粗忽な夕べの想い

落語の演目(粗忽長屋)とモーツアルトの歌曲(夕べの想い)を合成しただけで深い意味はありません

ミラーイメージと松山鏡

2014-10-07 13:55:10 | 落語

最近よく使われる言葉にミラーイメージというものがある。ネットの解説では「相手の行動・感情は自分と同じようになるはずだと思うこと」とある。どうも最近の韓国の日本叩きなどその最たるものではないか。

昨年、韓国で行なわれた日韓サッカー戦で、「歴史を忘れた民族に未来はない」といった横断幕が韓国人の観客席から掲げられた。これは明らかに日本を意識したものだ。つい最近まで行なわれた仁川アジア大会でも韓国のテレビ局が日本選手団が登場した時に「周辺国と深刻な外交摩擦を起こす国」というテロップを流して問題になった。

こうした事例は日本人にとって全く不愉快であるばかりでなく、これをそっくり韓国にお返したいと思ったことだろう。日韓基本条約を結んで過去の清算をお互いはかろうとしたにも関わらず、過去のそれも虚偽の歴史を蒸し返して日本に謝罪と賠償を求める。自分の政権を維持したいために一方的に日本に領土問題や慰安婦問題を仕掛けて国民の支持を取り付けようとする。その厚かましさは、それこそ、ミラーイメージの悪用そのものではないか。

ところで、こうしたミラーイメージをそっくり落語で物語化したものがある。落語の定番「松山鏡」で往年の大家八代目桂文楽師匠が得意とした演目である。この落語は以前もブログで紹介したことがあるが、改めてそのあらすじを提示したい。

 

越後新田松山村には鏡が無かった。ここに住む正直庄助は特に親孝行で、両親が亡くなって18年間墓参りを欠かさなかった。このことがお上に届き、褒美が出ることになた。金も畑も何もいらないが、どうしてもと言うならお上のご威光で「とっつぁまに夢でも良いから会わせてくんろ」。これは無理というものであったが、今更断れない。庄助は親に似ていることを確認して鏡を渡した。箱の中を覗くと父親が居て、涙を流して話しかけた。
 「他の人に見せるでないぞ」と言うことで、鏡を賜った。

 他人に見つからないようにと、裏の納屋の古葛籠(つづら)にしまい込んで、「行って来ます」、「ただ今戻りやした」と毎日やっていた。
 それを見ていた女房・おみつが、何かあるのではないかと葛籠を開けて、鏡を見てビックリ。そこには女が居た。鏡の女とやり合っている所に、庄助が帰ってきた。お決まりの夫婦喧嘩になって取っ組み合いになってしまった。

 たまたまそこを通りかかった尼寺の比丘尼(びくに)さん。二人の話を聞くと片や親父だと言い、片や女をかくまっているという。女房の話を聞いて、その葛籠の中の女に言って聞かせるからと、蓋を取ると、
「庄さんよ、おみつよ、あんまり二人が派手に喧嘩するもんで、中の女が気まり悪いって坊主になった」。

 

庄助は、父に会いたい気持ちが鏡に投影されてそれを父親だと錯覚する。妻は夫の不審な行動を疑い、映った女をみて浮気相手と勘違いする。尼さんは鏡の女を説教させようとしたら、映った女性が改心したと思い込む。いずれも、鏡を見るにあたり当人の願望や思惑がそのまま反映されているのだ。まさにミラーイメージそのものだ。

古代ローマの英雄カエサルも「人間ならば誰にでも、現実のすべてが見えるわけではない。 多くの人は、見たいと欲する現実しか見ていない。」と語っているがこれも同様の意味であろう。落語ではこうした昔から相も変わらぬ人間心理をおもしろおかしく、しかも端的で明快に体現しているところがすごいと感心する。もちろん、このミラーイメージは現在においても変わらない。様々な論争が百花繚乱の状況にある現在こそなおさらその傾向が著しいのではないか。人間誰しも強弱はあってもそこから逃れることはできない。かくいう自分自身もその例外ではない…。


立川談志「芝浜」

2014-09-17 14:58:35 | 落語

落語の定番中の定番だ。落語のことをよく知らなくてもこの演目の名前を知っている人は多いだろう。したがって、古今の落語家が個性豊かに演じていて傑作も多い。また落語家を志す者はこの「芝浜」を誰でも大入りの演芸場で披露したいと思っているはずだ。

