進化する魂

フリートーク
AKB48が中心。
気の赴くままに妄想をフル活用して語ります。

AKB48総選挙の結果を見て、これは国政選挙に取り入れるべきだと改めて感じ入った

2011-06-10 02:43:49 | AKB48
AKB48総選挙の結果出ましたね。


1位 139829票 A 前田敦子 (速報:2位 前回: 2位 前々回:1位)
2位 122843票 K 大島優子 (速報:1位 前回: 1位 前々回:2位)
3位 74252票 B 柏木由紀 (速報:3位 前回: 8位 前々回:9位)
4位 60539票 A 篠田麻里子 (速報:6位 前回: 3位 前々回:3位)
5位 59118票 B 渡辺麻友 (速報:5位 前回: 5位 前々回:4位)
6位 55920票 A 小嶋陽菜 (速報:10位 前回: 7位 前々回:6位)
7位 52790票 A 高橋みなみ (速報:4位 前回: 6位 前々回:5位)
8位 50403票 K 板野友美 (速報:8位 前回: 4位 前々回:7位)
9位 45227票 A 指原莉乃 (速報:7位 前回:19位 前々回:27位)
10位 36929票 S 松井玲奈 (速報:9位 前回:11位 前々回: -位)
11位 33500票 K 宮澤佐江 (速報:11位 前回: 9位 前々回:14位)
12位 31009票 A 高城亜樹 (速報:12位 前回:13位 前々回:23位)

…………メディア選抜ライン…………

13位 27957票 B 北原里英 (速報:14位 前回:16位 前々回:13位)
14位 27804票 S 松井珠理奈 (速報:16位 前回:10位 前々回: -位)
15位 26070票 K 峯岸みなみ (速報:14位 前回:13位 前々回:16位)
16位 22857票 B 河西智美 (速報:15位 前回:12位 前々回:10位)
17位 17154票 K 秋元才加 (速報:23位 前回:17位 前々回:12位)
18位 16574票 B 佐藤亜美菜 (速報:18位 前回:18位 前々回:8位)
19位 16455票 K 横山由依 (速報:17位 前回: -位 前々回: -位)
20位 14137票 B 増田有華 (速報:19位 前回:25位 前々回:25位)
21位 12387票 A 倉持明日香 (速報:20位 前回:23位 前々回:21位)

…………選抜ライン…………


まず、得票数が予想を超えていた。

前日時点でつぶやいた予想の内容が、売り上げ枚数が133万枚くらいなら1,2位が10万票前後で、上位20%(20位)で80万票くらいであろうと予想したわけですが、1位が約14万票で2位が約12万票、上位12位が約76万票で上位21位で約94万票ですか。
予想よりも、売り上げ枚数が多かったか、もしくは無効票数が少なかったのでしょう。
でもまぁ予想としては結構いい線いってましたね。

いや、私の予想が正しいとか正しくないとかいう話をするつもりはありません。
このAKB48総選挙の結果が、ある重大なことを示していると言いたいのです。

どういうことかというと、AKB48総選挙の結果が実に自然状態に近い分散を見せたということです。
事前には、一部のファンのまとめ買いにより選挙が荒れるという推測もありましたが、蓋を開けてみればなんのことはない。
市場原理に任せた結果、得票数が綺麗にべき乗分布と呼ばれる傾向に基づいて分散することが確認できたのです。
驚くべき宇宙の法則としか言いようがない。

同じ現象はインターネットのアクセス傾向や、ネットショッピングの購買、株式の売買などにも見て取れます。
いわゆる一極集中とか、逆の観点から見ればロングテールといわれるものです。
1/fゆらぎというやつも同様だといわれています。
なじみの深いところで言えば、格差問題という文脈で富の分散がこの傾向をかもし出しています。

つまり、どういうことかというと、自然のものは全員が横一線に並ぶようなことにはならない。
少数の極端に数値の高いものと、多くの数値の低いものという形で分散する。

この総選挙の仕組みのすごいところは、Topを生み出すところである。
上位者を生み出す仕組みが内在されているから、単に選ばれるということではなく、相互作用によって選ばれる人物が育つのだ。
それは単なる競争によってということではなく、選ぶ側と選ばれる側の相互関係が創発する意味がステークホルダー全体に影響を及ぼすということで、運動会の横並びの順位では実現できない。
客と板前の関係と同じように、相互に関係し合い、育て合うという関係性だ。

