粗忽な夕べの想い

落語の演目(粗忽長屋)とモーツアルトの歌曲(夕べの想い)を合成しただけで深い意味はありません

週刊朝日の劣化

2013-09-30 00:10:40 | 煽り週刊誌

週刊朝日が最新の10月4号では原発事故関連が3本あった。まず東電の汚染水問題で「意外」だと見出しにつけた記事があった。しかし、どこが「意外」なのかさっぱりわからない。「フクイチ汚染水流出 止まらぬ太平洋汚染の“意外”な事実

記者は「今も一定量の放射性物質が外海に流出し続けていることは科学的に疑いがない事実で、研究者の間でも認識は一致しています。」と自信ありげに書いている。しかし、その濃度と健康への影響になると専門家の証言によっていきなりトーンダウンしてしまう。

「事故直後の2011年3~4月に海へ放出された放射性物質は3500兆~5千兆ベクレルと、ケタ違いに多いんです。その後、現在まで毎日漏れている量を全部足しても、最初に出た量の1%にも及びませんよ。」(東京海洋大学神田穣太教授)

健康への影響もこうだ。

「海水1リットルあたり1ベクレルを超えると、基準値の100ベクレルを超える魚が出やすくなる。今、1ベクレルを超えているのは福島第一原発のごく近海だけで、魚から検出される数値は下がり続けています。」(同教授)

なあ~んだ!セシウムの流出は微々たるもので近海の魚に含まれる放射性物質の濃度は極めて低くなってきていて、たいして問題なさそうだ。これが記者のとっての「意外」な感想だったわけだ。自分の9月20日ブログで紹介した朝日新聞の掲載データでも外海は不検出になっている。

ただ不検出と入っても湾近くはさすがに1ベクレル/Lというわけにはいかないだろう。しかし、少し外に出れば希釈されて1ベクレル以下になってしまうことは考えられる。全て近海で捕れた魚が基準以下であるとはいえないが、検査をしっかりすれば問題ないレベルというべきだ。

しかしこの記者は「意外」だけで終わらせたくなくて執拗に食い下がる。「希少な塩分を体にため込む性質のある川魚のほうが、放射性物質も取り込みやすい。」「海底に放射性物質が蓄積するので海底近くに生息する魚は要注意だ。」などだ。

挙げ句は現在問題になっている貯蔵タンクの汚染水漏れが海に流失すると、海の放射性物質の濃度は桁違いになる、という神田教授の懸念材料を紹介して記事を結んでいる。まあ、これは将来起こりうる危険性であり、現況の汚染水の外海流失ではない。「可能性」であって、見出し記事の「意外な事実」とは関係ない。酷く締まりのない記事になってしまった。

さらに、今回の週刊朝日ではもう一つ取材記事があるがネットで閲覧できる。「セシウム検査で判明した子どもの体内被曝の深刻度」これも読んでみて内容的にお粗末な感じがする。茨城県の常総生協が茨城と千葉の子どもたちの尿検査した結果の報告である。

「初めの10人を終えたとき、すでに9人からセシウム134か137を検出していました。予備検査を含めた最高値は1リットル当たり1.683ベクレル。参考までに調べた大人は2.5ベクレルという高い数値でした。いまも検査は継続中ですが、すでに測定を終えた85人中、約7割に相当する58人の尿から1ベクレル以下のセシウムが出ています」(生協担当者)

1リットル1.62ベクレル程度の濃度のどこが「深刻」なのだろう。記事にも書いてある通りだとすると、尿の濃度と同程度の放射性セシウムを摂取しているといえる。ただ毎日1.62ベクレルのセシウムを摂取した場合の年間の内部被曝は0.009ミリシーベルト程度にしかならない。よく言われる年間被曝1ミリシーベルトの許容範囲の111分の1程度という微量でしかない。

記事では「内部被曝にはしきい値がないので」と断定的に書いているが、これは正確でない。50年前に世界で核実験が行われ、大量の放射性物質が放出され多い時日本人でも1日4ベクレル程度のセシウムを摂取したと言われる。自分たちの世代はそのころちょうど10歳前後の子どもだったが、自分の周りでこうした内部被曝で健康に障害が出たという話は聞かない。

