粗忽な夕べの想い

落語の演目(粗忽長屋)とモーツアルトの歌曲(夕べの想い)を合成しただけで深い意味はありません

「偏向」番組のつぶし方

2016-02-21 16:20:23 | 反原発反日メディア

高市早苗総務大臣の放送法を巡る発言が今なおメディアで糾弾の対象になっている。「放送局が政治的な公平性を欠く放送を繰り返したと判断した場合、放送局に電波停止を命じる可能性がある」ということのようだが、同様の発言は民主党政権時代、政権担当者が言及しいていた。

当時そうした発言はさほど問題にならなかったのに、今回は「権力者による威嚇」だと異常とも思える反応だ。結局、新聞やテレビといった既存メディアは一部を除き、反保守反自民のいわゆるリベラル左翼が未だオピニオンの主流を占めているためだろう。

彼らは戦後レジームの受益者であり、護憲平和主義を理想としている。その点では現在の社民党や民主党左派に近く、国民世論とはかなり遊離している。そして、彼らの特徴で始末が悪いのは「反日」であることだ。その証拠に世界ではここだけという反日国である中国と韓国に対しては必要以上に同調的である。

一方で現在の安倍政権は、戦後レジームからの脱却を目指し、着々と政策を実行して 中韓にも厳しい態度を取っている。そしてこれらメディアは、政権が依然として高い支持率を誇り一層強固になっていくことに危機感を覚えているに違いない。だから、政権の閣僚が放送法の当たり前の一般論を語っただけで「威嚇」と猛反発することになる。

思うに新聞テレビの既存メディアは、高市発言のうち「著しく公共性を欠く放送」が放送業界で横行していることを自覚しているのではないか。俗ないい方をすれば、特に放送の現場担当者はそれについて「心のやましさ」を感じていると思える。

たとえば最近偏向報道を告発したある保守団体の調査で、安保法を巡る報道で法制反対の部分が97%だった報道ステーションなどその典型だ。いってみればこれは「偏向同道の確信犯」だ。メインキャスターの古館氏をはじめ番組スタッフそしてほどんとのコメンテーターがリベラル左翼といってよいからだ。

具体的には反安保法制、反原発、反基地といった立場を鮮明にして安倍政権が進める政策に対してことごとく反対している。反原発でいえば、この番組は事故以来原発は危険で排除すべきものという姿勢で一貫している。そのためには福島の放射能汚染は甚大で復興なども早々ありえないというスタンスである。そして原発再稼働などもってのほかであり、阻止すべきという主張で貫かれている。

報道ステーションのスタンスがいかに公共性を欠くものであるかは、昨年の週刊文春が実施した読者調査「嫌いな番組で同じ傾向のサンデーモーニング(TBS)とともに他を引き離して1位2位を二分していることからも明らかだ。ただ、この傾向は程度の差はあれ、この両者以外の番組にもみられる。比較的公正とも思えるNHKも基本的には例外ではない。保守の新聞の読売や産経と業務的結びつきがある日本テレビやフジテレビもその傾向を払拭できない。

だから、政府が「放送の公共性」を盾に放送局に対して偏向番組を理由に電波の停止を命じることはきわめて困難である。これを試みようとすれば放送業界全体から猛反発を招き、放送業界と密接なつながりのある新聞業界が輪をかけて加勢することは間違いない。それに同調して国会では野党勢力が政府批判を激しく展開する。

しかし、これもよく考えれば70年以上続く民主主義が成熟している証拠であろう。政権が万全で与党が圧倒的な議席を誇っていても、大臣の発言や金銭問題で国会審議が滞る現状を考えれば政権が独裁的権限をもってメディアそして国民を抑圧するなどできない。結果的に表現の自由を制限することなど可能性は皆無に近いといってよい。

偏向番組を持つ放送界をはじめとするメディア関係者はこの現状を知っているから、実際は高市発言には危機感を少しも持っていないと思う。そういうポーズで表向き装いながら、これを材料として、格好の政府批判を展開し政権を揺さぶっているにすぎない。偏向番組は死んでも直らない?