この意味を理解している人は稀だろう。
ほとんどの人が総選挙を単なるイベントだとかファンを引き込む戦略だとか、広告戦略だと思っているに違いないが、そんな小さなものではない。
以前のエントリで説明したように、今後の飛躍は総選挙の健全性と拡張性をどう構築できるかにかかっているというくらい大きなものである。
非常にインスパイアされるものがある。

いや~、この結果を見て、改めて衆議院も全国1選挙区で実施すべきだと気持ちを強くしました。
選挙結果には必ず同様の傾向が現れるはずだ。
この仕組みが国家レベルのスケールの大きな政治家を生み出すはずである。
国民と政治との関係性に革命を起こすであろう。
AKB48に出来て国政選挙で出来ない理由はないはずだ。
彼女らを見習おう。

共産主義の夢、夏の夜の夢の如し

2011-06-08 10:52:46 | 政治
余命3年か?日本共産党が危ない(JBPress)
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/9556

日本共産党が体制を維持する収益源を確保できず、苦しいようです。
一昔前に騒がれた「不景気と格差社会を背景に日本共産党の党員急増」というのは結果として嘘だったのですね。
新たに党員になる数よりも、離党する党員の数の方が大きいから、結果として減っているようです。

共産党ビジネスモデルもついには瓦解か。
100年前には世界最先端の近代思想であったのだが、もう過去の時代の遺物になってしまうか。
一時代を築いたという点を見れば、時代によっては説得力もあったということだろう。

いや、昔は人々の夢であった。
だが所詮は夢であった。
現実を変え得る力を持たない夢など、夏の夜の夢のように、感傷に浸るだけのものでしかない。

日本政治の最大の問題は「衆参のねじれ」ではない

2011-06-06 20:09:27 | 政治
参議院のねじれ問題について。

制度的に参議院が強すぎるというのは確かに言える。

解散がないからホールドアップ問題が起きる。

けれども、根本的な問題はそこではない。

衆議院が機能していないから「ねじれ」が顕在化するのだと私は考える。

小泉郵政解散の結果に参議院は屈服したではないか。

同じ自民党だからではない。

根本的に政治家は「民意」には抗えないからである。

「衆議院が民意を代表している」という現実感がないから、参議院は独自の判断ができる。

しかし、それは参議院議員が民意を代表しているという自負があればこそである。

確かに制度的な問題はあろう。

しかし、仮に制度的な問題を解決しても、日本の政治の問題を解決することはできない。

問題は参議院のねじれではなく、衆議院が民意を体現していない点にあるのだ。

いつも繰り返すように、憲法を改正して衆議院の形を変えよう。
下記は最近、池田信夫Blogにしたコメントです。

新しい政党政治の形にチャレンジするのはどうでしょう。
衆議院を百人にして選挙区を撤廃。得票数の多い順で上位百人が当選。比例はなし。首相は衆議院から選ぶ。事実上の首相公選制になると同時に、投票結果から民意が明確にわかるようになる。民意が政治家の頭数ではなく得票数で示されるので、多数派工作の質も変わるし、国民にダイレクトに政治に対する責任意識を芽生えさせる機会になる。何よりも国会議員の位置付けが地域の代表から国民の代表に近くなるので、国家レベルの人材が政治家を目指すようになるため、人の問題を解決する仕組みになる可能性がある。意識的な問題から国と地方の役割分担も進むと考える。
この場合、独裁をどう抑止するかという点において参議院の価値を見出だしたい。

権力者は必然的に堕落する だから責任という概念がある

2011-06-04 23:05:37 | 哲学・思想
いつもの焼き直しですが、何度でも言います。

「権力(権限)」と「責任」のバランスのお話です。
権力者が堕落するのは、権限と責任のバランスがとれていないからに他なりません。
権限の範囲と責任の範囲が一致しないと、権力の暴走が起きます。

「権限」と「責任」は常に表裏一体で、組でなければならない。ドラッカーの言うように「権限を越えた責任、および責任を超えた権限は、どちらも権力の暴走(専制)を招く。」

責任を超えた権限は無責任を呼び込み、権限を越えた責任は相手の無責任を呼び込む。無責任は権限の暴走を止められない。

権力というものが、我々の思考に深く影響し、他社への共感を失わせるのだとしたら、我々は「責任」という言葉を見直さなければならない。
権力者に対して責任という制約を突きつけ、自己認識を明確にさせるのだ。

権力者はなぜ「堕落」するのか:心理学実験(WIRED VISION)
http://wiredvision.jp/news/201106/2011060319.html

[前略]