魚の行商売りで仕事はできるのだが、飲んだくれの亭主が女房に急かされ河岸(魚市場)へいく。しかし、朝早すぎたので浜をぶらついていると42両もの大金が入った財布を偶然見つける。喜び勇んで家に戻って早速女房に祝いの酒をせがむがすぐに眠ってしまう。

思わぬ大金に女房は狼狽したが、亭主が寝ている間に大家に相談してある奇策を講じる。その後女房の賢夫人ぶりと亭主の改心の様子が描かれハッピーエンド。落語の落ちが「ん、止めておこう。夢になるといけねえ」とあるように芝浜では「夢」が重要なキーワードになっている。

そんな大定番の芝浜であるが、これも自分の勝手な好みでいえば、立川談志師匠のそれが一番いいと思っている。談志師匠が語る落語がすべていいとは思わない。演目によってはどこか投げやりでおざなりに感じることがある。しかし、この芝浜は迫真の名人芸といってよく何度聞いても引寄せられる。

ややもすると世間ではその傍若無人のイメージからこんな人情味あふれる落語は談志師匠には不向きにように見える。しかし、師匠が演じるとまるで臨場感たっぷりに迫ってくる。ともかくテンポがあって緊張感に包まれて観衆を飽きさせない。

何よりも登場人物の夫婦の感情の起伏を微に入り細に入り演じる技量は見事である。亭主のいかにも江戸っ子の啖呵と無頼ぶり、女房の気丈だが愛情が細やかなところが生き生きと描かれている。最後に夫婦愛を確認する場面も嫌みがなく自然に伝わってくるのも流石である。

芝浜を過去に多くの名人が演じているが、ややもすると緊張を欠き下町庶民の素朴な人情が伝わってこないことがある。しかし、談志師匠は気迫全開で聞く者を魅了させる。談志師匠がただの無頼落語家ではなく、落語に真摯に向かい芸を極めた大家であったことが改めに痛感させられる。

 

柳家喬太郎「紙入れ」

2014-08-16 16:57:41 | 落語

「紙入れ」、この落語を聞いて、つい元モー娘。の矢口真里のことを思い出す。「矢口事件」の場合、妻の浮気現場に夫が突然踏み入れて騒動になって最後は離婚という結末を迎えた。しかし、この落語の場合は「決定的」にはなならなかった。妻の機転で首尾よく?「最悪」を逃れた。

名家に嫁ぎいまだ色香たっぷりの妻が、若い御用聞きを連れ込んで仲睦まじくしていた。しかし、夜中、帰るはずもない旦那が突然戻ってきて外で戸を叩きだした。慌てる間男とは違い、妻は動じることもなく、旦那が入るのを焦らしてその隙に男を首尾よく裏門から逃がす。しかし、男は現場に旦那から貰った紙入れ(財布)を置き忘れたことに気づく。しかもそのなかに妻からの誘いの手紙が入っている。

もしこの紙入れの中身を旦那にみられると思うと男は気が気でない。でももしかして旦那は紙入れの中身を読んでないかもしれない。結局翌朝旦那の家に行ってそれを確認し、ばれていたらその場から一目散に遠くへ逃げようということになった。

朝、男がまなじりを決して旦那の家を訪れる。旦那は男が青ざめている訳を尋ねようとする。男は最初もじもじしていたが、自分の浮気話を告白した。といってもあくまでの他人の家での話という設定にして探りを入れる。男気があって面倒見の良さそうな旦那は男の話を信用して、まるで男に同情でもするような反応ぶりだった。

(旦那)「けえってこないはずの旦那が帰ってきた、気がきかない旦那だな」「(手紙は)見られてない。だったら心配しなくていいだろ」

そんな旦那と男の会話に妻が割ってはいる。

(女房)「そうなんですか、全く、しょうがないわね、若い子っていうのは。」「亭主の留守中に若い男を引っ張りこんでおいしいことをしようというおかみさんなんだろう?そこにぬかりがないんじゃないのかな。…ちゃんと(紙入れを)みつけて旦那に見つからないようにおかみさんの懐に内緒で入ってんじゃないかな、とあたしは思うんだよ、ねえ旦那?」

(旦那)「そうだと思うよそりゃもう、てめえの女房を取られちまう間抜けな亭主だよ。そこに紙入れが残ったって、ははは、そこまできがつかねえだろ」

度胸の座った女房と人がいいが間抜けな旦那、気の弱そうな間男。3人のやり取りには何度聞いても笑ってしまう。女房の手のひらにのって翻弄される二人の男。悪女と思う以前に、むしろ女の度胸のよさと抜け目のなさには痛快さを感じる。落語はドライで皮肉たっぷりのユーモアに溢れているが、陰湿さがまるでないのが楽しい。