ではどうすれば偏向番組を是正していくかといえば、やはり視聴者が常に厳しい目を失わないことだと答えるしかない。その点で報道ステーションの古館キャスターが今年3月に降板することになったのは意味がある。降板の背景が未だ明らかにはなっていないが、古館氏が「番組への視聴者の厳しい抗議がこたえた」と自白していたようでこれはおそらく彼の本音ではないか。視聴者の生の声が国民世論の実態であることを古館氏は痛感して敵前逃亡した!

蛇足ながら、日本で表現の自由が奪われるとしたら、どうな状況か。ほとんど考えられないが、唯一あり得るとしたら日本が中国の支配下あるいは隷属下に置かれたときではないか。中国国内ではネットを監視する当局役人が100万人もいてたえず政府に批判的な言論に目を光らせているという。さらには、政府に不都合な用語を頻繁に検索する人間さえも監視の対象になるというすさまじさだ。

そんな自由を圧殺する隣国に対して過剰な誠意を示したばかりに、軍事的拡張を許して日本がその軍門に下ったら日本はどうなるかは想像に難くない。表現の自由を脅かす土壌は、愛国を忌み嫌い隣国の立場を過剰に擁護する風潮にこそ潜んでいる。それを許すほど日本の既存メディアが愚かではないし、新興のネットメディアが従来の窮屈な言論空間を切り開いてくれるものと信じているが。

 

1ミリシーベルト除染は科学的根拠なし

2016-02-15 18:32:15 | 反原発反日メディア

「1ミリシーベルト除染」とかけて「非武装中立」と解く。その心は「理想に走りすげてとても現実的ではない」というところではないか。丸川環境相が松本市の講演で発言した除染基準を巡る内容に原発宣伝紙の東京新聞などが噛み付いて大騒ぎになり結局発言を撤回する事態に陥った。

「『反放射能派』というと変だが、どれだけ下げても心配だという人は世の中にいる。そういう人たちが騒いだ中で何の科学的根拠もなく、時の環境相が一ミリシーベルトまで下げると急に言った」(東京新聞2月10日)

丸川環境相のこの発言は確かに乱暴な面があったが、基本的には間違いではない。環境相を非難するジャーナリストはICRP(国際放射線防護委員会)の勧告が「科学的根拠」であると主張しているが、これはあくまでも「勧告」だけであってそれ以上でもない。その勧告とは中川恵一東大准教授がコラムで指摘する通りだ。

平時では、「公衆の被ばく限度は年間1mSv」、「職業人は年間50mSvかつ5年で100mSv以下(今回のような緊急時は別)」とICRPは勧告している。また、「緊急時で被ばくがコントロールできないときには年間20-100mSvの間で、ある程度収まってきたら年間1-20mSvの間で目安を定めて、最終的には平時〔年間1mSv〕に戻すべき」とも勧告している。

つまり、民主党政権で細野環境相はICRPの勧告のうち「最終的には平時(年間)1mSv」という「被ばく限度」を福島での「除染基準」に適用したというわけだ。しかし、この1ミリシーベルトはあくまでも努力目標であって、決して被ばくによる健康被害の安全基準ではない。当然、1mSv以下にしなければ健康が保てないという「科学的根拠」にはなりえない。

中川准教授は同じコラムで「リスク評価」と「リスク管理」という二つの原則を挙げている。そのうちリスク評価とは「100mSv以下では(被ばくの)影響が認められないというサイエンス」のことであるが、リスク管理は「リスク評価ををふまえた上での防護上のポリシー」である、と区別している。したがって、前述のICRPの勧告は「リスク管理」というポリシーを各国政府に勧めているいるだけの話だ。

当然、被ばく限度や除染基準なをどこに置くかといった政策はその政府に委ねられる。だから1mSvという平時の基準を民主党政権が除染の目標としてしまったことは非常に問題がある。福島の事故での被ばく状況を考えたら、すべて県内を1mSVに除染すると何十兆円という膨大な費用がかかるし、これを完遂するためには長期間を要することになる。それを待って避難民の帰還を進めるのは非現実的である。

実際のところ、ICRPの勧告は厳しすぎるという批判は最近強く、基準を緩和すべきという議論が高まっているのも事実だ。実際世界の放射線量は地域によって年間10mSvを超える場所は少なくないし、5mSv前後の地域も北欧中心に珍しくない。あるいは福島の事故後に東京世田谷の民家の異常な放射線量が問題になった。なんと年間30mSvを超える線量をその家族が50年間も被ばくを受けたことが明らかになった。しかし、これらの地域、民家が被ばくによって健康被害を受けたという報告は全くといって聞かない。

