粗忽な夕べの想い

落語の演目(粗忽長屋)とモーツアルトの歌曲(夕べの想い)を合成しただけで深い意味はありません

桂枝雀「高津の富」

2013-12-21 16:15:08 | 落語

12月巷では年末ジャンボ宝くじで一攫千金を夢見る人々が売り場に群がる。江戸時代にも富くじというのが神社で発売され境内で当選発表が行われる。その富くじをテーマにした古典落語がある。「高津の富(こうづのとみ」という演目で桂枝雀師匠のYoutube動画で楽しめるのはとてもうれしいことだ。自分にとっては彼の落語がこの演目では最高のものだと思っている。

ストーリーは、見た目には風采の上がらぬ旅人のおっさんがなんとか自分が大金持ちであるがことく大ボラを吹いて大阪の宿屋に泊めてもらうことから始まる。そのかわり宿屋の主人(富くじ販売で稼業の足しにしている)に勧められたクジ(翌日抽選)を見栄で有り金を叩いて買ってしまう。そして「当ったらあんたに当選金の半分を上げる」と余裕さえわざと示す。しかし、無一文になった旅人は、宿代のことで気が塞いだまま翌日富くじの抽選会場である高津神社へ向かう。その結果はいかに?

落語は40分以上の長い内容だが、師匠らしいコミカルな語りとオーバーアクションが観衆の爆笑する映像で楽しめるのが素晴らしい。長過ぎて直ぐに聞き通す余裕がない人は、落語の「マクラ」(動画では最初の約3分)だけを聞いてもおもしらい。マクラは本題に関連した日常的な話題で聞き手を誘い込むものだ。いわばウォーミングアップといえるもので、実際これで笑いが取れないと本題で聴衆の興味を引込めない。その点枝雀師匠の語りは力みがなく安心して笑えるところが魅力だ。「最近不吉な言葉を耳にした、宝くじを買った人の中から当たりがでる、私には可能性が薄い今日この頃」、言葉だけでは大して面白くもない話も師匠のとぼけた語りだとなんとも可笑しい。

そして本題、まず旅人が大金持ちを取り繕う大ボラがしつこいくらい続く。盗賊が来たが、金が有り余っているのでこちらも助かる、持ってってもらおうとしたらたった千両箱86個しか減っていない、わたしゃがっかりした。女中へ漬物の重しに千両箱を使えと十個出したら、(女中が言うには)すぐになくなってしまった、そこで十だしたらまたなくなってしまった、また十個出したら…。(我が屋敷は)門に入って玄関へ着くまで四日もかかる、途中泊まる宿場町は三つある。屋敷にいる800人分のご飯を炊くのに大きな釜がいるが、大きすぎて家の者が釜に飛び込んで水加減する。

それぞれのホラ話の後、「ははは、嘘じゃありませんぜ」という駄目押しが入る。その乾いた笑いを込めた師匠の物言いが絶妙である。「ははは」という度に聴衆から笑いがどっとあがる。その辺の話芸はなかなか他の芸人には真似が出来ないところであり、正に天才的ともいえる。

境内では抽選を見届ける見物客でごった返している。そばから聞こえてくる人々の夢物語も楽しい。男たちがまるで1等が当ったかのように憧れの芸妓遊びを想像してうっとりする様は、現在ではキャバクラ通いにも通ずるだろう。

クライマックスはやはり、旅人の富くじがなんと一等千両に大当たりしてそれを確認する場面だ。「当りゃせん、ねの1365番?」この「1番が、ねの1365番」が何回も繰り返される。「ねの1365番、どういうこと?」「1365番ということは1365番とどこがちがう?」…そして「当った、当った、た、た、た、た、た、…」と最後には陶酔状態。

旅人が帰ってきて、宿屋の主人も当選番号を確認する。主人も当選が信じられずに何度も確認する。そして、「当った、た、た、た、」と我を忘れて2階にいる旅人の部屋へ下駄も脱がずにはいっていく。そしたら旅人も、陶酔から寝込んでしまっていた、草履をはいたまま。

