることを戒めるような、きっぱりした口調だった。
 丹波の在日朝鮮人一世の話を聞くにあたり、日本人につらい思いをさせられた、苦労させられた、という話が多いと思っていた。だが、出会った人たちは、淡々と体験談を語り、日本人がいかに悪かったか、という視点で描くことは難しかった。
 「悲惨さ探し」をしようとすればするほど、逆に全谷介さんの話を聞いたときのように、「朝鮮人=悲惨な人生」というステレオタイプを壊すことを迫られる結果になった。日本人につらい思いをさせられた朝鮮人の歴史を綴ることで、加害者としての日本人の立場を問い直す、という当初のストーリーは、朝鮮人元坑夫やその未亡人に二十人近く会った段階で、見直さざるを得なくなった。
 しかも、私たちが取材した範囲では、朝鮮半島から直接、丹波のマンガン鉱山に国家の計画による強制連行(徴用)をされて来た人は見つからなかった。唯一、強制連行で来たのは金甲善さんという人だったが、甲善さんが強制連行されたのは、マンガン鉱山ではなく、京都府亀岡市にあったタングステン鉱山だった。(略)丹波のマンガン鉱山は、いずれも規模が小さかったので、強制連行で労働者を集める必要はなかった、と私は推測している。

P58
 地質学の調査のため、マンガン鉱山を三十年以上にわたって見てきた、京都教育大学の井本伸広教授は、「鉱山関係者には、差別意識や偏見を持たずに朝鮮人とつき合っていた日本人が多かった。地域の日本人と朝鮮人の関係は、日本政府が在日朝鮮人を差別してきたこととは、分けて考えなければならないと思います」と言っている。
 そんなわけで、日朝合計で三十人以上の人に会い、取材をしたが、悲惨な話は見つからなかった。私は行き詰ってしまった。

P221
 終戦直後に帰国した人の中には、帰国したものの、すぐに日本に帰ってきた人もいた。(略)
 在九さん夫妻は半年ほど故郷で生活した後、日本に戻ることに決めた。釜山まで行ったものの、連絡船には日本人しか乗せないと断られた。戦時中に朝鮮で暮らした日本人妻とその家族を装って、押し問答の末、ようやく船に乗り込んだ。
 「当時、朝鮮は日本より、生活が苦しかったから、故郷に帰ったものの、すぐに日本に帰ってきた朝鮮人は多かった。船の中では朝鮮人に恨みを持ち、狂ったように泣く日本人が何人もいた。皆、朝鮮人をとても恐がっていた。私は、朝鮮人だということが周りの日本人にばれたら殺されるのではないかと思い、恐ろしかったですよ」

P231-232
 在日朝鮮人の戦後史を語る上で、民族団体の活動は欠かせない。特に北朝鮮を支持する在日朝鮮人総連合会(総連)と、その前身だった在日朝鮮人連盟(朝連)、在日朝鮮統一民主戦線(民戦)は、在日朝鮮人の生活や思想に、大きな影響を与えた。政治運動はもちろん、終戦直後と朝鮮戦争後の二度にわたる帰国事業、民族教育などは、いずれも総連やその前身組織が組織してきた。

p233-234
 朝鮮戦争中は、舞鶴港が輸送基地となって、朝鮮にいる米軍に物資を補給していた。わが同胞が殺されている戦争を終わらせるためには、舞鶴に向かう山陰線の列車を爆破しなければならない、という論法で、鉄橋の爆破を計画したんや。爆弾はお手のもんや。鉱山にダイナマイトが何ぼでもある。
 京都府の丹波町の下山と、日吉町の胡麻に、山陰線の高い鉄橋がある。あれを爆破しに行くことを計画して、爆弾も用意した。だが、どういう理由か忘れてしまったが、結局やめることになった。本当にやっとったら皆、死刑じゃ。
 自民党の国会議員のNも、当時はバリバリの共産主義者だった。彼は園部の細胞(組織)のキャップをしていたので、一緒に細胞会議をしたこともある。今じゃバリバリの自民党だもんね。


https://www.freeml.com/bl/6381040/98269/
■京都)坑道に刻まれた過酷 丹波マンガン記念館
朝日新聞 2014年8月10日
府の中部、丹波地方一帯はかつてマンガンの国内有数の産地だった。マンガンは兵器製造には欠かすことができず、戦時中は朝鮮半島出身者らが過酷な採掘作業にあたった。そんな鉱山の一つが記念館として残されている。
 京都市の中心部から車で約1時間。右京区京北町の杉林に囲まれた山中に、丹波マンガン記念館はある。
 元鉱山労働者で在日1世の故・李貞鎬(リジョンホ)さんが1989年、自ら経営した鉱山を私財を投じて改修し、開館した。資金難から2009年にいったん閉鎖したが、日韓で支援の輪が広がり、11年7月に再び開館した。
 その1カ月後のことだ。
 「強制連行なんてなかった」「日本が嫌なら、朝鮮に帰れ」。記念館の門前に十数人が陣取り、メガホンでがなり立てた。
 「ヘイトスピーチ」は約1時間半続き、10人ほどいた来館者はみな怖がって帰ったという。
 貞鎬さんの三男で館長の龍植(ヨンシッ)さん(54)は「『強制連行を伝える唯一の記念館』を名乗っているためだろうか、嫌がらせは珍しくない。しかし負の歴史も直視してほしい」と言う。
 坑道は約80本あり、総延長は約20キロに及ぶ。うち約300メートルを整備し、公開している。龍植さんの案内で、高さ約2メートル、幅約1・8メートルの坑道を進む。
 ゴツゴツした岩肌から水滴がしたたり落ちる。元々の坑道は、中腰か腹ばいにならないと進めない狭さだったようだ。地下深くまで掘り下げた縦穴も、黒々と口を開けて残る。
 過酷な作業の様子はマネキンで再現されている。戦前・戦中は、硬い岩盤にノミとハンマーで穴を開け、発破をかけて掘り進んだ。1日で進める距離はわずか3センチ。掘り出したマンガンは人力で外に運び出した。
 マンガンは鉄に混ぜて硬度を高め、戦車や戦艦、大砲などを作るために必需品だった。
 しかし戦争の激化に伴い国内では働き手の成人男性が不足し、政府は朝鮮半島に労働力を求めた。最盛期の太平洋戦争前後には、一帯で約3千人の朝鮮人が働いていたとされる。発破の粉じんによるじん肺で、長年苦しんだり亡くなったりした労働者も多いという。
 貞鎬さんは記念館を「朝鮮人の鉱夫には墓がない。ここが墓、肺塚や」と話していたという。貞鎬さんが95年にじん肺のため62歳で亡くなった後も、龍植さんが記念館を続けてきた。公的な支援は一切ない。
 7月下旬、三重県名張市の小学校の教員17人が研修で訪れた。女性教諭(30)は同行した記者に「知らないことがまだいっぱいあることを思い知った」と話した。
 「未来を担う子どもたちに戦争の実態を伝えたい」
     ◇
 〈丹波地方のマンガン鉱山と記念館〉右京区京北町や南丹市一帯の鉱床で、1895(明治28)年ごろから採掘が始まった。最盛期には鉱山は約300カ所に上ったとされる。しかし安い輸入マンガンに押され、1980年代初頭までに姿を消した。丹波マンガン記念館(075・854・0046)は国道162号の下中交差点を東へ数分。大人1200円、小中学生800円。水曜休館。
■「加害」の歴史継承を
 京都に着任して1年3カ月あまり。同僚に聞くまで、鉱山や記念館について詳しく知らなかった。記念館を作った故・李貞鎬さんの両親は、日本の植民地支配で田畑を奪われ、仕事を求めて来日したという。「力ずく」ではないものの、やむにやまれずに日本に渡った朝鮮半島出身者も少なくないとされる。貞鎬さんは「これも強制連行の一種だ」と話していたという。こうした「加害」の歴史もしっかり記憶し、継承していきたい。(小河雅臣)



