総合漢方にんぷ薬・総合漢方育児薬

~頭を使ってではなく、カラダ(感性)で子育てしてみませんか~

猫か孫か甥っ子か

2016年06月19日 | エッセー
 どうやら、私って、小さい頃から、わがまま言えないタイプだったみたい。いえいえ小さい頃は、ちゃんと自己主張してました。お昼寝が得意でなかったので、保育園がいやで1年でやっと入れた保育園をやめて、幼稚園に行ったという記憶。お遊戯と歌が大好きで、今でも、保育園時代の先生がその話をするくらい。近所のおばちゃんたちの前で、ビール箱に立って歌っていた・・・らしい。私が、委縮してしまったのは小学校に入学してから。なにせ、お医者さんの息子とか会社の社長の娘とかの多いクラスで圧倒された・・・し、先生もそんな子をひいきしていたように思えた。あんなに歌たり踊ったりが大好きだったのに、突然、縮こまってしまった。それからは、言いたいことが言えない人になってしまった。
 小1から、ずっと、私の細胞1個1個がのびのびできなくなった。
 のびやかなわがままというとき、人の細胞ものびやかにいきいきとしてくる。そうすると、からだは元気があふれてくる。そして、私はというと、50歳でがんになったくらいだから、どう考えても、細胞一個一個がストレスで縮こまっていたんじゃないかなって思う。小1からだから、約50年。
 ゆったりくつろぐということがよくわかんない人間だった。たぶん・・・。自分では、朝のトーストとコーヒータイムはリラックスしているつもりだったけれど、猫を飼ってみて、初めて、ほんとうのリラックスというか癒されるという感覚を体験することができた。
 猫と戯れているときって、もっと、もっと、一緒にいたいって思う。朝、猫に起こされる。猫は私に腕枕してほしくて、私の布団にやってくる。この腕枕がたまんない。仕事があるから、15分くらいが限界で残念だけれど、叶うならもっと、ずっと、腕枕していたい。すごいね。猫パワーの威力って。
おそらく、猫と戯れているときこそ、私の細胞1個1個がのびやかに解放されているって、実感。
 わが子は猫とは全く違う。責任がある。きっと、猫なんかよりもずっとかわいいし、いとおしいはずなんだけど、24時間世話をしなくてはいけない。ずっと、腕枕してデレデレしっぱなし・・というわけにはいかない。おっぱいを飲ませたり、おむつを替えたり、あせもにならないように服の調整やら行水してあげたり、夜泣きをすれば、起こされてしまい、眠りを妨げられる。喜びでもありストレスでもある。
 猫は違う。ほとんど、世話らしい世話をしなくてもいい。いつまでも、いつまでも、のん気にデレデレし続けられる。

 猫を飼って、初めてわかった。
 癒されている。私の細胞が解放されているって。
 猫を飼うことのなかった人生54年、なんと、もったいない。こんなに細胞がのびやかになれるんだったら、お兄ちゃんたちが猫を飼ってという時に、飼ってあげればよかった。ハムスターで我慢させたけれど、猫じゃなきゃだめだったのだ。お兄ちゃんたちにとっての癒し=細胞の解放は、『飼って』という時こそ、適齢期だったのだ。今になって、反省。犬か猫か・・・。
 猫と犬。個人的には、犬派だった私。でも、あれよあれよという間に、子どもたちが野良猫を拉致してしまって、成り行きで猫を飼う羽目になった。そして、猫と暮らしてわかったことがある。子どもたちには、『あなたたちお父さんの世話でいっぱいいっぱい。これ以上、何かの世話なんか無理。』と言ってきたけれど、猫はかなり手がかからないということを猫を飼ってみて初めてわかった。血統書つきの猫だといろいろ気を遣うだろう。でも、うちの猫は典型的なトラ猫で、野良猫出身だから、タフだし、高額なお金を払っているという前提がない分、お気楽。元手がかかっていると、そう簡単に死んでもらっては困る・・というような意識が働いて、予防接種やら何やらと腫れ物に触るような感覚になり、いろいろ気を遣うと思う。最低限、避妊手術とノミ対策はしたけれど、それ以上はそんなに気を使わなくてすむ。
 猫に対して犬はどうか?
 猫は四六時中自分の体を舐めているので獣臭くない。たぶん、お風呂に入れなくても大丈夫なんじゃないだろうか?一方、犬は獣臭いので、頻繁にお風呂に入れてあげないといけないかも。猫は、あんまり、しつけを意識しなくても、気ままに生きていく。しかし、犬は、主従関係をしっかりしないと大変みたいだから,かわいいかわいいとデレデレ飼いという無責任な飼い方なんかできそうにない。そして、何よりも、犬はお散歩という日課が可能かどうかが問われる。

