粗忽な夕べの想い

落語の演目(粗忽長屋)とモーツアルトの歌曲(夕べの想い)を合成しただけで深い意味はありません

自己不太喜?COS.

2013-03-31 12:17:33 | 国際時事

これは、中国語で「自分自身あまりコスプレするのが好きでありません。」となる。昨年から中国語の語学習を始めた。もっぱらNHKのテキストを使いラジオ講座で学習している。NHKの語学のサイトでは各言語とも前週の放送内容がストリーミングでいつでも聞けるようになっている。パソコンで1週間単位で聞き続けることができてとても便利だ。自分が今聞いているのは、レベルアップ中国語という講座だ。

この講座は、一応の中国語の基礎を取得した人が次に聞く中級ランクの内容になっている。これを習得すれば日常の中国語会話が出来るくらいのレベルだ。テキストは中国人記者が北京の旅行会社や北京大学の漫画サークルを尋ね、最近の中国国内世情を取材するというストリー仕立てになっている。

タイトルに挙げた中国文は、北京大学の漫画サークルの取材で、男子北京大生が発した言葉だ。

自己不太喜?COS.(自分自身あまりコスプレするのが好きではありません。)

自己は「自分自身」、不太は「あまり…でない」、?は「好きです」という意味である。そして最後のCOSはなんと「コスプレする」という動詞である。実はこの漫画サークルはクラブ内にいくつか部会があり、その内の一つがコスプレ部だ。取材は男女2人が応じているが、女子大生はコスプレ部に入っているが、男子大生はどうかという質問に答えたものだ。

最近、中国の若者の間には、英語が日常会話やネットの中に入ってくることは珍しくないようだ。そしてこのCOSという英字はむしろ「和製英語」といえるもので、日本の漫画文化に憧れる中国人アニメマファンが好んで使うことによって若者言語として市民権を得ているとのことだ。

中国は、当局が色々とネット規制しているが、それでも外国の様々な情報は完全に防ぎようもなく、微に入り細にいり入ってくる。特に世界の若者文化は中国の若者の日常に抵抗なく定着していく。日本のCOSなどその典型だ。ちなみドラえもんは最近では中国語で哆啦A梦という。単語のなかにAが入っているのがミソだ。以前は机器猫(ロボットネコ)という単語が使われていて今でも通称になっているが、哆啦A梦の方が通りがいいという。

言語はその国の文化の根本をなしている。しかし、外国語の流入は、自国言語に影響を与え文化さえも変容させていく。四千年の歴史を誇る中国語とて例外ではない。特に若者ほどそうした風潮を抵抗なく受け入れて日常化していく。若者文化はいずれ現代中国の文化の一部として定着していくのだろう。

「興奮する」という意味で英語のHIGHは既に若者たちには当たり前のように中国語に混じって使われている。あるいはこれはしっかりした中国語だが、囧 という漢字がある。本来は「光明」の意味だ。しかし文字の絵図の印象から「気がふさぐ」とか「悲しい」(発音はjiong「ジョン」)という意味にネットでは使われているようだ。「中国版絵文字」というべきものが登場しているのが面白い。

*中国語が表記されない場合があるので、問題の語句を画像化しておきました。





中国軍の北朝鮮侵入もありうる

2013-03-30 12:16:20 | 厄介な隣国

北朝鮮の韓国に対する軍事的威嚇行為は高まる一方だ。30日には「北南関係は戦時状況に入った。すべての問題は、戦時に準じて処理される」とする声明を出した。さらに米韓が軍事境界線の近くなどで軍事的挑発行為を仕掛ければ「局地戦」にとどまらず「全面戦争、核戦争」に広がることになると煽っている。

いくら米韓が共同で軍事演習を続けているとしても、北朝鮮の反応は尋常でない。おそらく、ここ最近の核実験強行に対して、中国を含めて国連が実効性を高めた制裁を発動していることに強い嫌悪があるだろう。さらに最近北朝鮮の前線で兵士の脱走が相次ぎ、このままでは体制の崩壊に繋がるという危機感も相当あると思う。その引き締めのためにも国内の緊張を煽っているわけだ。