この記事で琉球大学の矢ケ崎克馬教授の証言がでているが、もはやこの教授の言説を本気で信じている人はほとんどいない。矢ケ崎教授は、尿中に含まれるセシウム137がガンマ線だけ勘定して1ベクレルだとすれば、ベータ線も考慮すると体内に大人でおよそ240ベクレルのセシウムが存在し、それに加えてストロンチウム90もセシウムの半分程度あるとみている。

セシウム1べクレルが実は240ベクレル?しかもベータ線が危険?こんな説を唱えているのは日本では矢ケ崎教授ぐらいだろう。1ベクレルはあくまでも1ベクレルだと思うが。

自然界に存在するカリウム40という放射性物質は成人男子では常時4000ベクレル程度が体内に留まっているといわれる。結果的に年間0.17ミリシーベルトは内部被曝しているが、このカリウム40はベータ線が放出されているのだ。また外部被曝と内部被曝が引き起こすエネルギー被曝に差がないというのも放射線生物学の常識になっている。

したがって言説に問題の多過ぎる大学教授の証言を敢えて載せるなど非常識で犯罪的でさえ思う。2年前ならこんな煽り記事も見逃せたが、今は「時代遅れ」といってよいのではないか。記事の「恐怖」が白々しく思えてくる。

最後に週刊朝日に連載されている室井佑月のコラムはどうか。これもネットで見られる。(今は便利な時代になった。)作家というより反原発コメンテーターと呼んだ方がよいかもしれない。彼女も反原発派女性有名人に共通することだが、母性で子どもの命を情緒的に語る傾向がある。また放射能被曝に関しては少量でも影響はあるという立場をとっている。今回は原発事故の刑事告訴を検察が不起訴とした問題だが、どうも独りよがりの愚痴のような感じがする。

正直言って最近の週刊朝日の記事は「劣化」の一途を辿っているように思える。月刊WILLの花田紀凱編集長が最近の週刊朝日の表紙に壇蜜が登場しているのを見て「世も末」と新聞の連載記事で嘆いていた。確かにそんな感じがしないでもない。いずれ新宿歌舞伎町の人気風俗嬢が表紙を飾るかもしれない。これでは「アサヒ芸能」?「貴女のおっぱい見せてください」「処女探し」(アサヒ芸能と同系列雑誌の人気企画)が出てたりして。失礼しました。



安部発言に過剰反応する韓国

2013-09-28 12:56:10 | 厄介な隣国

この国は日本へのストーカーなのかと思ってしまう。安倍首相がニューヨークの講演で、軍拡の中国を皮肉ったことに当の中国メディアばかりか韓国のマスコミが食ってかかったのだ。

(首相が)日本の防衛費の伸びが中国の10分の1以下であることを指摘し、「(それでも)私を右翼の軍国主義者と呼びたいのならどうぞ」と発言したことに、中国と韓国のメディアが猛反発している。(産経記事)

発言があったのはハドソン研究所という民間保守系シンクタンクで、いわば首相にとっては贔屓筋の内輪話だから聴衆に対してリップサービスのジョークだったのだろう。場内で爆笑が湧いたようだ。

そんな内輪話にも中国の新聞が「破れかぶれの横暴、恐れ知らずがエスカレート」と批判したのは立場上わからないことはない。しかし、韓国のマスコミまでも「(ついに)本性」(朝鮮日報)とか「突っ走る安倍」(中央日報)「極端発言」(東亜日報)「軍備増強を強弁」(韓国日報)などと真面目に一斉非難した(同記事)のは過剰反応といってよいだろう。

まるで中国の軍拡よりも日本の軍拡の方が脅威であるかのような書き方だ。察するに安倍首相を「右翼の軍国主義者」呼ばわりするのは韓国のマスコミも同じだと首相が皮肉っていることへの反発だろう。ただ首相のジョークが直接は中国批判であっても自分たたちの批判と結びつけて血が昇ってしまう韓国メディアは異常という他はない。

