粗忽な夕べの想い

落語の演目(粗忽長屋)とモーツアルトの歌曲(夕べの想い)を合成しただけで深い意味はありません

美味しんぼを擁護する側の論理

2014-05-31 19:11:46 | 反原発反日メディア

しつこいが、また美味しんぼである。結局、この漫画連載に対する評価は、原発事故で被曝に対して健康不安を強調する反原発派と冷静に見ようとする側によって二分されている。この対立の構図は事故以来ほとんど変わっていない。前者が朝日新聞、毎日新聞、東京新聞といった左派系メディアと一部の学者とジャーナリストたちである。一方後者は読売新聞や産経新聞といった保守系メディアと多くの専門の学者たちだ。

読売新聞などが、この漫画が科学的根拠を欠き、風評被害を助長するという極めて明快な主張を展開している。一方、反原発のメディアやジャーナリストの主張はかなり「屈折」している。ただその論理展開は一定の共通性がある。その典型を毎日新聞の5月15日の社説に見ることができる。社説「美味しんぼ 『鼻血』に疑問はあるが」、そのタイトルからして「屈折」している。論説の流れを追ってみたい。

 

1、「一応」漫画の描写に疑問を呈し、風評被害の可能性も認める。

その中身には疑問があり、福島の人たちから怒りの声が上がっていることは理解できる。風評被害も心配だ。

2、「しかし」言論封殺はいけない、福島県民の健康不安は払拭できない。今後議論を深めろ、と少し脈絡に難があるが、社説の論旨とされるものが提示される。

しかし、これに便乗して、原子力発電や放射線被害についての言論まで封じようとする動きが起きかねないことを危惧する。

今後、どのように福島の人々の健康不安を払拭(ふっしょく)し、被災地の復興を進めていけばいいか、議論を冷静に深めたい。

3、その後、この漫画の騒動の内容が具体的に提示される。漫画のあらましとそれに対する関係自治体の抗議だ。

4、この騒動に関して国連科学委員会の報告を引用して漫画の描写が科学的根拠に薄いことを指摘する。だが、直ぐにこうした報告を疑問視する声があることに言及する。

国連科学委員会の調査は、福島でがんや遺伝性疾患の増加は予想されないとしている。福島第1原発を取材で見学しただけで、放射線のために鼻血が出ることは考えがたい。

しかし、長期間にわたる低線量被ばくが健康にどんな影響を及ぼすかについては十分には解明されていない。専門家の中には、心理的ストレスが免疫機能に影響を与えて、鼻血や倦怠(けんたい)感につながる可能性があると指摘する人もいる。

 ここへきて毎日新聞社説の「本音」がでてくる。反原発論者が常套句のように口にする「低線量被ばくによる健康影響は十分解明されていない。」といったフレーズだ。結局これが美味しんぼ描写を擁護する根拠になっている。

だから被曝を不安に思う人がいて当然だ。そのストレスで鼻血や倦怠感を覚える人の心情にも思いを馳せるべきだ、と。

5、そして反原発論者が得意とする「被曝不安者の孤立」を持ち出して「懸念」として駄目出しする。まるで漫画批判が被曝不安者を追い込んでいるような物言いだ。

この問題をきっかけにして、原発の安全性や放射線による健康被害を自由に議論すること自体をためらう風潮が起きることを懸念する。

6、返す刀で一番悪いのは事故を起こした東電と情報公開を怠った政府であるという印象操作が行なわれる。これも反原発論者がいつも常用する論拠だ。そして反原発派がしばしば仕掛ける風評被害もこれによって「免罪」される。

もともと、根拠のない「安全神話」のもと、原発政策が進められた結果が今回の事故につながった。「美味しんぼ」の中でも指摘されているが、事故後の放射性物質放出についての政府の情報公開のあり方は、厳しく批判されるべきだろう。また、汚染水はコントロール下にあるといった政府の姿勢が人々の不信感を招き、不安感につながっているのも確かだ。