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ちむどんどん

2021-05-23 20:52:39 | Weblog
2022年度のNHK連続テレビ小説は沖縄が舞台らしい。
沖縄が好きな者としては待ち遠しい。

https://www.nhk.or.jp/dramatopics-blog/1000/444194.html
> 2022年度前期 連続テレビ小説
> ちむどんどん
> ◆物語
> 1960年代。まだ沖縄はアメリカ軍の統治下にありました。沖縄本島北部は、「やんばる地方」と呼ばれ、豊かな自然や山林の多い地域。その「やんばる」の、とある ひなびた村に、サトウキビなどの農家を営む比嘉(ひが)家が暮らしていました。

どうやら、舞台は沖縄本島北部のやんばる地方のようだ。
このあたりにはかつて北山(ほくざん)という王国があったが、現在では、南部の人たちからは僻地扱いされたり田舎扱いされることもある。
言葉も南部と異なるので、那覇などに出て行ったときに言葉をからかわれた、という人もいる。
他県の人にとっては「やんばる」という言葉は何もマイナスイメージがないけど、沖縄では引け目を感じる人もいる。
関東で言う「グンマー」とか「チバラキ」、といった言葉に近いものもあるだろうか....

しかし、やんばるはすばらしいところだ。
狭義では国頭郡の山間部のことを言うけど、広義では、恩納村以北がやんばる。
沖縄本島の魅力的なビーチの多くはやんばるにある。
文化的にも南部と異なる独自性がある。ぜひやんばるの魅力を伝えてほしい。

ドラマにおいて、沖縄ことばの指導は藤木勇人さんというタレントさんがされるらしい。
沖縄業界は狭い。この人は知り合いの知り合いだ....

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E6%9C%A8%E5%8B%87%E4%BA%BA
> 藤木 勇人(ふじき はやと、1961年1月9日 - )は、沖縄県を拠点に日本全国で活動するマルチタレント。
> 米軍占領下の沖縄・コザ(現沖縄市)で生まれ育つ。


コザで生まれ育ったということは、母語はウチナーヤマトグチ(沖縄風日本語)の可能性が高い。
やんばる地方の言葉もわかるのだろうか。

沖縄本島の南部と北部では少し言葉が異なる。
それぞれ沖縄(おきなわ)語と国頭(くにがみ)語という別言語に分けられる時もある。

もしかしたら、東北弁と東京弁ぐらいの差があるかもしれない。
まあ、他地域の人にとっては雰囲気さえあれば細かい言葉遣いなど関心はないのだろうけど、当事者にとってはちょっと気になるのではないだろうか。

せっかく沖縄本島北部、やんばる地方を舞台にするのであれば、現地の言葉を使ってほしい。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%96%E7%B8%84%E5%8C%97%E9%83%A8%E6%96%B9%E8%A8%80
>沖縄北部方言(おきなわほくぶほうげん)または国頭方言(くにがみほうげん)とは沖縄県の沖縄本島北部の国頭郡で話される琉球語の方言である。エスノローグにおいては国頭語(くにがみご)(Kunigami language)とされるが、沖永良部島方言・与論島方言をあわせた沖永良部与論沖縄北部諸方言を国頭語(国頭方言)と呼ぶこともある[2]。
沖縄北部方言と沖縄中南部方言との境界は、東シナ海側では恩納村恩納と谷茶の間にあり、太平洋側ではうるま市石川と金武町屋嘉の間にある。


8/2追記
知り合いによると、藤木さんもドラマに出演されるようだ。9月から撮影に入るとか。ぜひ、首里・那覇を中心とした沖縄中心主義で覆い隠さず、やんばるの独自性が見える、やんばるに誇りが持てる言葉遣いにしていただけるとありがたい。


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オックスフォード

2021-05-05 11:33:17 | Weblog
学生時代の同級生が、長年オックスフォード大で教員をしている。
イギリスに来るときは声をかけてくれと言われたが、以前、オックスフォードを訪れた時には会わなかった。
オックスフォードでは小さなパブを訪れ、ここは皇太子(当時)の来られた店なのかな、天井が低いな、などと感じた記憶がある。
数年前には、ある表彰式の場で皇太子(当時)の姿を目にしたことがある。
小柄なのだろうけど、姿勢がよくて意外に胸板や肩幅はしっかりとされているので、落ち着きを感じた。

そんなこともあり、今上天皇がかつてオックスフォード大学に留学されていた時の体験記を読んでみた。

路上に大量の小銭を落としてしまったり、寮の洗濯場所を泡だらけにしてしまったり、図書館で傘を盗まれてしまったり、ジーンズでディスコに行って入店拒否されたり、指導教官との約束を忘れてボート競技を見に行ってしまったり。
率直にさまざまな失敗談が語られ、多くのことを知り、学んで成長されたことがうかがえる。
天皇家の人がどのような教育を受けられているのかほとんど知らないが、人を咎めたり非難したり憎んだり恨んだり怒ったり、といった意識を見せないのは興味深い。