自分が知る限りでは、この落語は柳家喬太郎が一番だと思う。こんな一癖も二癖もある大人の人間関係の本音を演ずることにかけては喬太郎はピカイチである。また彼のマクラは好きで楽しみにしているが、今回の「紙入れ」でも本題とマッチしており下ネタがはいるもののとにかく笑える。

おそらく彼は現在の落語界では最も人気のある噺家の一人であろう。また現代落語の第一人者として有名だが、残念ながら現代落語というジャンルがいまだ過渡期であってその評価には定まっていない。むしろ喬太郎には古典落語でも「紙入れ」のように逆に現代社会に十分通用する演目に新たな息吹を吹き込んでほしいと思う。

話は変わるが、矢口真理は今どうしているのだろう。「紙入れ」をじっくり聞き込んでいれば、あんな不幸?にはならなかった。余計なお世話か。そしてあの元夫、今ではやたら背が高いタレントとしか思い出せない。安達祐実の元夫も確かお笑い芸人だが、これまたイマイチ。藤原紀香の元夫も陣内何とかというお笑い芸人だ。名前が出てきた!大澄賢也、小柳ルミ子の元夫だがいまいずこ。元夫たちは共に「浮気騒動」ののち、いつしか消えていった。しぶとく女たちは残る!?

 

お詫び:「紙入れ」の動画は柳家喬太郎師匠のものをリンクするつもりが、当初桂歌丸師匠の動画になっていました。喬太郎師匠のものに直しました。歌丸師匠だと、登場する女房が富士子夫人を連想してしまうのでちょっと。失礼しました(歌丸師匠には別な意味で)


古今亭志ん朝「お直し」

2014-07-07 22:47:43 | 落語

個人的な好みで恐縮だが、江戸落語の噺家で一番好きな落語家は古今亭志ん朝(三代目)である。一方上方なら文句なしに桂枝雀だ。二人はほほ年齢が一緒で共に時代の寵児として人気を独占し続けたが、絶頂の最中、病魔に冒されあるいは敢えて自分を絶って突然高座から消えていった。しかし東の志ん朝、西の枝雀という往時の評判は今も色あせていはいない。

枝雀のことはいずれ触れるとして、この志ん朝の落語は江戸落語の理想といってよいほど竹を割ったように語りも明快で話が分りやすい。小気味がいいテンポで緊張感と臨場感が備わっていて思わず、語りに引込まれる。名人芸といわれた父親の志ん生のような天才的な味わいとは違うが、いわゆる落語に肝心な間の置き方は父親譲りだ。

大袈裟な言い方をすると志ん生が古き良き古典落語の大家とすると、志ん朝は現在的な古典落語の集大成者だと思う。現在活躍する江戸落語の噺家で残念ながら彼を超える人物が出ていない気がする。志ん朝の口から闊達な江戸っ子言葉が澱みなく延々と続く。その見事さは天才のゆえか、努力の賜物か、おそらく両方だろう、

動画で最近、彼が若い頃に演じた古典落語の定番「お直し」を鑑賞した。夫の女遊びとばくち狂いで生活に窮した夫婦が(元遊女と客引きの奉公人の間柄だが)吉原でも裏の裏ともいえる怪しい場所で、夫婦それぞれが再び昔の姿に戻って稼業を始める。

といっても一癖も二癖もある客を無理矢理引き入れて法外な金をふんだくるものだ。現代のぼったくりバーにみられる3000円ポッキリがいつのまにか「延長」の連続で何十倍もの料金を請求されていくようなものだ。当時は一本の線香の火が燃え尽きる時間が単位になっていて、線香が代わる度に「お直し」の延長となる。最初遊女に戻ることを嫌がっていた妻だが、そこは化粧も厚くして、客が居残り続けるように心にもない愛想を言って相手をその気にさせようと必至になる。

「お前さんがくるのを待ってたの」「好きな男?そりゃあいるじゃないか、ここにさ」「好きな人だったらうんとぶたれたいよ、半殺しの目にあいたいんだよ」と女の演技はエスカレートしていく。その間に何度も夫の「直してもらいなよ」という「延長」の呼びかけが発せられる。最後は「明後日またくる」という客の言葉に妻は念を押すように「お前さん一人の体じゃないんだよ、あたしというのがいるんだから」と駄目だしの哀願ともなる。