北朝鮮が今最も望んでいるのは、アメリカの軟化だ。北朝鮮の威嚇にひるんでアメリカが以前示したような妥協的な態度にでることだ。そして米朝が直接テーブルについて和平交渉をする。その際、北朝鮮の体制保証を認めてもらう。あわよくば、経済援助も約束させる。米朝でうまく行けば、日韓もアメリカの意向に従うと考えているのだろう。

しかし、さすがに今のアメリカは過去に下手に出て北朝鮮を暴走させた苦い経験を学習しているので、今度はそう簡単には妥協しないだろう。事実、オバマ政権は北朝鮮に対して強硬な姿勢を崩さない。

今、北朝鮮はアメリカが威嚇に全然乗ってこず、無視を決め込んでいることに相当焦りを感じているはずだ。といって最後の一線を踏め越えれば、自分たちの破滅は目に見えている。そのジレンマで右往左往している状況ではないか。金正恩も国内的には今弱気な姿勢は見せられない。一度でも見せれば、国民から軽んじられる。アメリカさんよ、僕の気持ち分かってよ、といったところだろうか。

しかし、軍部の緊張を極限にまで高めると、この状態で押さえ込むのは大変だ。下手をすると、一部の軍部が暴走して金正恩指導部がそれに引きずられるという最悪のケースもなしとは言えない。そこで中国の動きが注目される。北朝鮮の暴走は東アジア全体の危機となり、当然中国に深刻な影響を与える。北朝鮮とは同盟関係だが、こんな他国の暴走にはつき合えないはずだ。だとしたら、中国は北朝鮮の危険な動きを察知して、逆に北朝鮮に侵攻することも考えられる。あくまでも中国は自分たちの国益を優先させるはずだ。


風評被害をぶっ飛ばせ!

2013-03-29 14:11:05 | 福島への思い

本日毎日新聞で「福島産野菜、値崩れ拡大」(セシウム規制強化 なお風評被害)と一面で報じていた。困った話である。記事によると、昨年4月に食品基準値を大幅に高くしたのに、1年前と比べても市場価格は値崩れが収まらない。西日本では、その傾向がひどく「福島産は受け付けない」スーパーまで多いという。結局それが業務用に流れているのが現状だ。

もちろん、市場に出回っている福島産野菜は基準をパスしたものばかりで、何ら問題にない。風評被害の何ものでもないのだが、消費者の不安心理はなかなか解消されないのが現実だ。やはり、政府が率先して福島産野菜を始め被災地の野菜の安全性を分かりやすく粘り強く国民に直接ピーアールするしかないだろう。

ただ、困ったことに相変わらずこれに異を唱える危険廚の学者や文化人がいることは事実だ。彼らの「危険発言」は少数でも、「危険」という言葉に敏感な消費者にはインパクトが大きい。あの武田邦彦中部大学教授などは「食品基準はセシウム濃度40ベクレル/キロが望ましい」と堂々と明言しているくらいだ。

そこで提案だが、一度食品の被曝の問題でテレビで公開討論会をしてもらってはどうか。「危険派と安全派」の全面対決だ。危険派には武田教授、小出裕章京都大学助教、広瀬隆氏、早川由紀子群馬大学教授、矢ケ崎克馬琉球大学教授、菅谷昭松本市長などマスコミをにぎわした面々だ。一方の安全派は中川恵一東京大学教授、高田純札幌医科大学教授、松本義久東京工業大学助教授、三橋紀夫東京女子医大教授などの専門家が応じる。おそらく前者の矛盾が多く基礎的な知識も覚束ず、また各々言説が統一性を欠いた主張は、後者の実証的な論理の展開に防戦一方になると考えられる。これを数回にわたって行えば、国民の放射線被曝の理解が深まることだろう。