いつのまにか美味しんぼの風評被害助長批判は、どこか片隅に追いやられ、東電・政府批判の大合唱だ。いまだに反原発派にとっては風評被害という言葉は「忌み言葉」になっている。これを隠すためにしばしば「風評被害ではない。東電の実害だ」という論法が乱用されている。

7、締めくくりは毎日新聞らしい空虚な美辞麗句で終わる。まるで美味しんぼが建設的な問題提起をしたような書きぶりだ。

そして、低線量被ばくによる健康への影響については、これから長期にわたる追跡調査が必要だ。

 求められている論点は多くある。いずれも、感情的になったり、理性を失ったりしては議論が深まらない。絶えず冷静さを失わず、福島の人々とともに考えていきたい。

結果は体のよい美味しんぼ擁護だ。「長期に渡る追跡調査」などという表現を使っているが、要は被曝の不安は福島で今後も続くということを暗示している。意地悪い言い方をすると「福島を危ないままにしておきたい」ということではないか。そして、福島復興に水を差すことに余念がない。結果的には風評被害の片棒を担いでいることをこの新聞は理解しているのだろうか。

*当初の記事を一部加筆しました。


日朝と周辺国

2014-05-30 14:58:42 | 厄介な隣国

北朝鮮が日本人拉致被害者の再調査で日本と合意したという突然のニュースに接して、最近の日朝を取り巻く東アジアの情勢が急激に変動していることを実感する。中国との深いパイプを持っていた北朝鮮no2が処刑されたことで中朝関係はかつてない険悪な関係になった。中国から今年に入って北朝鮮へは重油の供給がストップして食料援助も大幅削減されたという。北朝鮮の政府幹部の間では今や中国を敵視する気運が強いといわれる。

一方韓国と中国はかつてない親密の関係になっており、今月韓国で行なわれた中韓外相会談ではその蜜月ぶりが際立った。年内には習近平主席の韓国訪問が予定されている。こうした中韓の関係を北朝鮮が快く思っていないことは確かだろう。

そこで北朝鮮は最近中韓が盛んに敵視し始めた日本に接近して、今回の合意がなされたものと考えられる。おそらく、中韓はこの合意にショックをうけているのではないか。こうなると東アジアの隣国関係は複雑にならざるを得ない。もちろん日本とて韓国を軽視して北朝鮮と友好関係を進展させるわけにはいかない。ただ北朝鮮をカードにして中韓関係を牽制することはできるだろう。

そして問題はアメリカだ。北朝鮮の核問題が解決していないのに日朝が親密になっていくことをアメリカは望まない。ただ北朝鮮が日朝関係改善のため軍事的な拡張を控えるとしたら、アメリカにとっても悪いことではない。さらに北朝鮮の最終的な狙いが平和的な米朝関係構築であればなおさらだ。

現在のところ、日米中韓朝5カ国が極めて微妙な関係にあり、ちょっとしてことで各国の関係が大きく変化することは充分あり得る。ただ客観的に見て北朝鮮が現在経済的に相当困窮していることは間違いない、中国を当てにできなくて日本に接近したことは間違いないであろう。そんな弱り目の北朝鮮が中国のくびきから離れることで逆に体制崩壊へと進むことも充分考えられる。今年の東アジアが激動の年になりそうな予感がする。


非力×非力

2014-05-29 17:02:07 | 国内政治

日本維新の会の分裂が決定的になった。地域政党の大阪維新の会と国会野党の立ち上がれ日本が合流してできた政党だ。元々両者は目指すべき国家観には相当開きがあったが、橋下徹と石原慎太郎という看板役者が共同代表でいたことで何とかこれまで維持できたに過ぎない。いずれ分裂するのは目に見えていた。自分からすればよく1年半も持ちこたえたと感心するくらいだ。

袂を分けた両代表とも残念ながら党発足当時の輝きはない。橋下代表も大阪市政を混乱させているばかりでその人望も凋落の一途だ。しかし、彼に変わり得る人材は見当たらない。石原氏の方もかつての都知事時代に見られた政治刷新の旗手としての輝きも褪せてしまっている。こちらも石原氏の意志を引き継ぐ清新な後継者は望み薄だ。