心理学者たちによると、権力者の問題のひとつは、他者の状況や感情に対する共感性が低くなることだという。いくつかの研究によれば、権力的な地位にある人は、ほかの人を判断する際に、ステレオタイプ的な判断を行ないやすく、一般化しやすいという。

[中略]

この傾向は、権力の「視野の狭さ」が引き起こすものだと研究チームは主張する。権力を手にすると、世界を他者の視点から想像することが非常に難しくなるというのだ。

[中略]

さらに、権力者は偽善的傾向も持ちやすい。

[中略]

人間は大抵の場合、正しい行ないは何か(ズルは悪だということ)を知っているが、自分が権力を手にしていると感じると、倫理的な過ちを正当化しやすくなる。例えば、約束の時間に遅れてスピード違反をする行為について、両グループの被験者に評価をさせたところ、権力を想起したグループは、その行為をする当事者が自分ではなく他人であった場合に、より厳しい評価を下す傾向を一貫して示した。つまり、ほかの者は法律に従うべきだが、自分は重要な人物であり重要な行動をしているので、スピード違反にも適切な理由がある、と感じやすいというのだ。

[中略]

195301993年に米連邦最高裁が下した判決を1000件以上にわたって分析したところ、判事の法廷における権限が強まるにつれて、あるいは判事が法廷の多数意見を支持した場合において、彼らの意見書の文言からは、複雑さや細かいニュアンスが失われる傾向が明らかになった。彼らが検討する視点はより少なくなり、判決から生じうる影響についての検討も少なくなった。そして問題は、こうした「多数意見」が実際の法律になっていくことだ。

ミシェル・フーコーが語っているように、権力のダイナミクスはわれわれの思考に深く影響する。権力の階段を上るにつれて、われわれの内なる議論はねじ曲げられ、他者への自然な共感は否定されるようになる。自らの行動が及ぼす影響など気にかけず、お構いなしに実行するようになっていくのだ。


・責任関連のエントリ

安易な権力集中に関する議論は「隷従への道」
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/58cfc83e19ad7ab2b24f2a05deb51fad

無縁社会にならないために今こそ「責任」という言葉を再発見せよ
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/011986c05acb69016396a3c9d3b96e3b

「責任」とは何か?
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/6a6594e111f05bf1810b00879c926c1a

「日本の病」は「国民の総無責任化」
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/a20b61ea8584f0a267e40ddec066e623

[責任シリーズ][01] これからの「責任」について話をしよう 導入
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/094f3c81bbc07ca11ef1ea2be5f53f07

その他いろいろあります。

小沢の無策ぶりに驚いた。日本の夜明けは近いかも。

2011-06-03 17:11:51 | 政治
ちょっとAKB48ネタをやり過ぎたので、他の話題もそろそろと。

茶番が終わっての戦評、あるいは菅直人さん辞任を否定し居直り宣言(切込隊長)
http://kirik.tea-nifty.com/diary/2011/06/post-2758.html

オレに大臣やらせろ! オレも首相やりたい!!! (Chikirin)
http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20110603

政権与党が民主党になってからというもの政治が面白すぎる。
趣き深いの方ではなくて、苦笑いや失笑を通り越して大笑いの部類。
本当の意味で政治がワイドショー化してしまった。

小泉内閣の時もワイドショー内閣だと揶揄されたが、実際にワイドショーだったのは基本的にマスコミだけだった。
それを良い意味でも悪い意味でも利用したのもまた小泉内閣だったのだけれども。

今回の件に関して言うと、攻める方もずいぶんとマヌケだったなということ。
当Blogではずいぶんと小沢イズムに賛意を表してきたが、もう小沢も老いたようだ。
なんだこの無策ぶりは。
不信任案が可決する情勢になれば、窮鼠猫をかむではないが当然ながら執行部も何らかの手を打つことが予想できたろう。

「負けて不思議の負け無し」ではないが、今回の敗北の原因は明らかだ。
そもそもの目的が間違っている。

「不信任案を可決させて菅政権を終焉させる」だから駄目なのだ。

「菅政権を終焉させる」であればよかった。

そうすれば「不信任案を可決させるぞ!」と圧力をかけて菅さんに辞任を約束させようが、不信任案が可決された辞任しようがどちらでもよく、どちらに転んでも非常にうまく事態を収束させることができたはずだ。
仮に菅さんが辞めると言ったのに辞めなかった場合でも、圧力をかけ続けることができる。

目的を誤っているので、菅さんが辞任を匂わせた段階で「"不信任案を可決させて"菅政権を終焉させる」という目的を失ってしまい、推進力を失ってチリヂリになってしまった。