ちょっと目についたところをメモ。


『テムズとともに 英国の二年間』徳仁親王著、学習院教養新書、平成5年

はじめに
私がオックスフォードに滞在したのは、一九八三年の六月末から八五年の十月初旬にいたる二年四カ月間であった。(略)私がオックスフォードを離れてからすでに七年を経過した今も、それらは常に青春の貴重な思い出として、時間、空間を超えて鮮やかによみがえってくる。その多くが今日の私の生き方にどれだけプラスになっているかは、いうまでもない。(略)
一九九二年 冬

P45
(略)オックスフォードという地名の起こりは、浅瀬(ford)があり、牛(ox)が渡れたことに由来するという。英国内にいくつもあるストラットフォード(Stratford)やブラッドフォード(Bradford)といったフォードのつく地名は、必ずこの「浅瀬」と関係がある。

P80
 ところで買い物とは直接関係はないが、私はオックスフォードで初めて銀行に行く経験をした。(略)最初で最後の経験かもしれない。また、カードの通用する店ではクレジット・カードでの買物をしていたが、これも今後はまず縁のないことであろう。

P81-82
(略)自分用の風呂があることには感謝すべきであるが、浴槽に約半分ほど給湯すると湯がなくなってしまい、およそ温まるという状況には程遠い有様である。ことにシャワーがついていなかったため、髪を洗う時には浴槽は三分の一ほどの湯で我慢し、残り湯を蛇口から洗面器に取って湯ですすぐようにした。

P92
(略)要は洗濯物を機械の中に入れ、適量の洗剤を注ぎ、お金を入れるだけのことであったが、慣れない私には興味津々であった。
 初めてここを使用した時に大失敗をしでかした。私は手順どおりに機械の中に洗濯物を入れ、洗剤を注ぎ、お金を入れた。四十分ほどで出来上がると聞いていたので、四十分後に再び地下のローンドリーに行ってみた。すると、あたりは泡だらけである。よく見ると泡は明らかに私が使用した洗濯機から流出している。そばにはあきれ顔の一人の学生がいた。「これは、君のか。泡があふれているよ」と彼は言った。洗濯物の詰めすぎであった。彼に詫びを言ってその場はどうにかしのげたが、今でも笑ってしまう。

P93
(略)私がオックスフォードに滞在した二年間、私の身辺警護にはロンドン警視庁から二人の警察官が選ばれて当たってくれた。一人はロジャー・ベーコンといい、表現するのは難しいがいかにもイギリス人らしい人、もう一人はブルース・エアーといって、スコットランドなまりがあるが聞きやすい英語を話し、愛敬のあるなんとも対照的な二人である。彼らが一週間交替で私の隣の部屋で日夜警護に当たってくれた。

P97
(略)一九八五年の三月には弟の秋篠宮がオックスフォードを訪ねてくれたので、マートンのチャペルのタワーとクライスト・チャーチ・メドーを中心に案内した。(略)夜は私が時々行く中華料理店に案内した。弟は大学で覚えた中国語で店員と上手に会話をしていた。弟は後年オックスフォードへ留学したが、その時の手助けが少しできたのであればと思っている。二年間の滞在中に家族全員が訪ねてくれ、自分の生活している場所を案内できたことは大きな喜びであった。

P99
 ところで、P君たちとはよくパブにも一緒に行った。音楽の項目で紹介するターフ・タヴァ―ン(Turf Tavern)は、私たちの行きつけのパブである。彼らからパブ・クロール(pub crawl)なる言葉を教わった。パブをはしごする意味だそうだが、彼らによると少なくとも十軒は立ち寄り、一パイントずつ飲むということをいうのだそうだ。事の真偽はともあれ面白いことを教わった。

P101
 私はオックスフォード滞在中は、外出時にはできる限りジーンズなどのラフなスタイルで歩くようにしていた。私と顔を合わせた日本からの観光客も最初は目を疑ったらしい。若い女性から目の前で「ウッソー!」と言われた時は、「ウッソー!」の本義を知らず、どう反応していいか迷った。ディスコの件は一度目は失敗に終わったが、二度目はMCRの女子学生も含む男女混合のメンバーで、平日に前回とは違うディスコへ行った。生まれて初めて入るディスコのこと、内部の騒音は聞きしにまさるものと思った。フロアーは若い人々が中心で、それぞれのステップで踊っている。私もまったく自己流のステップで踊りの仲間入りをし、MCRの女子学生と向かい合って踊ったりしたので、退屈するようなこともなかった。

P141-145
(略)ちなみに英国の最高峰は、スコットランドにある一三四四メートルのベン・ネヴィス(Ben Nevis)である。(略)
 二番目に上ったのは、八五年七月二十七日のウェールズ最高峰スノードン(Snowdon)山(一〇八五メートル)であった。(略)
 ウェールズから、私はレイク・ディストリクトへ向かった。この地は以前訪れているが、今回はイングランド最高峰のスカーフェル・パイク(Scarfell Pike)山(九七八メートル)に登るためである。(略)
 こうして私は、イギリスの三地方の最高峰に登ることができた。天候には恵まれなかったものの、起伏に富む登山道と周囲の景観は、日本でそれまで体験したものとは異なるものがあり、それなりに充分面白味があった。また、標高が低いのにいわゆる高山で味わう雰囲気に浸れるのも英国の山が高緯度にあるゆえの特徴なのかもしれない。

P149∹150
(略)オックスフォードでの私の研究テーマは、一八世紀におけるテムズ川の水運についてであったが、私がどうしてこのテーマに出会い、研究を進めていったかをまず述べてみたい。
 そもそも私は、幼少の頃から交通の媒体となる「道」についてたいへん興味があった。ことに、外に出たくともままならない私の立場では、たとえ赤坂御用地の中を歩くにしても、道を通ることにより、今までまったく知らない世界に旅立つことができたわけである。私にとって、道はいわば未知の世界と自分とを結びつける貴重な役割を担っていたといえよう。

P213
 思い返してみると、この二年間は瞬く間に過ぎ去ったように感じるものの、私はその間実に様々なものを学んだように思う。(略)この経験の中には、自分で洗濯をしたりアイロンをかけたりしたことももちろん入るが、英国の内側から英国を眺め、様々な人と会い、その交流を通じて英国社会の多くの側面を学ぶことができたこと、さらには日本の外にあって日本を見つめ直すことができたこと、そのようなことが私にとって何ものにも代えがたい貴重な経験となった。
 十月十日、私は、ホール大佐をはじめ、在留邦人の方々、お世話になった大使館職員の方々に見送っていただき、昼過ぎのヒースロー空港を後にした。ロンドンの風景が遠ざかるのを見ながら、私の中で自分の人生にとって重要な一つの章が終わり、新たなページが開かれる思いがし、しばし心の中に大きな空白ができたような気がした。それとともに、内心熱いものがこみ上げて来る衝動も隠すことはできなかった。私は、ただ、じっと窓の外を見つめていた。