中国のメディアは当局のコントロール下にある。政府の意図が働いているので状況の応じて抑えが効く。ただ韓国のメディアは政府とは独立しているから、ある意味やり放題で制御不能であるのが始末の悪いところだ。

この影響力は韓国国民には絶大である。逆に国民の過激な反日世論を必要以上に意識している面もある。それが安倍首相の内輪の発言にも敏感に反応するストーカー体質になっているといえる。

端的にいって世界の反日国は中国と韓国2国といってよい。ただすぐに血が昇って情緒的に反応するのは韓国の方だ。こんな相手はいくら理性でもって説得しても難しい。損得勘定も冷静に判断できない場合が多い。韓国政府もそんなメディアと世論に引きずられている感じがする。制御するどころか自ら情緒政治を敢えて選択しているのが政府自身ではないか

お詫び:当初別のコラムの記事が追記として間違って挿入されていました。大変失礼しました。


泉田知事の変心

2013-09-27 15:03:25 | 煽りの達人

あれだけ7月皮肉たっぷりに、東電社長に食ってかかった知事の変心ぶりはどうしたことか。26日条件付きで東電柏崎刈羽原発67号機の原子力規制委員会安全申請を泉田新潟県知事は了解した。条件とは「事故時に放射性物質をこし取るフィルター付きベント(排気)設備は『(県との)安全協定に基づく了解が得られない限り使用できない』と申請書に明記することなど」(産経記事)ということだった。

東電側がその条件に応じたことで知事の了承が得られたわけだが、事前に東電が原子炉建屋以外に地下に別のベント設備をつくる意向を県に示していたことが大きいようだ。もちろん東電が新潟県と取り交わした安全協定を遵守することを申請書に明記したこともあるが、「ベントの新たな設置」が決め手といえる。

単純な理由といえば単純である。そんなことで泉田知事の東電不信が解消できるのなら、早くそれを知事の口から言ってくれればよかったのにと思う。察するに泉田知事は駄々をこねていた感じがする。知事は県独自で原発の安全基準や事故での避難対応を策定していたが、東電にもさらには原子力規制委員会にも無視された。「地元の新潟をなんだと思っているのだ。」と怒り心頭、東電や規制委員会に不満を爆発させていた。その態度が反原発側には高く評価され今や反原発の英雄のような扱いを受けていた。

しかし、その間原発の地元柏崎市や刈羽村で原発の安全申請を容認する動きがあった。甘利経済再生担当大臣からも知事に申請容認を促す働きかけもあった。そして想像するに県の経済界からも強い要望があったと思われる。その声を受けて、県議会で過半数を占める自民党県議団からもプレッシャーを受ける。

官僚出身の知事の弱さがここへきて出て来たような気がする。しかし、四面楚歌の状況で東電の唯々諾々ともいえる低姿勢は渡りに舟だった。自分の県知事としての面子も保てて背後の窮地も脱することができる一挙両得の結果になった。

考えてみれば知事はこれまで再稼働絶対反対とは言っていない。まず住民の安全安心が先決ということだけだ。この曖昧模糊とした前提は状況次第では如何様にもなるということを今回の知事の態度でわかった。彼は決して反原発のヒーローではない。放射脳知事なんて「買いかぶり」だったかもしれない。

ただ原子力規制委員会の審査をパスして再び県知事の了承を得る段階で、また猛反発してごねるあの姿に戻るかもしれない、住民の安心安全を声高に叫びながら。しかし知事の首に鈴を付ける人が最後に現れるということか?