バカである。

そもそも菅政権を終焉させることを目的とする自体どうかと思うが、間違った目的に間違った戦略を重ね合わせているのだから救いようがない。
あの小沢とは思えない失策だ。
小沢が画を描いたのではなく、担がれただけだと考える方が自然だろう。
以前から小沢の不幸は弟子に恵まれなかったことと書き続けているが、それ以前にもはや担がれるだけの印籠になってしまったのか。

こんな無策な連中が小沢シンパなのだとすると、官僚をコントロールする力もないだろうから、もう何も期待できない。
情熱だけあっても実行力がないのでは政治家として話にならない。
小沢一郎に期待するのももうやめた方がいい。

小沢の時代はもう終わった。

残念だが、日本の政治におけるこの不都合な真実を受け入れることが、新しい日本の夜明けに向けた第一歩なのかもしれない。

AKB48『Everyday、カチューシャ』の聴き方

2011-06-03 15:32:45 | AKB48
AKB48『Everyday、カチューシャ』を耳にタコができるほど聴いて思ったこと』の続き

一昨日『Everyday、カチューシャ』の雑感を書いたのだが、基本的に楽曲に関する他人評は全く当てにならない。
趣味趣向を完全に共有している人もいないし、同じ人でも感じるものが状況によって変わるからだ。
眠い時、空腹の時、悲しい時、イライラしている時、うれしい時などなど1日の間にも変わってしまうものだ。
偏見やイメージでも変わる。

楽曲に関する感じ方を科学的に分析しようという試みは、これまで腐るほどされてきたが、信頼するに値する成果は得られていない。

「名曲の法則」なんてものは存在しない。
人が未来を完全に予測できるようになるまで不可能だ。
つまり、不可能である。

『Everyday、カチューシャ』についても、聴き方一つで大きく評価が変わる。

例えば、『Everyday、カチューシャ』が『ポニーテールとシュシュ』の続編なのであれば、単独で聴くのではなく、2曲を続けて聴いてみると何かがわかるかもしれない。
実際、私は2曲を続けてリピート再生し続けてみたが、この2曲がシリーズになっているのは感覚的によくわかる。
『ポニーテールとシュシュ』よりも1年分の進化を遂げていることを感じることができるだろう。

他にも、『Everyday、カチューシャ』が夏の曲なのであれば、部屋の中で閉じこもって聴くのではなく、外に出て、例えば砂浜や、シーサイドをドライブしている時に聴いてみると感じるものが変わってくるはずだ。
よく晴れた夏の日に、湾岸線を走りながら聴いてみれば、きっと感じるものが異なるはずだ。

これはクリエイターにとっては悩みの種であろう。
何かを創り上げるためには、何かを想定する必要がある。

「反証可能性のないものは科学ではない」とよく言うように、想定のないものは科学でもなければ何者でもない。
同様に、想定のない創作物なんてものも、何者でもない。
いや、もちろん芸術作品として何者でもないものを意図することはあるだろう。
しかし、そういったものは誰からも共感を得られない。

より深いインパクトを与えるためには、想定範囲は狭い方がいい。
だが、狭くしすぎるとより多くの人から共感を得ることが難しくなる。
このトレードオフを如何に止揚できるか。
ここにクリエイターの腕の見せ所がある。

『Everyday、カチューシャ』について言えば、その点がしっかりと計算されていると感じることができる。

まず、夏を想定した軽快でアップテンポなサウンドに仕上がっている。
AKB48のレパートリーを充実させる意味でも、これまでの楽曲には無いタイプであることも重要だ。
その上で、し過ぎなくらいノーマライズしていて、何者でもない楽曲になっている。
とにかく癖をなくして"消費しやすい"楽曲を同時に目指している。

要は、夏の曲として想定をぐっと絞りつつ、ノーマライズして幅広くターゲットを掴もうという、二兎を追う意欲的な作品と受け取ることも可能だ。
第3回総選挙の楽曲として恥ずかしくない作品にしなければならないという、製作者側の意気込みを感じる作品といえるだろう。

夏の歌を想像してみてほしい。
出会いや失恋とか、ついつい高揚感やノスタルジー、黄昏を楽曲に込めてしまう傾向があるものだ。
夏の恋の歌をサラッと流すというところに、強いて言えば、この歌の良さというものがあるのだと、まぁ全て私の妄想なのだけれども、そう思うのだ。