橋下市長側は昨年みんなの党から独立した結いの党と合流する意向のようだ。しかし、この結いの党とて政党支持率が社民党以下であり、全く存在感がない。政策についてもただリベラルという印象しかなく他の政党との違いがよくわからない。

一方石原氏側はみんなの党と連携を模索しているようだが、こちらの党もぱっとしない。分裂騒動で国会議員も半減したばかりか、代表だった渡辺氏のスキャンダルで党のイメージダウンが甚だしい。

ともに非力同士が結びついても非力のままである。下手をすると一段と政党としてのパワーを失っていく感じがする。

そして非力の政党がもう一つある。民主党である。この政党も海江田氏に代表が変わって以来全く浮上する様子がない。存在感は薄れる一方だが、見方によってはこの程度済んだといえないこともない。少なくとも分裂していない。いや分裂するエネルギーさえもないかもしれない。

民主党が今後他党の草刈り場になることが盛んにメディアでは取沙汰されている。おそらくかつての社会党のように脱党者が続出し散り散りにまま消滅する運命になるのではないか。

非力に拍車が掛かる弱小野党。残るは一強の自民党、そして公明党と共産党の組織政党だ。メディアは二言目には健全野党の育成を強調するが、この健全とはそもそも一体どういうことか。従来のいわゆるリベラルというのは考えものだ。その象徴に鳩山由紀夫元首相を連想してしまう。そんな人物が徘徊するようでは日本も終わりだ。近くの無法国家に飲み込まれる危機に見舞われる。


安全と安心、どちらを優先すべきか

2014-05-28 20:05:23 | 過剰不安の先

原発事故以来、絶えず両者の意味の違いが論じられてきた。あるツイッターを見ていたら、NHKでかつて放送された小笠原泰明治大学教授の「白熱教室」(2011年10月)という番組に対するツイートが目に入った。そこに、放送されたワンシーンの画像が添付されていた。それは「安全と安心」の相違を定義づけたものだ。

【安全】

*リスクを対象として全体をまとめようとする。

*客観的にリスクと恩恵を比べて判断を下す。

*リスクをとることを受け入れる

【安心】

*リスクを対象化せず、全体をまとめようとしない。

*主観的にリスクがないと思える状態を求める。

*リスクを回避する。

これは原発事故で発生した放射能汚染でその被曝に対する捉え方と対処の違いを示したものだ。安全と安心、どちらに重心を置くかだ。番組を見ていないので内容はよくわからないが、小笠原教授はどうも安全の観点から被曝対策に取り組むべきと考えているようだ。

つまりリスクが日常存在することを認めてどの程度なら安全かを数値で客観的に判断する。結局リスクを受けいれ正しく恐れることだ。この安全こそ優先されるべきだ。逆に「ゼロリスク」といわれるような、リスクを最初から回避しようとする安心先行では根本的な解決にはならないばかりか弊害が多いとも考えられる。

これで思い出されるのが2012年9月神奈川県の阿部川崎前市長の学校給食を巡っての発言だ。直前、学校給食用に納入された県内産のみかんに放射性セシウムが検出された。しかし、その濃度は食品の安全基準を大きく下回っていた。そこで阿部市長は「セシウム入り給食食材は、危険の中で生活していることを子どもたちに知って貰うために、今後も使い続ける」と発言した。

確かに発言は多少は刺激的であったため、これがネットで大炎上してしまった。あの武田邦彦中部大学教授も当然ながら市長糾弾に大はしゃぎだった。しかしよくよく考えると話していることは正論だった。

すでに自然界では放射性カリウム40が存在し、体内に常時4000ベクレルも含有して日常的に被曝している。しかし、これを危険と騒ぐと人はいない。問題のみかんもセシウム10ベクレル以下であり、極めて微量である。市長が「危険の中で生活している」というのは当然の話であり、ゼロリスクを求めるのは正しくないということを発言したのに過ぎないのだ。