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『琉日戦争一六〇九 島津氏の琉球侵攻』

2021-03-19 19:44:20 | Weblog
以前、「目からウロコの琉球・沖縄史」というブログを愛読していた。
http://okinawa-rekishi.cocolog-nifty.com/

早稲田大学の研究員(当時)が、興味深い沖縄の歴史をわかりやすく伝えてくれるブログだったが、2015年に更新が止まったのを残念に思っていた。
研究者としては、一般向けの軽い活動をメインにするわけにはいかなかったのかもしれない。
あるいは、研究者としての姿勢を理解しない人もいて、琉球や日本のナショナリストから、否定的な姿勢を向けられることもあったのかもしれない。

私は、上里隆史さんは主義主張に基づいて行動したり、自分の思想に都合の良いことを掘り起こして利用したりするような人ではなく、誠実に歴史に向き合っている人だと思っている。
研究の世界に閉じこもることなく一般の人々と言葉を交わし合うこともできる人だから、きっといい大学の先生になるのではないだろうかと思っていた。

だけど、2019年に図書館の館長に就任されたというニュースを目にした。

https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/419009
> ■浦添の歴史伝えたい/琉球歴史研究家の上里隆史さん/民間初 市立図書館長に
> 2019年5月13日 05:00
>【浦添】市立図書館の館長に、琉球歴史研究家の上里隆史さん(42)が民間出身で初めて就任した。県内でも珍しいという民間出身館長に、市の歴史の魅力や、図書館の今後の展望について聞いた。(聞き手=浦添西原担当・宮里美紀)  
> −沖縄の歴史に関心を持ったきっかけは。  「母の故郷、長野県で生まれた。


図書館や博物館などに勤務した後、大学の先生になって研究と教育に携わる人も多い。
ぜひ、上里隆史さんも、東京か沖縄の大学で教授として招かれてほしいと願う。
肯定されるべきことや否定されるべきことといった社会的制約や政治的意図にからめとられることなく、ありのままの琉球・沖縄の姿を掘り出す上里さんは、魅力的だ。
琉球の独自性を唱えて煽情的な言葉遣いに流れがちな人や、沖縄のことを知らずさまざまな問題を軽視しがちな人は、上里さんの本を何冊か読めば、得ることが多いと思う。


<参考>
『琉日戦争一六〇九 島津氏の琉球侵攻』上里隆史著、ボーダーインク、2009年

p17
 琉球では一三七二年、浦添の世の主・察度が「中山王」として明朝への初入貢を果たし、ここに中国との約五〇〇年に及ぶ公的な関係が開始された。
 続いて一三八〇年に山南王の承察度(うふさと)、一三八三年に山北王の怕尼芝(はねじ)が入貢し、沖縄島では三王が明朝との朝貢関係を結ぶにいたる。

p23-24
 沖縄島を統一した第一尚氏王朝であったが、各地にはいまだ按司たちが割拠しており、王権による強力な統治体制は確立されていなかった。その実態はなお「按司連合政権」の様相を呈していた。
 こうした状況下で一四七〇年(成化六)、那覇行政の長で対外貿易を統括していた御物城御鎖之側(おものぐすくおさすのそば)の金丸(かねまる)がクーデターにより尚円王(金丸世主)として即位した(第二尚氏王朝)。
 この王朝は王権の強化をはかり、一六世紀初めの尚真の代になって王国全域を首里の国王が直接統治する「間切(まぎり)・シマ」制度を設定し、三司官(世あすたべ)の指導体制と王府の中央組織「ヒキ」制度を整備するなど、中央集権体制が確立する。
 さらに沖縄島の琉球王国は周辺地域に軍事侵攻し、版図を拡大していく。北の奄美大島は一四四〇年代には王国支配下に入っていたが、一四六六年(成化二)には最後まで抵抗していた喜界島が第一尚氏の尚徳王率いる王国軍二〇〇〇によって征服された。
 南の宮古・八重山地域には一五〇〇年(弘治一三)に尚真王が三〇〇〇の軍勢を派遣し、八重山のオヤケアカハチらの抵抗をしりぞけて完全に征服した。一五〇七年(正徳二)には久米島も占領し、ここに琉球王国は奄美大島から与那国島までの島嶼群を統治するにいたったのである。

p34-35
 古琉球王国には数千人規模の軍事組織が存在していた。この軍勢は歌謡集『おもろさうし』で「しよりおやいくさ(首里親軍)」などと謡われ、奄美・先島地域への征服活動をになった琉球王国の「軍隊」であった。
 琉球は一六世紀の尚真王代に武器を廃棄し非武装化したとこれまで言われていたが、実際には尚真王代にそれまでの按司の寄せ集めだった軍団編成から、王府直轄の統一的な「王国軍」を完成させていたのだった。一五七一年(隆慶五)には奄美の反乱鎮圧のために尚元王が軍勢を派遣しており、古琉球を通じて外征能力を備えた軍事組織だったとみられる。

p43
 ポルトガル支配下のマラッカから拠点を移した多くの商人たちとともに、一五一一年以降、琉球人もマラッカへ二度と足を運ぶことはなかった。琉球船はジャワ島のスンダ・カラパ、マレー半島のパタニといった港湾都市へと取引先を移すが、派遣回数は減少し、かつてのような交易の活況を取り戻すにはいたらなかった。
 マラッカ陥落後にポルトガル人トメ・ピレスは著書『東方諸国記』のなかで、琉球人を「レキオ」または「ゴーレス(刀剣を帯びた人々)」と呼んでいる。「ゴール」は東南アジアで刀剣を意味し、ポルトガル人はその複数形として「ゴーレス」を用いた。当時の琉球人は大量の日本刀を東南アジアへもたらし、自らも日常的に大小の日本刀を腰に差していたからである。また彼らが豊富な交易品をマラッカに持参し、色白で良い服装をし、気位が高く勇猛であったことも記している。琉球ではちょうど中央集権化を達成した尚真王の治世に当たる。
 ピレスは琉球人たちを実見したわけではなく、すでに彼らがマラッカを去った後、人々の話す二次情報を書き留めたのであった。