 そんなこんなで、子どもみたいに責任をしょわないで、デレデレと、ただ、ただ、癒されたい=細胞を解放したい私のようなタイプに必要なのは、犬か猫かと問われれば、猫に軍配が上がりそう。

 猫を飼ってみてわかったこと。その2
 私には、まだ、孫がいない。
 多くの孫を持った人が言う言葉に、『子どもは責任があるけれど、孫にはないから、ただただかわいくって仕方がない。』と孫には目がない人がほとんど。へぇ~、そんなにかわいいんだ。よくわかんない。って感じだった。
 猫を飼ってみて、無責任にいつまでもデレデレできて、細胞が緩みっぱなしになれるという点で、猫も孫も同じグループになるということがわかった。猫と孫を同じにしちゃって申し訳ないけれど、細胞が解放されるって、ほんとうに心地いい。
 猫よりも孫の方が、小さい頃はデレデレレベルも高い人が多いかもしれない。ただ、いかんせん、孫は成長する。蜜月はいつか終わる。猫は変わらない。ただし、寿命があるけれど・・。
 人生、極上レベルの細胞が解放されるチャンスって、多くの人が三つくらいあるのかな?
 1つ目は、恋人同士時代。2回目は、孫が生まれたとき・・。そして、三つめが、独身時代の甥っ子姪っ子の存在じゃないかと思う。

 先日のテレビで、マナカナちゃんのマナちゃんの姪っ子へのデレデレが半端じゃない映像を見せつけられた。親のカナちゃんなんかより、はるかにデレデレだった。部屋のあっちこっちに3歳の姪っ子が描いた絵を飾って、そりゃぁ、べた褒めの嵐だ。私の猫レベルの癒しパワーをはるかに超える姪っ子甥っ子パワーはまさに圧巻!マナちゃんの細胞がデレデレ効果で解放されまくって、もう、だれも止められない。恋人の細胞解放力と甥っ子姪っ子の細胞解放力は、どっちがある?もし、甥っ子姪っ子の方に軍配が上がれば、やばい。マナちゃん結婚できないよ。よく、独身女性が犬猫を飼っちゃうと結婚できない可能性が高くなるというけれど・・・。

 私も子育てしていて、わが子を甥っ子姪っ子と言ってくれる独身の姉、もしくは、妹がほしかった。マジ。
 だって、いろいろ買ってくれるんだもの。かわいがってくれるんだもの。怒らないんだもの。
 子どもにとって、そんなおばの存在って、ものすごく大きいんじゃないかな。甘えられてわがままを認めてもらえて。しつけとか将来とかへの責任がないから、少々のことはかなり大目に見えもらえて・・・。お菓子とかジュースを最高だ。おばによって、甘え上手という人生で生きていくうえで超貴重なテクニックを身に着けられるし・・・。いいなぁ。おば。

 細胞は、デレデレと緊張のバランスを必要とする。
 わたしは、たぶん、小1の頃より、デレデレがほとんどなかったなぁってしみじみ。細胞が緊張しっぱなしで人生の半分を生きてしまった。そりゃぁ、がんにもなるって話だ。デレデレって、例えば、わがままも・・・。
 反抗期のない子って、わがままがない。わがままがないってことは、細胞の弛緩もないってことだと思う。
 弛緩と緊張のバランスの取れた生き方を、わが子たちに私はプレゼントできているだろうか。

 そんな視点で、子育てを考えたことってなかった。
 わがままが言えるってことは、つまり、弛緩できてるってこと。人が生きていくうえでとても大切なことなのかもしれない。
 
 四男は、自分のすべきことは全然できていないのに、私が発する言葉にはとても感度がよくって、うんざりするくらい盾突いてくる。超ワガママ。『おまえ』『死ね』『クソババァ』の嵐が朝一番から吹き荒れる日々。なのに、コアラオンブは拒否しないところが、かわいかったりする。細胞は十分すぎるくらい弛緩してるはずだ。細胞が弛緩するって、遠慮なんかちっともせずに、言いたい放題やり放題できるってことだとほんとうに思う。
 人生で幼い頃思いっきりわがまま言えなかった子どもは、思春期でそのやり直しをするという。思春期の反抗期って、細胞の弛緩という視点では、、ど派手にやってもいいのかも。子どもの反抗期に悩む必要なんかない。反抗が激しければ激しいほど、細胞が弛緩してるシテルってイメージしよう。ここで、めっちゃ、細胞が弛緩できなかったら、細胞は縮こまってしまって、人生の割と早い時期にいろんな病気になっちゃうかもしれない。反抗期は、細胞にとってのセイフティネットと思うとすっごく気持ちが楽にならない?