追記:28日、今回の東電の申請に関する社説が朝日、毎日、日経、読売4紙で出ている。やはり、朝日と毎日はこの申請には否定的、日経、読売は肯定的だ。

ただ朝日だけは泉田知事の対応については言及していない。残り3紙は泉田知事を批判しているが、内容が違う。日経、読売は原発再稼働に難癖をつける知事の態度を問題にしているのに対して、毎日は逆に再稼働への道を許した「変節」を批判している。

朝日は泉田知事の話題にはどこか避けようとしている節がある。今後の知事の「抵抗力」に望みを託しているのだろうか。


20年後の心配よりも今の肥満、日光不足

2013-09-26 15:21:38 | 煽りの達人

産経新聞の記事によると、栃木の病院を訪れた乳幼児3人に日光不足による病状がみられたという。カルシウムを骨に効率よく送り込むにはビタミンDが不可欠だが、これは日光の紫外線と食品(魚、卵黄、きのこ)などによって生成される。しかし、妊婦や子どもの日光浴不足やバランスの欠いた食事で骨の成長障害がおこるという。

異常がみられた家庭を調べてみると、一昨年の原発事故が大きく関係しているようだ。つまり放射能漏れを恐れ子どもを野外に出さない生活をしていたとのことだ。やはり、ここにも原発事故の影響があると考えられる。

以前にも福島の子どもが避難生活や屋外活動の制限により運動不足で肥満が急激に増えているという報道があった。ただ、現在はそうした規制が緩和されているにも関わらず以前放射能の影響を恐れ敢えて保護者たちが子どもに野外の活動を制限を加えているケースが依然としてよく見られる。

日光不足による障害にしても肥満にしても、このように保護者特に母親が放射能への過剰な不安を抱えたことで子どもの健康を阻害する結果になっているのではないか。よく今は被害はなくても20年後に放射能の影響で子どもがガンにかかるかもしれないと親が心配するが、その不安から逆に現在の健康障害を引き起こすとしたら本末転倒も甚だしいという話になる。

今年に入り、世界保健機関や国連科学委員会が福島での原発事故への影響は極微であり、将来的にさほど問題でないといった報告書が出されたり、国内でも東大教授らの調査で福島県民の内部被曝は不検出レベルの範囲内であることがわかってきている。しかし、そんな実際の科学的な報告が続くにも関わらず、相変わらず国民の認識レベルでは依然健康不安を強調する傾向が根強く残っている。

以前あるテレビで東京のボランティア団体が、南相馬市の子どものために室内児童公園を期限限定で設置したという報道があった。日頃放射能不安で地元の親たちが子どもを野外に出すことをためらっているのを見かねて、団体がつくったということだ。しかし、この報道に接して自分自身非常に違和感を覚えた。その報道では、実際は野外に出ても問題のない放射線量なのに、親たちが過敏になっていることも解説していたからだ。

20年後のありそうもない心配をするより、今の子どもの肥満や日光不足の障害をなぜ気にしないのか、親特に母親たちの認識に疑問を持たざるをえない。ただ、一方的に母親たちを責めるばかりでは済まない。確かに事故を起こした東電は第一義的に責任はあるだろう。しかし、それと同じかそれ以上に、放射能被害を煽った学者、ジャーナリスト、芸人、政治家、そしてメディアが問題だ。

福島には住めないと言っておきながら堂々と福島で講演して小銭を稼いでいる大学教授がいる。同様のデマを流して非難された「元フリージャーナリストと自称する」元某協会会長がいる。子どもたちを福島から逃がせと叫びつつスピード退職、スピード離婚を繰り返し隠し子までつくってしまった某参議院議員がいる。震災がれきを燃やして埋め立てることは殺人行為に近いと放言したことで有名な放射脳知事もいた。こうした反原発派連中の妄言は目に余る。

しかし、特に始末が悪いと思うのは一部メディアの報道姿勢である。原発再稼働を阻止したいばかりに放射能被害を必要以上に煽る。不安に悩む主婦を取材するだけで「言い放し」である。結果的に視聴者や読者にさらなる不安を増幅させるだけの報道になっている。自分たちは善意の理解者のつもりだろうが、その動機に不純なものを感じる。

これら、「放射能恐い」の大合唱がどれだけ福島県民とりわけ母親たちを苦しめたかは想像を絶する。一度でもいいから「福島での健康被害は現在も将来も問題ありません。」と、彼ら、小銭好き大学教授、元フリージャーナリストと自称する人物、隠し子のいる議員、放射脳知事らは、ある動機をもったメディアを通じて明言すべきではないか。