p48-50
 明朝の朝貢体制下、国営中継貿易を行っていた琉球王国は、一六世紀に入ると貿易の衰退が顕著となる。
 明朝の琉球優遇策の後退によりかつての「不時朝貢(無制限の朝貢)」は二年一貢に制限され、比較的自由だった入貢経路も福州に一元化、明朝の海船支給停止による貿易船の小型化などで朝貢回数も減少する。
 明朝より無償提供された船(字号船)は三〇〇名乗りの大型船であったが、一五四〇年代の支給停止以降、中国で小型の民間商船を購入し、また琉球で造船したものに変わっていく。これらは一二〇名前後しか乗船できない小型船である。当然、交易品の積載量も半減する。
 さらに琉球の朝貢貿易業務の支援集団として位置付けられていた「閩人三十六姓」も土着化や人材の老齢化・子孫断絶が進み、居留地の久米村も衰退へ向かった。それまで対外貿易を担っていたスタッフたちがいなくなってしまい、長距離の外洋航海すら満足に行えない事態となっていく。
 とくに一五六七年の海禁解除以降、漳州月港から押し寄せる多数の民間商船にマーケットを奪われたのは大きな痛手であった。(略)
 琉球の外交文書集『歴代宝案』には、一五七〇年(隆慶四)のシャム(タイ)派遣船の記録を最後に東南アジア貿易の記述は見られなくなる。

p88
 一六世紀半ば以降、琉球での貿易はかつてのように利益が出るものではなくなっており、海商らはダイレクトに日本へ渡航して交易を行うようになっていた。一五三四年(嘉靖一三)の冊封時、琉球に渡来する船は一〇カ国あまりだったのが、一五六一年(嘉靖四〇)冊封時には三、四カ国となり、貿易の利益も減少していたという(夏子陽『使琉球録』)

p106
 秀吉は琉球への服属を島津氏に命じるとともに、朝鮮王朝の出仕も対馬の宗氏に命じた。明らかに属国扱いである。朝鮮は宗氏に従属する存在である、秀吉はそう理解していた。朝鮮と宗氏の関係を、「琉球は島津氏の従属国」という同じ論理で考えていたのである。
 中世の日本では明は対等国、朝鮮・琉球は属国であるとの一方的な認識を持っており、朝鮮・琉球の室町幕府への遣使は「朝貢」の使節として扱われていた。当時の日本で共有されていた周辺諸国に対する蔑視観を秀吉が持つのは当然のなりゆきであったが、驚くべきことに、彼は明の征服までも視野に入れていた。

p128
 一五八八年(万暦一六、天正一六)の恫喝をともなう秀吉の入貢要求に一年の引き延ばしの後、ようやく天龍寺桃庵を送って事を収めようとはかった琉球だったが、続けて一五九〇年二月、秀吉は尚寧に明征服の計画をはじめて表明し、琉球もその戦争に日本の側として加わることを要求した。くわえて他国にこの情報を漏洩しないよう念を押したが、この秀吉の明侵略情報を最初に通報したのは琉球だった。
 琉球で秀吉の企てを明に通報したのは、の鄭迵(謝名親方、字は利山)。後に三司官となり島津軍に徹底抗戦する反骨の士である。
 鄭迵は一五四九年(嘉靖二八)生まれ。那覇にあった華人居留地・久米村の末裔で、鄭氏の九代目にあたる。一五六五年には明の南京国子監に七年留学し、帰国後の一五七七年にに就き、一五八九年には久米村の統括者「総理唐栄司(そうりとうえいし)」となっていた。彼は身長六尺(一八〇センチあまり)で「色くろき男」だったという(『喜安日記))。

p206
 それまで琉球の聘礼問題を解決するためだった出兵が、ここにいたって島津氏の財政難を打開するための領土拡大戦争としての性格も加わったのだ。大島攻略は島津氏内部の問題(隠知行や財政難)を解決するための必須事項として位置づけられたのである。

p208-209
(略)島津軍侵攻を記した『琉球入ノ記』には、一七世紀前半頃に中国・日本国の商人や鹿児島、坊津、山川、七島衆が琉球に「集居」して交易活動を行っていたとある。
(略)那覇には華人居留地の久米村だけではなく、古琉球期を通じて「もうひとつの中世日本社会」ともいえる日本人居留地が存在しており、近世初期の日本では那覇に「日本町」がある、と認識されていた(『定西法師伝』)。

p225
 一六〇九年(慶長一四・万暦三七)二月一日付で、島津義弘から尚寧王へ「最後通牒」ともいえる書状が届けられた(『旧記雑録』)。このなかでは亀井茲矩の件、朝鮮軍役の不履行、聘礼使者派遣の遅滞、日明講和の仲介に同意しながらそれを守らなかったこと糾問しており、さらに(略)

p229
 さらに注目されるのが、島津軍は軍役の規定(一五〇〇人)を上回る倍の兵数を動員していることだ。(略)
 実はもう一つの要因として、困窮していた底辺層の武士たちが恩賞を求めて自力で従軍した可能性が指摘されている(桐野作人「さつま人国誌(一一二)」)。

p235
 古琉球期の甲冑は基本的に室町期日本の様式(胴丸・腹巻)とほぼ変わらず、しかも琉球風に若干アレンジして現地生産を行っていたことが明らかになっている。

p235-236
(略)琉球では日本様式の刀剣が用いられていたが、一五九二年朝鮮で日本軍と戦った明は鋭利な日本刀の威力に驚き、後に朝鮮王朝とともに日本様式の刀剣を導入している。

p270
 四月一日午後二時頃、大湾から南下してきた海路の島津軍が那覇港に突入した。
(略)ここには謝名親方率いる三〇〇〇の兵が陣取っており、両グスクから「大石火矢」による砲撃を敢行した。突入した七島衆の軍船七隻は琉球側の砲撃によってことごとく撃破され、軍船は破船・沈没した(ただし死傷者はいなかったと記す)。

p289
 軍事組織が存在したとはいえ、琉球は戦国時代の日本のような激しい戦乱を経験していなかった。つまり表向きは組織や兵数、装備がいちおう整っていたとしても、用兵面においては大きく劣り、島津軍の動きに臨機応変に対処できなかった。