いや、それが個々人に受け入れられるかどうかというのは、個々人の感性や趣味の問題だから、この曲が良いとか悪いとかという話をしているわけではない。
私は一回も、AKB48が良いとか悪いとか、AKB48の楽曲が良いとか悪いとかという話をしたことがない。
私の興味というのは、誰が何を狙い、何を達成しようとしているか、という点にあるのである。

ブログ近況報告 AKB48様々

2011-06-02 00:17:41 | AKB48
少しやり過ぎ感も出てきましたが、連日のAKB48ヘビーローテーションで減っていたアクセス数をだいぶ戻すことに成功しました。
(とはいえ、アクセスの種類も変わってしまった気もしますが。それがいいことなのか悪いことなのかは謎。)

しかし毎日エントリを更新するのは骨が折れる。
ただでさえ疲れているところで、さらに疲れるわけです。

AKB48でいうと、今語りたいネタは主に3つあります。
題名は考えたので、あとは中身を書く気力が起きるかどうかですね。

- AKB48の基本コンセプトはどうあるべきか
- AKB48の革新性はどこにあるか
- 総選挙について(つづき)
- 私はなぜAKB48推しになったのか

最近は政治について語るのを一時停止しているので、できる限りAKB48ネタを継続したいと思います。

ここ1週間ほどで語ったAKB48関連のエントリです。


AKB白熱教室 大島優子教授による講義

AKB48『Everydayカチューシャ』の出荷予定枚数が驚愕の200万枚

AKB48『Everyday カチューシャ』のPVを視聴してみた

AKB48総選挙におけるビック・プレーヤの存在について考えてみる

「育てるアイドル」とアイドルの株式会社化

AKB48「マジすか学園2」を見てみた。

AKB48「マジすか学園」を見て思った。「もしドラ」の次は「もしビジョ」でどうでしょう

AKB48批判が全く的外れな件について イノベーションを理解できない日本人

今一度、AKB48総選挙について語ろう

AKB48『Everyday、カチューシャ』を耳にタコができるほど聴いて思ったこと

AKB48『Everyday、カチューシャ』を耳にタコができるほど聴いて思ったこと

2011-06-01 17:06:56 | AKB48
語りたいことはいっぱいあるのだが、時間が無い。
(言葉ってのは何でこうも不完全なんだっ!いや不完全なのは私の能力か・・)

なので、ついつい簡単な話題に流れてしまう。
今日はちょっと趣向を変えて、AKB48の楽曲に対する私見を述べたい。
どうでもいい話なので、興味ない人は読み飛ばしちゃってください。

曲は当Blogで話題の『Everyday、カチューシャ』だ。
PVについては既に雑感を述べた。

AKB48『Everyday カチューシャ』のPVを視聴してみた

今度は、楽曲そのものについてだ。

これは、個人的な何の根拠もない考えなのだが、だいたい1つの楽曲を20回程度聴くと、どんな曲でも、その曲の良さがわかりはじめる。
50回程度聴くと、なんだか自分の一部のような気がしてくる。
100回程度聴くと、もう自分の曲なんじゃないかと錯覚する。

既に『Everyday、カチューシャ』は100回以上聴いているので、そろそろ語れるような気がしてきた。
もう自分の曲なんじゃないかという気がしている。
(ファンから言わせればまだまだだと思うが)

そんな私の『Everyday、カチューシャ』雑感を述べたい。

まず、端的に言ってノーマライズし過ぎだと思う。
正規化し過ぎて何者でもない曲になってしまっている。
これでは「AKB48」の冠を外したら誰の曲かわからない。

繰り返し聴いて楽曲のことがわかるにしたがって、なぜ『Everyday、カチューシャ』のPVがあのようなつくりになったのか理解できた気がする。
何者かわからない楽曲だから、何者かわかるように作ったのだ。
PVを作る側は悩んだのではないか。
PVのつくりに妙に納得してしまった。

もちろん、これは製作者側からすれば意図した通りである。
AKB48の楽曲は、"AKB48の楽曲"でなければならず、"AKB48の誰かの楽曲"であってはならない。
それは、AKB48がプラットフォームであって、決してグループではないということからきている。

いや、楽曲としてのクオリティは上がっていると思う。
冒頭からアップテンポで前のめり過ぎるだろと思う変なテンポも、繰り返し聞いていると計算されたものだと気づく。
メジャーアイドルとして恥ずかしくない楽曲だ。
ただし、あくまでもメジャーアイドルの楽曲としてだ。
広く浅くカバーはするが、深みやコクが思いのほかない。
(でもアイドル楽曲が人生語るほど深い必要はない。)