ただこれは、被曝への正確な理解に対する一つの啓蒙活動に過ぎず、大衆的な風評被害の払拭にはもっと大胆で奇抜な発想、仕掛けが必要だと思う。ここで肝心なのは特にどういった対象をターゲットにするかだ。すばり、幼い子供を持つ主婦層であろう。彼女たちが日頃の買物で中心的な役割を果たしているからだ。そこで彼女たちに絶大の人気を誇っている芸能人に風評被害払拭の先導役を果たしてもらうのが最適だろう。

すぐ思い浮かぶのは、あのジャニーズ集団、そのなかでも娘2人がいる木村拓哉一家が適任だろう。CMでキムタク家の食卓を登場させ、何気なく見ると福島の野菜がでてくる。おいしさを思いっきり満面に表す二人の娘、それを見てキムタクも静香もつい微笑がこぼれる。

あるいは、一昨年大ヒットした松嶋菜々子主演のテレビドラマ「家政婦のミタ」の続編などどうか。その食卓に福島産野菜が登場する。知らず知らずに食べている家族に、風評被害の愚かさを「承知」させる。

さらに主婦でも少し「ヤンキー」がかった若い層には、最近結婚し男児を出産した歌手の倖田 來未にロック調のキャンペーン曲を唱わせるのもいい。タイトルはビートルズの名曲にあやかって「ロールオーバー・フウヒョウ」なんてのはどうか。

「ぶっ飛ばせ」といえば中高年には、往年のテレビのバラエティ「裏番組をぶっ飛ばせ」という伝説の番組があった。コント55号がゲストの女性タレントと野球拳をする刺激的な内容だった。今萩本欽一はどうしているのだろう。あの頃のエネルギーで風評被害をぶっ飛ばしてもらいたい。


落語「松山鏡」とカルト

2013-03-28 12:11:24 | 落語

自分の3月26日のブログ「サザエさんとカルト」でつい思い出してしまう落語の定番がある。「松山鏡」という滑稽話で桂文楽師匠(8代目)が得意とした演目だ。あらすじは、落語の舞台を歩く第174話「松山鏡」を引用させていただく。ただし、冒頭のさわりは省略。

越後新田松山村には鏡が無かった。ここに住む正直庄助は特に親孝行で、両親が亡くなって18年間墓参りを欠かさなかった。このことがお上に届き、褒美が出ることになた。金も畑も何もいらないが、どうしてもと言うならお上のご威光で「とっつぁまに夢でも良いから会わせてくんろ」。これは無理というものであったが、今更断れない。庄助は親に似ていることを確認して鏡を渡した。箱の中を覗くと父親が居て、涙を流して話しかけた。
 「他の人に見せるでないぞ」と言うことで、鏡を賜った。

 他人に見つからないようにと、裏の納屋の古葛籠(つづら)にしまい込んで、「行って来ます」、「ただ今戻りやした」と毎日やっていた。
 それを見ていた女房・おみつが、何かあるのではないかと葛籠を開けて、鏡を見てビックリ。そこには女が居た。鏡の女とやり合っている所に、庄助が帰ってきた。お決まりの夫婦喧嘩になって取っ組み合いになってしまった。

 たまたまそこを通りかかった尼寺の比丘尼(びくに)さん。二人の話を聞くと片や親父だと言い、片や女をかくまっているという。女房の話を聞いて、その葛籠の中の女に言って聞かせるからと、蓋を取ると、
「庄さんよ、おみつよ、あんまり二人が派手に喧嘩するもんで、中の女が気まり悪いって坊主になった」

鏡のない国で起こった悲喜こもごも。なぜ越後の松山村なのか、いくら何でも鏡ぐらいあるとは思うが、ここはあまり詮索はよそう。父親思いの息子は、鏡の自分を若い頃の父親と思い込む。焼きもち焼きの女房は、鏡に映った女が夫の浮気相手だと決め込む。尼さんには、鏡を見て浮気女が改心して坊主になったと映り女房をなだめる。