p292
 『おもろさうし』は一六~一七世紀に編纂されたものであり、収録されているオモロは「こうであって欲しい」との願いを込め、儀礼において何度も繰り返す「歌」という性格を持っているので(略)、特定の日時の史料として扱うには慎重でなければならない。だが少なくとも古琉球期において外敵の侵入に際し、それを撃退するための祈願が行われていたことはうかがえよう。

p296
 四月五日、主のいなくなった首里城は島津軍に接収された。武将クラスの者少数が入城し、城内に所蔵されていた宝物の点検が開始され、それらはすべて島津軍によって没収されることになった。

p301
 上陸した尚寧は鹿児島より派遣された町田久幸・鎌田政徳の警護のもと、山川の仮屋に一カ月ほど滞在していたが、その間に島津氏の外交ブレーンだった正興寺の文之玄昌(南浦)と面会している。(略)
 ちなみに文之は「琉球を討つ詩並びに序」で、かつて源為朝が琉球を征伐しその子孫が王になっていること、琉球は数十世の昔より島津氏の附庸国(従属国)だったことを主張し、その関係を収斂の臣・邪那(謝名親方)が悪化させたのでやむなく征伐した、と琉球侵攻を正当化する文章を著している。後に出た『中山世鑑』の為朝伝説や謝名親方観はこの「琉球を討つ詩並びに序」に依拠したものであった。

p312-313
 尚寧が日本へ連行された後の琉球では、すでに一六〇九年(慶長一四)から島津氏による検地(農地測量)」が行われていた。沖縄本島と周辺離島の検地を翌一六一〇年までに終え、さらに一六一一年には宮古島をはじめとした先島諸島で実施された。琉球の石高を把握することにより幕藩制国家の知行体系に琉球を取り込み、島津氏と琉球との主従関係を確立するのが目的であった。古琉球には「カリヤ・ヌキ」という独自の丈量制度があったが、ここで初めて日本の石高制が適用されたのである。(略)
 奄美地域については琉球から分離され、一六一〇年には島津氏により大島代官が置かれ、一六一三年には大島奉行と改称された。一六一六年には徳之島奉行が新設され、徳之島・沖永良部島・与論島を管轄させた。

p314-315
 尚寧一行の帰国にあわせて、九月十九日には島津氏の琉球当地の指針を記した「掟十五カ条」が発布された。(略)
 この「掟十五カ条」にあわせて尚寧王と王府首脳に対し、島津氏への忠誠を誓う起請文への署名も強制された。そこでは、琉球は往古より島津氏の附庸国(従属国)であったが、秀吉時代の徭役(軍役)を果たさなかった罪で破却した、と琉球征服を正当化し、慈悲深い島津家久が一度滅んだ琉球を復活させた恩義を強調している。そのうえで子々孫まで薩摩への忠誠を誓うことが記されている。
 尚寧はじめ重臣らはこの起請文に署名させられたが、ただ一人、署名を拒否した人物がいた。謝名親方(鄭迵)である。島津氏の侵攻に徹底抗戦した彼は、最後までその意志を曲げることなく貫き通した。尚寧らが起請文を提出した九月十九日午後四時頃、鹿児島で斬首された。享年六三歳であった。

p318
 琉球が日本に操られていることを確認した明は、琉球使節の北京行きを許可せず、朝貢品のうち「倭物」も返還した。さらに島津軍の侵攻を受けた琉球の国力回復を待つとの名目で、琉球の貢期を一〇年一貢に変更した。事実上の朝貢禁止である。
 だが明は敵対国・日本の傘下に入った琉球との朝貢関係を断絶しなかった。それは明が島津軍の侵攻に対し、琉球へ援軍を送らずに見殺しにしてしまったという負い目と、朝貢関係がなくなれば琉球が完全に日本に取り込まれ、明にとって脅威となるとの懸念があったためである。

p335-336
 琉球はアイヌ―松前、朝鮮―対馬、オランダ・中国―長崎とともに幕藩制国家のなかの「四つの口」として機能し、また南から押し寄せるキリスト教の防波堤としての役割を果たすことになったのである。
 近世の琉球は中国(明、やがて清)との朝貢関係を維持しつつ、日本の幕藩制国家へも従属するという「二重朝貢」の国家となった。

p338-339
(略)一六六〇年には首里城が焼失したが、再建が進まないまま、王府は場外の大美御殿に機能を移転し政治を行うありさまであった。琉球は薩摩藩や清といった外からの攻撃によってではなく、内部から崩壊する危機にあったのだ。
 こうした危機に立ち向かったのが、一六六六年(康熙五)から摂政となった羽地按司朝秀(はねじあじちょうしゅう)(向象賢)であった。羽地はさまざまな改革に乗り出したが、それは機能不全に陥っていた「古琉球」の政治・社会システムを否定し、新たな社会の構築をめざしたものだった。徹底した「古琉球」の破壊に守旧派たちは猛反発するが、羽地はこうした抵抗のなかで改革を強力に推し進めていった。(略)
 羽地が敷いた路線はその後の大政治家・蔡温(具志頭親方文若)にも引き継がれ、現在の沖縄に伝わるさまざまな「伝統」を生んだ。
 身分制確立による門中制度の創設、風水思想にもとづいた碁盤目に区画された集落、亀甲墓、清明祭、琉球の海を走るマーラン船、組踊をはじめとした芸能、サトウキビ畑の風景と黒糖、健康食品として知られるウコン、泡盛、赤瓦やシーサー、壼屋焼、サツマイモ・豚肉食の普及などである。
 我々が「伝統」と考える沖縄のさまざまな仕組みや文化・風習は「古琉球」の時代から連綿と伝わったのではなく、その多くが羽地の改革路線のうえに誕生・成立したものなのである。

p432
 本書は私にとって第三弾目の著作である。これまで『目からウロコの琉球・沖縄史』(二〇〇七年)、『誰も見たことのない琉球』(二〇〇八年)をともにボーダーインク社から出版し、おかげさまで好評をいただいたが、いずれも沖縄の歴史をやさしく解説した入門編というべきものであった。今回が一般書ながら、はじめて自身の研究をもとにした著作ということになる。