「高津の富」は上方落語の滑稽話の代表格だ。この演目はその後江戸落語に移植されて「宿屋の富」という名前で演じられる。しかし、理屈抜きで馬鹿馬鹿しいほどの滑稽さはやはり上方向きにように思える。それも枝雀師匠のハチャメチャな楽しさは類を見ない。「ねの1365番」という番号が頭から離れない。今度の年末ジャンボの1等はどんな番号だろうか。当選を何度も確かめる興奮をできれば味わいたいものだ。


ピアノと管楽器のための五重奏曲

2013-12-20 21:44:26 | 音楽

自分の勝手で恐縮だが、たまには好きな音楽について書いてみたい。モーツアルトの隠れた名曲の一つに「ピアノと管楽器のための五重奏曲(K.452)」という長たらしいタイトルの曲がある。ピアノと四つの管楽器オーボエ、クラリネット、ホルン、ファッゴットによる五重奏曲だ。

このうち管楽器四つは、クラシック音楽の基本ともいえる楽器で、それぞれが独特の音色と味わいがある。どこか鼻にかかって鮮明で澄んだ響きのオーボエ、人間の秘めた感情が伝わってくるクラリネット、心からの叫びのようなホルン、とぼけた感じがあって親しみやすいファゴット。そして、旋律、リズム、ハーモニーが明快なピアノがこれら管楽器をリードしていく。

とはいっても、ピアノを含めた全ての楽器がそれぞれ独奏部分を与えられていて、全てが主役、ソロになりうるし、また他楽器を引き立てる脇役、オーケストラにもなる。

この曲が初演されたときモーツアルトはピアノを演奏しているが、他の管楽器奏者は皆日頃親しい仲間同士であり。それぞれが当時その楽器の名手であった。この曲を聴くと当時のモーツアルトの親密な交遊を思い出される。お互いを尊重しあい、音楽を通じて深い絆で繋がっている。

この曲が創られたのはモーツアルトが28歳(享年35歳)の時であったが、彼が父に宛てた手紙には「私自身これまでの作品の中で、この曲を最高のものだと思います」とまで書いている。まさに自信作、名曲と言える。

35年の短い音楽家の人生で晩年は借金苦で不遇な最期を迎えたモーツアルトであったが、この当時は音楽の都ウィーンで彼の音楽が愛され絶頂期であったといえる。その後は彼の芸術性がさらに深化して時代を飛び越えていく。

そんな幸せな時代の傑作で全体的に明るさに満ちているが、モーツアルト特有の寂しさが感じられる。それが単に楽しいだけでなく、何か心の琴線に深く触れて離さない。美しい天上と現世の哀しみが交錯する天才の音楽といえる。


猪瀬知事の辞任

2013-12-19 10:18:11 | 国内政治

とうとう辞任か!猪瀬さんは所詮副知事がお似合いということだったのではないか。ブレーンとして実務能力があって刃物のように都政に切り込んでいく能力はあっても人間的な包容力に欠ける。人望といってもよい、人が慕ってよってくるような懐の広さに乏しい。

猪瀬さんには信頼に足るブレーンを持っていなかったといわれる。従来から攻めに強い性格からどんどん政務をこなそうとした。しかしスキャンダルが発覚。プライドが人一倍高い彼は、件の5000万円が選挙資金ということを認めることができなかった。最初の段階であっさり認めればその後の展開は大きく変わっていただろう。

この苦境の打開に協力してくれる人もなく、孤立したまま深みにはまってしまった。人徳のなさといわれればそれまでだが、結局都知事であったことが不幸の始まりだったといえる。副都知事の地位のまま人気をもっとうしたならば、その評価は相当違っていたものになっていたに違いない。

それも石原前知事が突然衆議院選挙に出馬したことが原因だ。残念ながら石原氏も国政ではその存在が決した芳しいとはいえない。前知事と近々なるであろう前知事ともにその人生の選択に綻びが出てきたといえようか。


追記:猪瀬知事の最近の言動ではやはり「カバン詰め込み」答弁を見たら辞任も仕方がないと思った。まさに「バカ殿様」のコントだ。

5000万円の札束は問題の鞄にしきりがあって入らないと質問者が糾すと、猪瀬氏本人がわざわざ札束を詰め込む実演をする。しかし、チャックが閉まらずはみ出してしまう、チャン、チャン!