アイドル楽曲のクオリティとは「消費されやすさ」でもある。
ゆえにアイドル楽曲は消費されて終わるだけになってしまう。
名曲として残る、歌い継がれる楽曲はなかなか生まれない。

狙い通りだ。
計算し尽くされた消費される楽曲。
しかし、私はちょっと残念な思いがした。
もちろん、私が勝手に残念がっているだけなので、勝手に言ってろと思われて構わない。

それでもあえて言いたい。
私は正直に言って「これがAKB48なのか?」という疑問を持たざるを得ない。
この楽曲のどこにAKB48らしさがあるのか?
製作者側の意図を聞いてみたい。
AKB48のコアコンピタンスは何だ?
メジャーアイドル楽曲にする必要がどこにあるのだ?
この楽曲の跡に一体何が残る?

これは個人的趣味以外の何者でもないが『ポニーテールとシュシュ』や『ヘビーローテーション』と、『Beginner』の間に一線があるようにも思える。
(チャンスの順番は?)
あの時からAKBの楽曲は根本的に何かが変わった。
『Beginner』がAKB初のミリオンセラーになったこととも無関係ではない。
つまり、国民的アイドルを完全に意識したつくりに変わっている。

これも個人的考えでしかないのだが、昨年の第2回総選挙を通してAKBは一気に広がりを見せた。
『ポニーテールとシュシュ』や『ヘビーローテーション』によってAKBが世の中に広く認知されたのだ。
そのため、『Beginner』からAKBは国民的アイドルとして振舞わねばならないプレッシャーがかかっているのではないか。
否が応でも注目される第3回総選挙『Everyday、カチューシャ』で、それは先鋭化されている。

そう考えると、そもそも「AKB48とは何なのか?」という基本コンセプトに立ち返る必要性を感じる。

いや、AKB48の上位グループをメジャーアイドル化させるのがビジネス戦略上有り得るのは知っている。
シャワー効果を狙っているので、国民的アイドルとして広告塔になってもらわねば困るという意見はわかる。
しかし、私がここで問題にしているのはそういうことではない。
AKB48とは何か?AKB48の基本コンセプトとは何か?という点を取り上げている。

ドラッカーや多くのビジネス研究が雄弁に語るように「基本コンセプト、コアコンピタンスから外れるものは、ことごとく滅ぶ。」のだ。
基本コンセプトやコアコンピタンスを外れた拡大・多角化路線は破滅への道である。
どんなに収益を上げる戦略があろうとも、基本コンセプトに違反するものは絶対に拒否しなければならない。

では、AKB48の基本コンセプトとは何なのか、について少しだけ議論したい。

「会いにいけるアイドル」であろうか?

これは1つの選択肢として大いにあるだろう。
国民的アイドルになる必要性は必ずしもなかったように思う。
各メンバーは女優なり歌手なりの夢を持っているので、国民的アイドルに登りつめた方が夢の実現に近づけることは間違いない。
ビジネスサイドもより利益を稼げる方がよいのも間違いがないだろう。
しかし、売れるからといって、規模を拡大しなければならない必然性も実はない。
ソニーの設立趣意書ではないが「徒に規模の大を追わず」に基本理念を忠実に追い求めた方が、長期的な利益に資する可能性はある。

これは、AKBが初ミリオンを達成した時に当Blogに書いたことだが、「拡大路線を取ったことで、AKBは新しいPhaseに入っており、ここでの舵取りに失敗すると急激に落ち込む可能性もある。」と今も改めて思う。
メジャーアイドルと化した上位グループの失速は、AKB全体に影響する。
秋元氏は、永続的にヒットしていく難しさを知っているはずなので、何も考えていないことはないと思うが。
(実は足きりしやすい仕組みでもあるなと思ったりもするのだがまぁそれは別途だ。)
短期的な利益を追い求めて急激な拡大路線を展開すると、それが中長期的に足かせになる。
本当に得意な分野に絞って確実に利益を積み重ねる方が長期的にはプラスになる。


時間ある時に私の考えるAKBの基本コンセプトを発表します。

さて、いきなりまとめ。

いまだにAKBの代表曲は「会いたかった」である。
この曲がAKBらしさを存分に表現しているからに他ならない。
AKBのビジネスサイドは、この意味をかみ締めて考え直す部分があるのではないかと思う。

無批判にAKBを応援しているわけではないってことをアピールしたかったエントリです。
読み返すとひどい文章だなと思いますが・・すみません。。