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ミトロヒン文書

2021-03-18 20:15:33 | Weblog
むかし、京大名誉教授のK氏とすれ違ったことがある。
その後たまにホームページを拝見するなかで、ヴェノナ文書の存在を知った。
免疫学の研究者は、社会の仕組みについても直観がはたらくのだろうか。

https://www.katsuray.net/2020/06/14/%e6%97%a5%e7%b1%b3%e6%88%a6%e4%ba%89%e3%81%ab%e3%81%a4%e3%81%84%e3%81%a6%e8%80%83%e3%81%88%e3%82%8b/
> この戦争に関して、私たちは「日本が始めた戦争であって、悪いのは日本である。」という教育を受けてきたし、新聞等の論調もそんな感じであった。私自身もそれを信じてきた。
> しかし、ヴェノナ文書が公開され(1995、日本語版は2010あたりに出ているが、絶版となり2019に再版)、さらにフーバー大統領の回想録(2011、日本語版は2017)が出版されたことによって米国大統領周辺の策謀が明らかになり、この戦争は米国主導であったことが、主に米国の研究者によって明らかにされてきた。


そういえば、同じく京大の先生のサイトでもミトロヒン文書に関する記述があった。

http://trans.kuciv.kyoto-u.ac.jp/tba/archives/2386
> メディア対する海外の諜報機関工作――ミトロヒン文書を読み解く
> 京都大学 都市社会工学専攻 藤井研究室


現在でも、日本社会の中には多くの情報提供者や協力者が存在しているのだろう。
彼らは、金銭目的でもなく、卑怯なことをしているという意識もなく、むしろ正しいことをしていると感じて行動しているのではないだろうか。
協力者を懐柔する方法や情報操作の手法、具体的な情報入手の手順などに興味がある。
ロシアや中国に限らず、アメリカやヨーロッパの国々なども国内で活動しているようだ。

そういうわけで、たまにヴェノナ文書やミトロヒン文書についての本をときどき見ている。
最近読んだ本は文字も大きめで著者の語り口もくだけた感じの軽い読み物だった。
少し興味深かった箇所をメモ。


<参考>
『ミトロヒン文書 KGB・工作の近現代史』江崎道朗監修・山内智恵子著、ワニブックス、2020年

p16
 ソ連崩壊からまだ間もない一九九二年三月のある日のこと、バルト三国のひとつであるラトビアの首都、リガの英国大使館に一人の男性がやってきて、「誰か権限のある人」との面会を求めました。男性が持参したキャスター付きのケースの一番上にはソーセージとパンと飲み物、中ほどには着替えの服、一番下にはたくさんのメモが詰め込まれていました。
 男声の名前はワシリー・ミトロヒン、一九八四年に退職するまで四半世紀あまり、ソ連の情報機関KGBの海外諜報部門である第一総局で、文書や情報の整理と管理を担当していた元KGB将校です。
 そしてケースの一番下に隠すようにして英国大使館に持ち込まれたメモは、ミトロヒンがKGB第一総局の機密文書から書き写したものでした。二十世紀の最重要資料のひとつ、「ミトロヒン文書」が西側にもたらされた瞬間です。

p17
「インテリジェンス」は広い意味を持つ言葉で、中西輝政京都大学名誉教授の定義によると、機密を含めた他国の情報を収集するいわゆるスパイ活動のほか、他国のスパイ活動や破壊工作を防ぐ防諜(カウンター・インテリジェンス)、宣伝・プロパガンダ工作、さらには、敵国を不利にし、自国を有利にするための謀略(ソ連の用語では積極工作と呼ぶ)も含みます。また、これらの活動を行う情報機関を意味することもあります。
 インテリジェンスが現代史に与えた影響の大きさを浮き彫りにし、現代史の見直しを迫るような重要な史料が国際社会にはいくつも存在します。これらの史料は、主に、安全保障や法律上の理由から「機密」とされてきた政府のインテリジェンス関係の公文書です。
 本書は、そのような機密文書のうちで最重要の一次資料のひとつである「ミトロヒン文書」について紹介します。

p18
ソ連崩壊後の主な文書公開
(略)
1995年 ヴェノナ文書
作成者:アメリカ陸軍情報部・イギリス政府通信本部
内容:KGBおよび赤軍情報部の本部とアメリカ駐在所との暗号通信
対象時期:1940~1948年
分量:約3000通
(略)
2014年 ミトロヒン文書(解説書刊行は1999年と2004年)
作成者:V・ミトロヒン
内容:KGB第一総局文書庫所蔵文書
対象時期:1918~1980年代前半
分量:手書きで約10万頁。現在、キリル文字でタイプした約7000頁をケンブリッジ大学チャーチル・カレッジ図書館で公開
(略)

p24
 ヴェノナ作戦で傍受された暗号通信は膨大なものでした。
 しかし、ソ連が理論上解読不能とされる「ワインタイム・パッド」という暗号形式を使っていたため、解読には長い時間と大変な労力が必要でした。先にも述べましたが、解読作戦を始めたのが一九四三年なのに。終了は一九八〇年です。三十七年かけて解読できた約三千通は、アメリカ陸軍情報局が傍受したもののごく一部にすぎません。
 それでも、ヴェノナ作戦の結果、三百人を超えるアメリカ国民またはアメリカ永住権者が、ソ連の工作員として活動していたことが明らかになりました。
 しかもその中には多くの連邦政府高官が含まれていました。
 ルーズヴェルト政権時代、ソ連工作員による浸透はアメリカ連邦政府のほぼすべての省庁に及んでおり、第二次世界大戦前後の重要な政策決定に対して、これらの工作員が深刻な影響を与えていた実態が浮き彫りになりました。

p25
 日本でも対米開戦直前にゾルゲ事件が発覚しています。近衛内閣のブレーンとして日中戦争を煽った尾崎秀実がソ連軍情報部の工作員だったのです。これは確かに重大な事件ですが、アメリカの惨状に比べたらゾルゲ事件など、まだかわいいものです。
 ルーズヴェルト民主党政権下のアメリカでは、財務省も国務省も、第二次世界大戦中に創設された情報機関「情報調査局」(CIAの前身)も、上層部にソ連の工作員がごろごろしていたのですから、ワシントンの連邦政府がおおかた乗っ取られていたようなものです。そして、組織として彼らの活動を支えていたのがアメリカ共産党でした。

p84-88
 KGBの源であるチェカー(正式名称は反革命・サボタージュおよび投機取締全ロシア非常委員会)は、ロシア革命からわずか六週間後の一九一七年十二月二十日に創設されました。(略)
 アンドルーによれば、チェカーが内戦中に処刑した人数は二十五万人で、戦死者よりはるかに多いそうです。(略)
 秘密警察を使った虐殺と暴力ではスターリンが群を抜いて悪名高いですが、レーニン時代のチェカーの暴力と残虐性も相当なものです。レーニンは革命直後の一九一八年の夏にはすでに、「信頼できない分子」を大都市から離れた強制収容所に収容するよう命じていました。(略)