したがって、冒頭のなぞかけの通り、1mSv除染は「理想に走りすぎてとても現実的でない」ということになる。そして科学的根拠はない。丸川環境相の発言はこの問題点を指摘して社会に一石を投じたものだと思う。しかし環境相は発言を結果的に撤回して矛を収めようとしたのは本当に残念でならない。環境相は発言の真意を明らかにして問題の本質を国民に問うべきだった。

それにしても丸川発言に対して民主党の議員が「放射能の問題に苦しむ被災地の人たちをやゆする表現で気持ちを著しく害している」と環境相を批判しているが、いまだに「被災地の人々の気持ち」を「錦の御旗」にするのはやりきれない思いがする。

民主党時代の細野環境相は被ばくの影響を誇大に評価する福島被災地自治体の声に押されて1mSvの除染基準を目標に据えたといわれる。必ずしも絶対的基準ではないようだが、もはや1mSvが一人歩きしてこれ以下でないと安全ではないというイメージをつくり出してしまった。そして「科学的根拠」なる虚構も今なお日本社会を束縛している。

 

長渕剛「とんぼ」

2016-02-05 19:27:33 | 音楽

この曲は、自分自身カラオケで歌詞を見ないで歌える数少な愛唱歌のひとつだ。清原逮捕で最近、テレビの報道で「とんぼ」がよく流れるが、改めて聴き直してみてもこの曲が名曲で傑作であることを実感する。

長渕剛の歌は男っぽlくて泥臭い曲が多いが「とんぼ」はその代表作といってよいだろう。曲もよいが歌詞もすばらしい。

♪裏腹な心たちが見えてやりきれない夜を数え

逃れられない闇の中で眠ったふりをする

♪ざらついたにがい砂を噛むと

ねじふせられた正直さが

今ごろになってやけに骨身にしみる

♪ケツの座りの悪い都会で憤りの酒をたらせば

半端な俺の骨身にしみる…

「裏腹な心たち」「にじふせられた正直さ」「ケツの座りの悪い都会」といった比喩が暴力的ともいえるほどに奇抜、個性的であり、屈折して都会に生きる男の情念を歌い上げている。まさに魂の叫びといえるもので、とってつけたわざとらしい知性もない。その点では都会的知性にあふれる小田和正とは対極にある。

ただ男の骨っぽさとはいっても、矢沢永吉とはかなり違う。矢沢がどちらかというと舶来志向の垢抜けたロック歌手であるのに対して、長渕はあくまでも「土着的」泥臭さを醸し出している。それも日本の田舎の原風景を引きずっていて、たとえば「花の都大東京」といった時代がかった表現などはいかにも長渕らしい。いわば長渕は「日本」を歌える数少ない歌手であるといってよい。

それが高じて長渕は自衛隊基地で隊員を激励するライブで「とんぼ」を熱唱している。日頃は冷静沈着な隊員たちをパワー全開の圧倒的リードで熱狂、鼓舞し会場を一体化させていく長渕の力量はすばらしく、とても感動的であった。これをナショナリズムの発露などと言うこと自体もはやおこがましい話だ。

そんな長渕にとってしあわせのシンボルが「とんぼ」であることも頷ける。まさに彼にとってふるさとの象徴であるとんぼが大都会の大空を舞う。自分もとんぼのように都会に飛び回っていきたいがそれもかなわない。ついにはとんぼに「舌を出して」笑われてしまう。東京という空を飛べない男の悲哀、これは限界ある人間の存在そのものだ。

あの清原も今は留置場でそれをひしひしと感じていることだろう。自分がスーパースターではなく欠点ばかりのただに人間であることを。ただ長渕が自衛隊員も鼓舞させたように、清原もかつては野球ファンを熱狂させた。

そこには野球に対する真摯な思いと強い情熱があった。だから清原にはその情熱を呼び戻して親友桑田真澄が期待する「放物線を描く逆転満塁ホームラン」をかっ飛ばしてほしいものだが。あの大都会を舞う「とんぼ」のように。