これは、他人や物事を見る時に人は「主観」というフィルターを通して見るということではないか。相手の姿は自分の主観の投影だ。それもその主観の度が強すぎると、そのフィルターは鏡のように反射する。つまり自分の思い込みが過ぎると、相手の姿は妄想した自分自身の姿になってしまう。

先のブログでいえば、木下氏は「サザエさん特番」を見る目も強い主観が働いているのではないか。それも度が過ぎて結局「カルト帝国日本」という像になってしまう。まさに自分の主観の投影だ。いろいろ相手のこと言っているけどそれは自分のことではないか、これこそあの松山鏡の世界?

人間誰しも他人や物事を見るのに自分の主観が入る。かくいう自分も偉そうなことはいえない。その点は大いに自戒自省しなければならない。問題はフィルターを通す時もいかに「客観」という相反する要素を取りこむかだ。それもひとつの事実だけでは客観にならない。様々な事実を的確につなぎ合わせてひとつの客観にやっとなりうる。面倒な作業だが、そんな努力こそ必要だと思う。


一票の格差と過疎化問題

2013-03-27 13:30:59 | 国内政治

ここへきて、「1票の格差」に関して司法の厳しい判決が続いている。昨年の衆議院選挙は「無効」とする究極の高裁の判断だ。メディアや当の政治家自身が「国会の怠慢」と問題にしているが、どうも自分はこういった風潮には違和感を覚える。

以前自分のブログ(平成24年1月24日)でも書いたが、これは「過疎地いじめ」ではないかと思うのだ。普通1票の格差で問題になるのは、大都市の住民の民意が、過疎地のそれと比較して、極めて軽く扱われているという側面だ。これは、人口比という基準で見た見解である。

しかし、それだけで選挙の区割りを考えるべきなのか。人口比だけで考えれば、議席を「是正」すると都市部の議席が増える一方になる。結局都市部議員が大半となり、法案も政策も都市部住民の利益を優遇したものなってしまう。

ちなみ現在一票の格差が大きいのは千葉4区が高知3区に対して2.3倍の場合であるが、これを面積で比較すると逆に高知は千葉の41.6倍小田康和氏のコラムより)となる。つまり「面積の格差」は人口比とは桁違いである。これこそが、都市部と過疎部を明確に峻別しているのだ。

一番広い選挙区は北海道12区(元ラジオ少年日誌より)で高知3区のさらに4倍となる。網走と稚内を含む膨大な地域だが、両都市は距離は330キロ、東京、名古屋360キロにわずかに30キロ短いに過ぎない。東京と名古屋の間に一体どれだけの選挙区があるだろうか。(稚内から網走を通りオホーツク沿岸の端まで進めば400キロを超える。)

1票の格差を訴えた弁護士、裁判官、この判決に賛同するメディアは本当にこんな過疎地における面積のハンデを充分に認識しているのだろうか。地方の過疎という日本の暗部ともいうべき側面を。

明治以来、日本は中央集権化に向けて突き進んできた。特に戦後は高度経済成長で拍車がかかり、大都市への人口集中、地方の過疎化というように二極分化していく。経済成長が終わってもこの流れは変わらず、逆に深刻になってしまった。

過疎化により地域生活の機能は、学校の廃校、医療、金融、商業施設の撤退や縮小へと悪化していく。最近では交通手段の基礎となるガソリンスタンドの廃業までも問題になっている。地方の過疎は郷土文化の衰退、消滅を意味する。当地の芸能や料理、あるいは方言といった地方の根幹になる大切なものが失われていく。そして、それを包容する大自然。こうした郷土文化や自然は日本古来の宝だったはずだ。

いつしか「田舎」という言葉が死語になってしまう気がする。全て大都市の視点で政策をすすめていけば、「田舎」はなくなってしまう。それは、かけがえのない日本人の心の故郷を失うことになるのではないか。