p89-90
 レーニンは一九一九年に共産主義政党の国際組織としてコミンテルン(第三インターナショナル)を設立します。
 戦争による疲弊に乗じて内乱を起こし、混乱に乗じて共産主義政権を確立するという、ロシア革命で成功した方法を輸出して、世界共産革命を実現するため、レーニンはコミンテルンに加入する世界各国の共産党に、非合法機構の設立を義務付けました。

p105
 西側で政府高官になるようなエリートたちがなぜ共産主義に魅了され、工作員になってまでソ連に尽くそうとしたのか――アンドルーはあまり書いていませんが、大恐慌による経済崩壊と、ナチス・ドイツに代表されるファシズムの台頭という二つの背景を指摘しておくべきでしょう。

p194-196
 ソ連が対日工作を行う上で最も邪魔なのは、日米安保条約と在日米軍基地の存在です。ソ連は戦後、日本をアメリカとの同盟からできる限り引き離すための工作を延々と行ってきました。(略)
 ミトロヒン文書によると、KGBは、「安保闘争」を盛り上げただけでなく、第一総局のA機関(偽情報・秘密工作担当)に命じて日米安保条約附属書を偽造し、プロパガンダ工作を行っていました。(略)
 この偽情報を使って、「日本はアメリカに支配されている!」「日本は海外に武力進出するのか!」と、政治不信と安保反対運動を煽るという筋書きです。

p206
 ミトロヒンのメモによれば、一九七九年秋の時点で東京駐在所のPRライン(政府情報を担当する部門)が管理していた工作員は三十一人、秘密接触者は二十四人いました。(略)
工作員(エージェント)とは、機関員や諜報機関が操るフロント組織に協力して意識的かつ体系的に極秘の諜報任務を行う者を意味し、完全にKGBのコントロール下にあります。
 秘密接触者(コンフィデンシャル・コンタクト)は正式な工作員ではありませんが、思想的・政治的・金銭的動機や情報将校との間で築かれた人間関係によって、機関員に情報を渡したり、機関員からの秘密の依頼に応じて諜報活動に協力したりする者を意味します。

p207-208
 一九六〇年代に中ソ対立が深まる中で日本共産党が中国側についたため、KGBは日本社会党に「コーペラティーヴァ」(協力者)というコード名をつけ、社会党幹部を「影響力のエージェント」として使うための作戦を開始しました。(略)
 一九七〇年二月二十六日、ソ連共産党政治局は、日本社会党の複数の幹部及び党機関紙への助成金として十万兌換ルーブル(当時の日本円で三千五百七十一万四千円に相当)の支払いをKGBに対して承認しました。(略)
 ミトロヒンのメモによると、ソ連共産党政治局が助成金支払いを承認した時点で、すでに次ページの五人の社会党幹部がKGBの協力者になっていたようです。

p211
 KGBが政界で獲得した工作員の中で最も重要だったのが、⑫フーヴァー(自民党議員で元労働大臣の石田博英)でした。石田は一九七三年二月に結成された日ソ友好議員連盟(暗号名ロビー)の会長になり、八月二十七日から九月六日まで訪ソしています。

p213-214
 ミトロヒンのメモによれば、KGBは読売、朝日、産経、東京の各新聞社の幹部クラス記者を少なくとも五人、工作員として獲得していました。(略)
「影響力のエージェント」として一九七〇年代に最も重要だった新聞記者は、当時サンケイ新聞編集局次長で社長の個人的な相談相手でもあった㉓カント(本名Y・T)で、A機関の偽情報に基づく記事を執筆しました。

p219
 ジャーナリストの肩書で東京に駐在し、積極工作を担当していたKGB情報将校のレフチェンコは、亡命後の一九八二年七月十四日、アメリカ連邦議会下院の情報特別委員会秘密聴聞会で、KGBの対日工作について証言しました。その報告書が十二月に公表されると、日本には東京だけでもKGBの情報将校が約五十人、日本人協力者は約二百人いるというレフチェンコ証言が日本で大きな波紋を呼びました。

p229-230
 レフチェンコ証言に出てくる工作員や「信頼すべき人物」の中で、日本の情報機関関係者は二人います。(略)
 外務省関係者としては、外務省職員夫妻のレンゴーと、電信官ナザールが挙がっています。

p233-234
 レフチェンコ証言の概要が公表された一九八二年十二月以降、大手紙をはじめとする日本のメディアは連日大きくレフチェンコ証言を取り上げました。(略)
 当時、朝日新聞は、「単に一亡命者の発言をもとに、特定の個人や団体の背景を疑ったり、公表されぬ名前をせんさくすることは慎まなければならない」「『スパイ』に惑わされるな」「当局は内容を疑問視」と、非常に力を入れて、レフチェンコ証言を否定する論陣を張っています。

p236
 つまり、警察は当時からレフチェンコの証言の信憑性が高いと認めていました。
 レフチェンコ証言の信憑性は、ミトロヒン文書が世に出たことでさらに高まったと言えます。
 レフチェンコ証言とミトロヒン文書の多くが合致するということは、レフチェンコ証言の裏付けがKGB文書にあることを意味します。また、繰り返しになりますが、アンドルーは『ミトロヒン文書Ⅱ』を執筆するにあたってレフチェンコ証言を参照し、レフチェンコのインタビューを行っています。

p271
 一九八〇年の一年間だけでも、日本から得た情報が約百件の研究開発プロジェクトに使われています。東京駐在所のO・グリャーノフというKGB将校が豪語したところによれば、「毎年[Xラインの]情報将校たちが遂行している作戦から上がる利益で、わが東京駐在所の費用を全部賄える」(引用者の試訳。[ ]内は引用者の補足)ほどでした。
 また、日本は日本の科学技術情報だけでなく、アメリカの科学技術情報が得られる場でもあるので、日本在住のアメリカ人やアメリカ系企業・団体に勤務する日本人、科学・技術・経済分野の各種日米協力関連団体の職員が狙われました。T局が一九七八年から一九八〇年にかけて、東京のKGB駐在所のXラインに、これらの人々に接近して工作員を徴募するよう指示した記録があります。
 では、実際にどのような科学技術情報収集が日本で行われていたのでしょうか。
 ミトロヒン文書は、暗号名「トンダ」という東京のハイテク企業の社長を挙げています。トンダは、アメリカ空軍とミサイル部隊のための新しいマイクロ電子コンピュータ・システムに関する機密資料二点をKGB東京駐在所に提供しました。




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