ついに、進撃の巨人が終わった。
もう、ノーベル平和賞もんだ。
諌山さんに贈るべきか、進撃の巨人に贈るべきか。
イスラエルという国家とパレスチナのタカ派であるハマスの戦いという現実とオーバーラップして、人類は、今、この思考の路線で進む限り、戦うことはやめられないだろうと思った。
最終回のエンディングのシーンだけで、ジーンときた。
戦争は、実は、自分の国の中にある穏健派とタカ派との闘いなのかもしれない。
そして、実は、実は、家庭の中の亭主関白派の意識の集合意識が、国家を戦争に向かわせるのかもしれない。
亭主関白だけではない。
DVとかいじめとかSNSでの正義感溢れる投稿とか・・・。自分に自信がないことを認めたくないから、上下観の上に立つことで、なんとか自信を保っているけれど、それは、似非自信であることに気づかない人たち。
国が貧困だと、そんな不満な人たちの意識も集合化しやすいと想像できる。
王様国家は、格差が激しくて、不満が充満しているかもしれない。それを、誰かのせいにして戦おうと鼓舞している誰かの美談に洗脳されてハマスというタカ派が生まれたのかもしれない。
もちろん、イスラエルの中にもタカ派があって。だから、今のような現実になってしまう。
2千年以上前の建国という歴史の重みを背負っているユダヤ人やパレスチナ人の思いなんて、島国日本に生まれた私にはわからない。
だから、ミクロな世界の『家庭』という単位で物事を見る癖がある。
結婚して、夫は実は亭主関白でキレやすい人だとわかった。暴言だけでなく、暴力も振るうようになった。
そしたら、誰だって自分の身を守るために、家を出る。
でも、食べていくだけの、あるいは子どもを養っていくだけの稼ぎがないと生きていけないという仮説という不安から抜け出せなくて、我慢という虐げられる道を選ばざるを得ないという人もいると思う。否、むしろ、不安になりやすい元々の性格が、怖い時もあるけれど、優しいところもあるのよというように、その優しいところにすがって、不安よりもすがる気持ちが上回って、離婚を決断しない人もいるかもしれない。
進撃の巨人の最終回で、刺さる言葉だらけだった。
エレンは、敵である人類の8割を巨人の地ならしで消滅させることで、とり合えずのエルディア人の平和が訪れると判断して、苦渋の決断をした。
人類が2割になって、エルディア人に平和が訪れた。
しかし、それも束の間。
エルディア人の中から、やっぱり、しっかり、強硬派が誕生し、政権を奪い、また、人類との戦いが始まってしまった。
そして、歴史は繰り返す。
2割の法則というものがある。
幼稚園で保育士さんが『さぁ、今からお片付けをしましょう。』と遊んでいる子どもたちに声をかけると、2割の子どもたちが、片づけを始め、残りの8割の子どもたちは聞こえていないのかシレーっとしているのか遊び続けるという。
その2割の子どもたちを外に出して、しばらくして『さぇ、お片付けをしましょう。』と声かけをすると、また、その中の2割の子どもたちがお片付けを始め、残り8割は遊び続ける。
その2割の子どもたちを外に出して、しばらくして『さぁ、お片付けをしましょう。』残った子どもたちのの2割の子が片づけを・・・・。
それと似たような人類の正義の名のもとに戦ってしまう遺伝子が人類にもあるのだろうか。
エレンが苦渋の決断で地ならしを起こし、人類を2割にまで減らしても、また、その中で正義の名のもとに戦うことを選択してしまう人間が現れて、やっぱり、荒野となり果てる・・・・みたいな。
正義って何だろう?
って、進撃の巨人は訴える。
それぞれの正義があるんだということを、進撃の巨人は教えてくれた。
でも、正義がある限り、戦争はなくならないということも教えてくれた。
兄が、地球の平和のために、自分たちが身を引くという安楽死計画を実行しようとして、でも、エレンによりその計画がご破算になったことを悔いている砂の世界に、アルミンが現れて、『僕はただ、3人でかくれんぼをして楽しかった。あの楽しかったをしたいだけなんだ。』と言ったとき。
ハッと気づいた。
あ~~~、僕もお父さんとキャッチボールしたとき、楽しかったなぁというその感覚を思い出して、打ちひしがれて硬直化した心が一気に柔軟な心になって、アルミンたちを応援する側に立ち上がった。
競争とか勝ち負けとかそんなことではない世界が、楽しかったという世界。
諌山さん、凄すぎる。
『安楽死計画という正義という立派な価値観』を握りしめて生きてきたのに、その安楽死計画が戦いを選んだエレンによってご破算になってしまって、無気力になっていた兄の心に生きるエネルギーを湧かせた言葉が、かくれんぼしたかっただけという無邪気な心を大事にしたかったアルミンのつぶやきだった。
最後に克つのは、正義ではなく『〇〇したいという純粋な気持ち』なのかもしれない。
諌山さんが、進撃の巨人で伝えたかったことは何なのだろう。
おそらく、人間の中にある一人ひとりの正義に寄り添いながらも、その一人ひとりの違う正義を否定しないで、最後は、一人ひとりのかくれんぼこそ、人間の生きる意味なんだと言いたかったのではないかと。
だって、自分たちがいなくなれば世界に平和が訪れるから身を引くという安楽死計画ほど、美しい正義はないから。できないですよ。一民族が、自ら死を選んで身を引くなんて思想は考えられない。
たまたま偶然なのか、今のイスラエルとかハマスとかを抱えた中東問題と進撃の巨人は、重なることが多すぎて、アニメとはとても思えない。深すぎて・・・。
正義って、必要なんだろうか。
必要だとするならば、それは、自分と正反対の相手の正義もにこにこと包み込むような正義か。うん?風呂敷正義?