匠のクリーニング職人

2013-09-25 18:54:26 | 一般

最近勤めに出て清掃作業をしたが、仕事を完了した時点でクリーニングして作業着を返すことになった。作業着はポロシャツとズボン各2着と前掛け1枚であったが、外での土まみれの作業が結構あって相当汚れが酷かった。自分の洗濯機で洗っても汚れが取れず、結局すべてをクリーニング店に出すことになった。

最初スーパーの一角にあるクリーニング店(取次店)に持っていったら、店員から特にポロシャツの汚れが酷いと言われた。工場に回しても一槽洗いになる可能性が高いので追加料金1000円をいただきたいとの返事だった。ポロシャツ2着で2000円の追加負担は納得がいかず、とりあえず服を持ち帰えることになったが、どうしたものかと思案に暮れながら街中をぶらぶらしていた。

ふと、近くの川沿いに個人で営業しているクリーニング店があるのを思い出した。川沿いといっても、どぶ川で道も人が往来できるだけの通路でしかない。また通路を挟んで古い民家が建ち並ぶが人通りの寂しい一帯であった。そのクリーニング店もそんな住宅地の奥にあり、近くに寄らなければ店の看板さえもわからないほどだった。

初めてであったが、店に入ってみたら70を優に過ぎた店主と思しきおじいさんが奥から出てきた。あるいは80を超えているかのしれないほど、薄い白髪でごま塩髭をしていた。おそらく町の敬老会があるとしたら、長老の部類にはいるぐらいの風貌であった。

自分の洗濯物を出して服の汚れが酷いことを前もって伝えた。そうすると老店主は特別驚く風もなく、料金を計算して伝票を書き始めた。汚れているから特別料金がかかるなどということは一切いわなかった。それも聞こえてくるのはいかにも老人の嗄れた声だった。ポロシャツは390円で先の取次店と比べて30円ほど高いが、彼の口から追加の「つ」の字も最後まで聞かれなかった。5点で総額1900円、全く通常料金でしかも後払いであったのには自分自身驚いてしまった。と同時に、何かクジでも当たったような幸運な気持ちになった。

しかし、店を出て少し不安になった。あのおじいさん頼んだのはいいが、仕上り指定日になったら実は手間がかかったので追加をくれとか言ってくるのではないか、と今思えば全く不謹慎で無礼極まる疑惑を抱いてしまった。

そして、今日が仕上り日、クリーニングされた服は染み一つない完璧なものであった。きれいにアイロン掛けされビニール袋に収まっていた。おそらくクリーニング業一筋とも見える経歴を考えると、50年以上になるであろう。最初はどこか見習いで仕事はしても、この地で町のクリーニング屋として個人の稼業を延々と続けてきたにちがいない。その蓄積がこの完璧ともいえる磨かれた技なのだろう。敢えていえばこれはクリーニングの匠そのものといってよいのではないか。

日本が戦後、経済発展を続け今日の繁栄を築いたのもこうした市井の個人個人の匠の技の支えがあってのことだと思う。クリーニングの技が企業戦士ともいえる男たちには勝負服の身なりを整えさせ、女性の社会進出にも美的に後押しをする。日本人がある程度余裕が出てきても、物を慈しみ続けることが真のおしゃれであり豊かさであることも思い起こしてくれる。

最近は何事にも機械化が進んできている。クリーニングの世界でもおそらく機械が人間の技を浸食していくかもしれない。しかし、それでもあの老店主のように匠の技は残ると信じたい。

白い服がただ真っ白になればいいというものではない。生身の人間社会には、「程よい白さ」があるように思う。ただ単にキチンとアイロン掛けできればいいというものでもない。人間の肌に優しい「折り目」があるはずだ。そんな微妙な配慮には匠の技が依然として欠かせないのではないかと思う。

それが、1着数百円程度で叶えられる素晴らしさ。今回のクリーニングでは、最近のドラマではないが「倍返し」どころか「何倍返し」ものサービスをいただいた気持ちだ。おじいさんありがとう、今後もお世話になります。