あの大宅ノンフィクション賞受賞作家がコント作家を飛び越して志村けんになろうとした。しかし、百戦錬磨の笑いの達人には到底及ばず、使いパシリ新人芸人どまりだ。爆笑の渦など望めず、苦笑が漏れる。猪瀬さん、コント作家として再起をはかる?


空間線量と実際の被曝との比較

2013-12-18 16:10:01 | 福島への思い

福島の原発事故以来、住民の外部被曝を調べる目安として各地域の空間線量が基準にされる。ただ、これは特定地点の野外の線量を示すものであって、実際そこで生活する住民の日常的な被曝とは相当差異があるとみられる。多くの人は野外にいる時間より線量が遥かに低い室内に長くいるからだ。

特に福島県内では他県と違い、野外の線量が高いのだが、実際県民が外部被曝する線量はどの程度なのかは肝心である。その疑問に一つの答えとなる資料をネットで見つけることができた。

「酋長仮免厨」という人が、経済産業省が今年3月に発表した「年間20ミリシーベルトの基準について」という資料を紹介している。この資料は福島とチェルノブイリの事故を様々なデータを駆使して比較したものだ。結論からいえば、「東電福島第一原発事故は、チェルノブイリ原発事故に比べ、 セシウム137の放出量が約1/6、汚染面積が約6% 放出距離が約1/10の規模」に過ぎず、政府が事故直後に決めた20ミリシーベルトの被曝限度基準や食品日暫定基準も、チェルノブイリと比較してもかなり厳しく、日本政府の対応は妥当なものだったということだ。

資料はいろいろ興味深いデータを提供しており、今後も自分のブログでも取りあげたいと考えている。今回は冒頭であげた課題について見てみたい。福島県内の空間線量と日常生活での被爆線量に関してだが、経産省の資料では12ページ目に具体的なグラフが出ている。

二本松市、福島市、伊達市、郡山市での住民の年間被曝実測値と推定値である。注にある通り、実測値は市町村から各個人に配布されたされた線量計を12ヶ月分計測した年間被曝量であり、測定者を被曝線量の度合いで分類したものだ。推定値は福島県が固定点で計測している空間累計線量’(測定者と同期間)と考えてよいだろう。

たとえば、福島市では推定値が4.68ミリシーベルトとなっている。しかし実測値は0.4~2.0ミリシーベルト未満がおよそ8割で圧倒的に多い。多い人でも2,0~4.0未満が1割程度だ。推定値4.68ミリということは1時間の平均が0.53マイクロシーベルトであり、8割の実測値0.4~2.0ミリの中間1.2ミリでは毎時0.13マイクロシーベルトということになる。そうすると福島市での日常生活はさほど気にする必要がないことがわかる。

さらに推定値の4.68ミリも世界の外部被曝と比較したら、そんなに問題すべき数値でもない、資料の15ページを見ると、極端な話、年間10ミリ以上というところが多数存在し、ハンガリーでは福島の推定値に近い3ミリ~5ミリの被曝をする地域の住民が269万人26%に及んでいるのだ。福島の推定値は世界の「日常」と考えてよいのではないか。

もちろん世界の高い線量の地域がその影響を受けてガンなどの病気が多発しているという話を聞いたことはない。したがって資料の5ページ、米国科学アカデミー「放射線生物学的影響 7次レポート」(2012年)の報告が控え目にみても妥当だと思われる。

「それを下回るとガンを誘発しないというしきい値が存在するとは考えない が、低線量被ばくによる発ガンリスクはあったとしても、小さいだろうと 考えている。」




兵庫県立高校教頭の真っ当な回答

2013-12-17 14:31:23 | プロ市民煽動家

原発事故後2年9ヶ月、今や放射能被曝を煽る話題はメディアでほとんど聞かれなくなった。あの武田邦彦中部大学教授さえ、ご本人のブログに煽動的な記事はみられない。代わって「幸福シリーズ」とか「男と女」とかいった教授らしからぬ記事が目立つ。いつの間にか社会風俗研究家にでもなったようだ。