 自分が小6のころ、四男のようなワガママし放題、言いたい放題なんてありえなかった。
 というか、わがまま言ったことないんじゃないだろうか?
 四男より、私の方がよっぽどコワイ。それもこれも、母親が、すぐしゅんとなるから。
 だから、体験がない。
 人生、自分の自信となる基盤は、体験だと思う。
 自分の心なんてぶつからないとわからない。わがまま(自己主張)を言って、ギャーギャー言い合っても、親は結局見捨てない。つまり、最後は許されるという親との体験が細胞を解き放つ。わがままの限界までわがままを言えた(超自己中な自己主張)子どもは、その超わがままの体験を基盤として、そこから、ちゃんとわがままのさじ加減を習得して、対人関係という人生の荒波をのびやかに生きていけるような気がする。
 『うざい』『クソババァ』『べつに』なんて言葉、親に一度も使ったことがない。だから、私の細胞はめっちゃ、ガチガチ。

 『うざい』『クソババァ』『べつに』の言える子って、どんだけ~って概念を捨てよう。親にそれだけの言葉を放っても許されるという安心感がちゃんとあるって証拠だもん。細胞1個1個がのびのびしてるって、実は、一番幸せなことなんだもん。
 それを、言えないで育った人は、私みたいになる。胃がんになる?全身の細胞が機能低下しちゃってるから、だるい。疲れやすい。
 思春期に『うざい』『クソババァ』『べつに』などの言葉を言えた人とそうでない人の病気との相関関係を研究したらおもしろいかも。
 家庭内暴力というとコワイって思う。
 でも、どうなんだろう。かちんこちんに委縮していた細胞が、爆発して、それが、大爆発になってしまったということなんじゃないだろうか。刃物まで持ち出されたら、親も怖くて怖くてたまらないと思う。でも、きっと、刃物まで持ち出さないと細胞が解放されなかったのかもしれない。
 今、こうやって書いていて思う。
 刃物まで持ち出せるくらい超ワガママになれるって、ある意味超羨ましい。
 年齢的に大人になる前に、一度、ハチャメチャになれた人は、きっと、大人の年齢になった時、満たされた大人になれると思う。
 『うざい』『クソババァ』『べつに』を言えなかった人は、大人の年齢になっても、どこか満たされないんじゃないかなぁ。それはハチャメチャしていないから。ワガママの限界を体験していないから。
 職場に、とてもきれいなお上品な女性がいる。彼女の口から、思春期の頃、母親に向かって『うざい』『クソババァ』『死ね』という言葉を発っしていたと聞いて、信じられなかった。

 四男は、『おまえ』『死ね』『ぶっ殺すぞ』とまでのたまう。

 どう育つやら。

 でも、そう言える環境にある子って、幸せ者だ。 
 時代もあるかな?
 私の年代で、親にそんな言葉を使ったことのある人って、そう多くはないと思う。たぶん、みんな、貧乏で親も食べさせるだけで精いっぱいという年代だったせいかもしれない。遠慮していた。
 今どきの子は、共働きも多いから、そう貧乏ではない。2極化してはいるけれど。子どもの話に耳を傾けるというような子育て観も浸透してきている。昔より、わがまま言える環境になってきた?
  
 細胞のびのびな人とクソババァは相関関係だよ。きっと。
 
 で、クソババァが言えなかった人は、猫か甥っ子か孫の力で細胞を弛緩させるのは、大事。カラダが求めているんだと思う。
 猫を飼ってみて、初めてわかったことでした。

 なんでも、体験してみないとわかんない。

 追伸
 どんなにお願いしても、息子たちにチョコを与え続けて虫歯だらけにした義母をどこかで恨んでいた私だけれど、それが、決していいとは思はないけれど、義母も細胞がデレデレにならざるを得ないくらい細胞が縮こまっていたのかもしれないと思うと、少しだけ、許せる気持ちに・・?


 
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