ところが、夫は客から金をふんだくることもせず、妻の「告白」を真に受けて嫉妬に怒り狂う。「馬鹿らしくてやってられない、おまえあいつのかかあになるのか、あんな奴に半殺しの目にあいたいのか?」「おまえさん、やいているのかい」「やいてないけど、やーな心持ちするんだ…」しかし、妻も負けていない。再びこんなことやりたくはなかったのにやたら厚化粧までして客に媚をうるつらさをぶちまける。それには夫も自分の甲斐性のなさを恥じて大人しくなって結局平謝りになる。そして夫が昔の夫婦仲睦まじい頃を持ち出して、妻の機嫌を戻そうとする。妻も昔を思い出して仲直り。その夫婦の愛情劇を帰らずに聞いていた先の客が一言、「直してもらいなよ」

志ん朝は夫婦と客の心の動きを的確に語っている。妻の懸命な演技に冷やかしからその気になっていく客。一度は嫉妬に狂いながら妻を愛おしく思う夫、夫の勝手さに怒りながらも最後は夫の優しさに気づく妻、三者三様の人間模様が一人の演者によって、まるで今のこの場で目撃でもしたような臨場感が演出されている。

一見他愛もない愛情劇であるが、人間の持つ素朴な喜怒哀楽が遺憾なく表現されている。人間の優しさ、悲しさ、可笑しさが。それが緊張感を伴いながらも時に笑いで誘って聞く者を話に引込んでいく迫力は見事だ。この熱演といえる語りはまさに彼の渾身の名人芸といえる。まさに志ん朝の前に志ん朝なく、志ん朝の後に志ん朝なしだ。

 

柳家小さん「粗忽長屋」

2014-04-27 19:07:21 | 落語

この「粗忽長屋(そこつながや)」、最初聞くと確かに馬鹿馬鹿しい。浅草で行き倒れの死体を見て、これが同じ長屋に住む弟分の相棒だと勘違いする。しかし、その後の行動が不可解だ。長屋に戻り、実際は部屋にいる相棒に「お前は死んだんだよ。これからお前の『死体』を引き取りにいこう」といって誘う。要領を得ない相棒も無理矢理自分が死んだものと思い込み二人浅草に向かう。相棒は自分の「死体」と対面するが、ふと疑問に思う。「俺って一体誰なんだ?」

筋だけ書くと大して面白さは伝わらない。そこはプロの落語家に掛かると、水を得た魚のように生命力がみなぎった楽しい舞台となる。長屋の二人の勝手な思い込みと常規を逸した突飛な行動とそれを不可解に思う行き倒れ発見者の惚ける様がくっきりコントラストを描いている。

噺家では、やはり往年の名人芸がいい。あの永谷園(今ではピンとこない人も多いかもしれないが)柳家小さん師匠の落語が今でも安心して聞ける。噺が自然に進行して屈託がない。少し現代的なテンポとメリハリは欲しいが、老練の渋さがなんとも絶妙だ。

立川談志は主観性が余りに強すぎたが為に自分自身が死亡していたか否かと言う事すらも、正しく判断できなかったのだとしている。(ウィキペディアより)確かに主観性の強さから常識では考えられない不可解な行動に走ることは考えられる。しかし、相棒に自身の死を確認させるまで及ぶとは、度が過ぎる。その極端なところが滑稽であり、この落語のテーマでもある。

ある落語家が小学生にこの演目を聞かせたところ、普通の寄席以上に受けて大爆笑だったという。思うに「粗忽長屋」は現在でもあまり違和感を感じない。おそらくこれを英語で外国で演じても共鳴できるのではないか。落語のテーマが限りなく普遍性があると思う。古典であるとともに現代落語といってよい希有な演目といえる。

ところでこの主観性の強すぎた思い込みと突飛な行動は往々にして周辺の人々を惑わし損害を及ぼすことが多い。「慰安婦が強制連行されて性奴隷として虐待された」「低線量被曝でがんになり、奇形児が生まれる」「オスプレイは欠陥飛行機で危険過ぎる」「秘密保護法で暗黒の恐怖政治が訪れる」などなど。勝手に思い込んで反対デモで街中を叫んで行進する。

これが本当かは具体的事実を探り出したり、科学的な検証を実施したりして解明されていく。時には科学的真実が当時の社会で受容されない場合もあるだろう。長期の検証を経て「世紀の発見」と認められることもある。今話題のSTAP細胞、その評価はいかに?