そんな中、今でも相変わらず放射能被曝の「恐怖」を訴え「警告」を鳴らし続ける人物がいる。あの反原発派の最右翼(左翼?)木下黄太氏である。本日(12月17日)のブログを見ても例の「イエロー節」は健在である。

今日は、兵庫県三木市内の県立高校で、福島へのボランティアに生徒派遣したり、修学学旅行を計画していることに対して糾弾をしている。理由は相変わらず生徒の被曝による健康不安である。ボランティアは今年8月に既に行われていて、有志生徒29人が福島市や相馬市で「手袋もせずマスクもせず、ももの袋掛けと、芝公園の草刈りを4時間、作業した」ようだ。修学旅行は来年1月に予定されている。

この学校の試みを知った市内の母親がその県立高校に抗議の電話を入れたところ、そこの教頭からこう「罵られた」という。

「飛行機に乗る方が被曝する!2日ぐらいで危険なわけが無い!」と。

自分自身、この返答は至極「真っ当な説明」であると思う。例えば、飛行機で海外で短期間の修学旅行に出るとしても10マイクロシーベルト前後の外部被曝を受ける。それと比較して、福島の野外を数時間過ごしても現在被曝は遥かに低い(年間を通じても問題ない)。屋内ならば他の地域とさほど変わらない線量である。機内の被曝が全く問題にならないのに福島を特別扱いするのは不当である。

抗議した母親から話を聞いた木下氏も再度そこの教頭に電話をしたようだ。再び出た教頭から今度は木下氏に『どうして行っちゃいけないのか」と逆質問さしたので、彼は「内部被曝とは危険度が全然ちがう。1度の内部被曝で致命的ダメージを受けて将来発病するおそれがある」と内部被曝の恐さを強調した。これに対してその教頭はこう反撃した。

「被曝が1日くらいなんてことない。365日のウチたった1日ですよ。今も貴方が危険という福島に、住み続けている人がいるんですよお。福島の人が可哀想だとは思わないんですかー?ほんっとうに可哀想ですー気の毒ですー。あなたの理屈では、東北の人は飢えて死ねということですねー。」
等々畳み掛け、
「こんなところに電話しているヒマがあったら、あなたが政府に働き掛けて下さい」
「応援しますよーがんばってくださいよー貴方が政府を変えて下さいよー」、と。

なかなかこの教頭、反原発派の論法をよくわきまえていて「ツボ」を心得ているなあ、と感心する。たった1日の被曝を問題にする煽り派の弱点を突いている。さらに「今も貴方が危険という福島に、住み続けている人がいるんですよお」という物いが「福島差別」だと暗にこれまた反原発の「急所」を抑える。挙げ句は福島の人が可哀想だとは思わないんですかー?ほんっとうに可哀想です」と反原発が最終的に訴える「情緒」さえも「逆利用」する演出?の巧みさだ。

まさに反原発派の抗議に対する「模範回答」といってようだろう。木下氏が、「「『生徒が後年病気になったら、貴方や高校が補償できるのか』と聞きましたが、大声をかぶせてきて答えませんでした」、と「悔し紛れ」の反撃をしたようだがどうみても教頭VS木下黄太の初対決は教頭の圧勝のようにみえる。

木下黄太氏はこの対話の感想をその後もいろいろ書き綴っている。呆れる、次元が低い、責任回避、果ては「日本、日本人、教育者が如何に馬鹿なのかがよく分る事例」、とこの教頭を罵っているが具体的根拠がなく、まさに「八つ当たり」「後の祭り」といってよいだろう。反原発派の中では「理論派」(強弁派?)を自認する木下氏をもってしてもこの状況である。

思えば反原発派の社会的抗議活動は昨年の被災地広域がれき処理反対運動を境にしてその勢いが急激に衰えている感じがする。だから、こうした一自治体、一学校の試みに「いちゃもん」をつける程度の「ぼや」あるいはただの「煙」で終わっている。特に低線量被曝に対しての誤解は是正されその被害についても国民が冷静になりつつあるといってよい。今回の模範回答の県立高校教頭を見るにつけそれを実感する。