粗忽な夕べの想い

落語の演目(粗忽長屋)とモーツアルトの歌曲(夕べの想い)を合成しただけで深い意味はありません

災害時に、デマで被災者を苦しめる左翼

2016-04-23 22:02:25 | 反原発反日メディア

今度の熊本地震でも、5年前の東日本大震災の時と同じように左翼陣営が「大活躍」している。といっても負の活躍であるが。5年前では震災とともに発生した原発事故で大騒ぎして、福島が放射能で汚染されて住めなくなるといったデマを流し福島県民を苦しめた。

そして、今度の地震でも反原発運動が再現される。熊本の影響が南の活断層に向かい現在稼働中の川内原発に重大な危険を及ぼしかねない。だから、すぐに原発を止めるべきだ、といった主張が共産党を始めとした野党からわき上がっている。当然、朝日新聞などの左翼紙もこれに同調して反原発キャンペーンを繰り広げる。福島デマが収まったと思ったら、懲りずにこの有様で全く困った話だ。

現在の原発は、大地震の揺れで自動的に稼働を停止する。5年前事故のあった福島第一原発も稼働を停止した。しかし、津波の対応がまずくて原子炉が十分冷却できなかったことが放射性物質放出の原因である。同じ時期東北電力の女川原発も地震で稼働が停止してしかも津波の影響もなかったため被曝の被害もなかった。

つまり、地震の揺れは事故とは直接関係なかったといえる。日本の原発は地震で倒壊するようなヤワな代物ではない。しかも、その後の原発の規制基準が一段と高められて余計原震災対策は堅牢になっている。

川内原発とて同様だ。さらに直下に活断層があるわけではない。たとえ、熊本地震であった最大級の揺れでも稼働は停止する。左翼陣営が盛んに川内原発を止めろといわなくても自然と止まってくれる。お生憎様というところだろう。しかし、こんな左翼反原発のデマは無用な不安を被災民に与えるだけで有害でしかない。

同じことは米軍海兵隊のオスプレイによる支援についてもいえる。これも共産党を中心とした野党勢力と朝日、毎日、東京新聞さらには沖縄の2県紙などの左翼マスコミによる反オスプレイキャンペーンが凄まじい。自衛隊のヘリがたくさんあるのになぜオスプレイが必要なのか。オスプレイは事故が多く危ないし、音もうるさい。被災民には迷惑だ。米軍のオスプレイの国内配備を正当化するために震災を最大限に政治利用しているのではないか、などなどだ。

しかし、この緊急時に自衛隊機だけですべて賄うには限界がある。その証拠に被災地の支援には自衛隊のヘリだけではなく消防隊、警察、海保などの多種のヘリが出動している。それぞれの組織には日常の任務を果たすために待機しているヘリがある。そのなかでこの緊急時に最大限のヘリを熊本方面に派遣しているのだ。自衛隊とて同様だ。

だから、米軍のオスプレイ派遣は歓迎されることはあっても批判されるものでは決してない。ましてオスプレイのもつ優位性はこんな災害時には本領発揮の場となる。またオスプレイが事故率が高く危険で騒音が酷いというのも全くのデマである。こんなことを問題になっているのは日本だけである。オスプレイが他のヘリよりも事故率が低く、騒音もずっと少ないというのが世界の常識だ。(この「オスプレイデマ」に関しては「農と島のありんくりん」というブログに緻密で詳細かつ明快な記事がある。)

さらに、問題はオスプレイ支援が被災地でどう受け止められているかということだ。感謝されていることはあっても非難のこと全くといって聞かれない。むしろ、派遣を非難する論調には疑問ばかりか怒りさえ沸き上がっている。、さらに、マスコミの過剰な取材攻勢が被災民の激しい反感を引き起こしている。支援物資を運ぶトラックが氾濫する報道車のためにその運行に支障を受けている。マスコミの報道ヘリの騒音で、自衛隊などによる捜索作業が妨害される。

メディアは原発稼働停止やオスプレイ反対を唱える前に自分たちの言動を慎むべきであろう。もちろん、共産党などの野党勢力も同様だ。自分たちの振る舞いが被災地でどう受け止められているか十分反省しなくてはいけない。こんな緊急時に震災を政治利用しているのは彼らではないか。5年目の悪夢を繰り返してはいけない。


哀しい?古館降板

2016-04-02 17:18:31 | 反原発反日メディア

ニュースキャスターというのは本当に孤独ですからね、

私は今こんな思いでいます、「人の情けに掴まりながら折れた情けの枝で死ぬ」浪花節だよ人生の一節です。死んでまた再生します。

テレビ朝日「報道ステーション」で3月31日、当日をもって降板する古館伊知郎が番組最後の挨拶で締めとして発した退任の言葉だ。言わんとしていることがよくわからないが、(本人は否定しているものの)降板理由にどこか局からの「圧力」乃至「裏切り」が働いていた印象をもつ。

局上層部の「人の情けに掴まって」いたが、その枝はもろかった。局が結局、古館を支えてくれなかったという「恨み節」がつい出てしまった?いや、「ニュースキャスターは孤独」というくらいだから、番組スタッフからも疎外されていたのではないかとさえ思える。だから、この夜、最後の挨拶をする古館がひどく哀れにさえ感じる。

古館は挨拶でこうもいっている。

人間がやっているんです。人間がやるんだから少なからず偏っています。だから情熱をもって番組をつくれば多少番組は偏るんです。しかし、全体的に程よいバランスに仕上げ直せばそこに腐心をしていけばいいのではないかと私は信念をもっています。

こんなのは、偏向報道のいい訳にしか思えない。古館の哀しいところは、情熱をもってすればそこには偏りを超えた真実があると人々が理解し共鳴してくれるはずだ、という思い込みがあることだ。

その点では古館本人には人を意図的にたぶらかそうというところはなく、ある意味純粋かもしれない。しかし、純粋な動機であっても、いや純粋だからこそ、情熱が伴えば偏りが余計に増幅する。それが暴風となって人を煽動する一方で人を傷つけたりもする。

本人は「死んで再生する」つもりかもしれないが、この12年間人々を煽動し日本国内に拡散したデマという「廃棄物」は簡単に消えることはない。たとえば、原発報道。あれだけ福島県民を始めとして日本国民に放射能の恐怖を喧伝した責任は重大だ。死んで再生すれば免罪されるというものではない。