最近の美味しんぼ騒動でもこの安全と安心の問題が背景にあると思う。少しでも鼻血が出る人がいるから福島に住むのは不安だという。除染しても場所によって線量の高いところが残って心配だ。福島にはいられない…。こんな心の安心ばかりが問題にされ、科学的根拠に基づいた本当の安全が軽視されるようでは本末転倒といえよう。

かつて山下俊一福島県立医科大学副学長が講演で「安全と安心とは全く違う。安全は一一緒だが、安心は人によって全然違う。」ということを発言して物議をかもした。しかし、事故から3年も経った今、なおさら安全という客観に裏打ちされた対応が国民に求められていると思う。「不安に寄り添う」ことも時に必要だが、まず第一に安全が優先されるべきだ。


自分で戦をしかけて退散する原作者

2014-05-27 15:11:42 | 煽りの達人

世の中の興味という本当に移ろいやすいものだと痛感する。先週あれほど漫画「美味しんぼ」の描写を巡って一国の首相を巻き込んで国内中が侃々諤々の論争で沸騰していたのが嘘のようだ。

これも一つには原作者雁屋哲氏が一方的に自主退散したことが大きい。漫画の連載第1弾が発売されて以来、鼻血論争で発火してそれが燎原の火の如く燃え上がった。もちろん戦を仕掛けたのは漫-雁屋氏その人だ。実在の前双葉町長を漫画で発言させて鼻血による放射能被害を煽る。これが風評被害を助長させると世間の批判が渦巻き、福島の自治体や環境省などの公的機関から抗議もあいついだ。

しかし、雁屋氏はこれに臆することなく自分のブログ(5月4日)で「鼻血ごときで騒いでいる人たちは、発狂するかも知れない。」と、次号ではもっと過激な描写になることをほのめかして、まさに戦闘モード全開だった。さらにその数日後(5月9日)には「書いた内容についての責任は全て私にあります。」とこの騒動には自分が一手に受けて立つという気迫が溢れているようにみえた。

続く連載第2段は原作者の予告通り、前町長や大学准教授の「福島は住めない」といった過激発言で一段と火に油が注がれた。まさに「鼻血論争」をあざ笑うようにさらなる戦闘意欲に溢れていた。ただ最初のブログでも書いてある通り、「反論は最後の回までお待ちください」として、原作者の本格的な反撃は連載最終第3弾の発売以降に持ち越された。

そしてその最終が先週月曜日に発売される。雁屋氏が予告通り、一連の騒動に決着をつけるべく正面切って自分の連載の意図やその思いを全面的に表明するものと思われていた。しかし、雁屋氏は最高潮に高まった戦線に敢えて背を向けてまるで逃げるかのようなあっけない退散を選んでしまった。「現在のところ、まだ冷静な議論をする状況にないと判断して、取材をお受けするのを先に延ばすことにしました」(5月22日ブログ)、と。タイトルが「色々と」というのも何とも締まりのない気の抜けたフレーズである。

こういうのを「敵前逃亡」あるいは「竜頭蛇尾」「羊頭狗肉」?というのだろうか、当初の戦闘モードはどこへやらだ。あれだけ世間を煽って「色々と」はないだろう。それだけ世間の反発が激しく収拾がつかないことを実感したのではないか。これは自分のような雁屋氏に批判的な人間ばかりでなく、彼に好意を寄せる人々にも失望を与えたことだろう。

雁屋氏が創作作品とはいえ、原発問題に爆弾を打込み日本中を燃え上がらせておいて一目散の逃亡というのでは国民には納得がいかないだろう。現在オーストラリア在住の雁屋氏は7月末まで日本に戻れないとブログに書いている。そのころには「冷静な議論」ができると思っているのだろうか。

本音は、その頃になればこの漫画に対する国民の関心も薄れて、自分への風当たりも弱くなると考えているのかもしれない。しかし、その頃になると騒動の関心がなくなるばかりか、これまで雁屋氏が築き上げた「美味しんぼ」シリーズの金字塔(延べ1億冊にも及ぶという)に対してもその輝きをも曇らせてしまいかねない。