粗忽な夕べの想い

落語の演目(粗忽長屋)とモーツアルトの歌曲(夕べの想い)を合成しただけで深い意味はありません

隠せない報道の真実

2013-10-31 15:51:45 | 厄介な隣国
韓国現大統領の父親である朴正煕氏が政権を支配した頃、反政府的な学生運動が活発であった。政府はそれに対しては厳しい弾圧を加えていたが、この模様は北朝鮮のメディアでも一時報道された。南朝鮮政府は人民にこんな非人道的な圧政を強いている、と。

しかし、そうした報道はすぐに消えてしまった。いうまでもなく韓国には政府に歯向かう自由がある。北朝鮮なら即刻死刑か収容所送りだ。それと、韓国の学生は当時でも皆腕時計を身につけていた。北朝鮮にあってはそんな腕時計は貴重品であり、ほんの一部の特権階級しか身につけていない。南の国が自国よりも経済的に恵まれ自由を享受している。自国の優位性を強調する報道の意図とは反して致命的な逆効果となってしまう。こんな昔のことを思い出したのもちょうど最近の記事に接してのことだ。

BLOGOSの報道によると、日本の大学教授が最近出版した著書が尖閣諸島は日本のものでないといった内容だったため、これが中国では反響を呼び、同国でも出版されることになったという。この教授の専門は中国共産党史であり、毛沢東に関する著書など出版している筋金入りの親中国派のようだ。あの元首相が泣いて喜ぶ学者であろう。

教授は「尖閣諸島が地理的に日本に帰属した歴史はない」という長年の主張を改めて強調しているそれは「日本外交文書」を始めとした、多くの政府関係資料に基づいている、という。したがって、領土問題は対話により平和的に解決していくべきであり、そのためには日中双方による歴史認識の共有化が不可欠であると主張、同島を日中両国で共同管理していくのが最善の“妥協策”であるとの考えも示した。

当然ながら、中国のネット上でもこの教授の主張が好意的に迎えられている。ツイッターで700件以上の「いいね」1000件近いリツイート、300件近いコメントが寄せられたという。しかし、現在の中国のネット事情はそんな単純でないところがおもしろい。中にはこれを皮肉るような本音も登場する。すなわち「日本には言論の自由がある。もし中国で同じことをしたら…」「このような発言を容認できる政府こそ素晴らしい」といった感想である。ちょうど天安門広場であんな衝撃的事件があった直後だけに言論の圧殺の現状を中国国民が痛感しているはずだ。国民の本音が垣間見えるネットの反応だ。

おそらく、こんな書き込みも国内に200万人もいると言われるネット監視員によって直ぐに削除されてしまうだろう。こうした過酷な言論環境と比べたら、日本で特定機密保護法という緩いとしか思えない法案で激しい議論の応酬が行われているのが滑稽にさえ思えてくる。

あれだけ、日本国内で中国を擁護する発言をしていた中国人教授が本国に一時帰国した途端に拘束される。一方でこんな反日的な著書が許容され、敵国で同様の発言をしたルーピー元首相が開き直っていられる。自由なのは結構だが、国益が阻害されて日本を危うくさせる愚だけは避けたいと願うばかりだ。


国として余裕のない韓国

2013-10-29 16:51:47 | 厄介な隣国

最近の韓国人による日本叩きを見て、当初彼らの民度が低いことが原因であると考えていた。しかし、最近は韓国人に民族としての余裕がないことが背景にあるのではないかと思うようになった。

韓国が独立して65年、これまでの政権は日本の統治時代を否定することでその正当性を国民に示し続けてきた。ちょうど中国の王朝が交代する時に新しい王朝を正当化するために、前王朝の横暴や残虐性を強調するように。韓国も反日教育によって日本統治時代の悪行を盛んに喧伝して現政権の正しさを主張する。

ただ、反日教育は戦後政権のあくまでも過渡期の政策として、いずれは廃棄すべきものであった。それに変わるものが、経済成長による国力向上での自信と過去の朝鮮文化への誇りである。それを十分に国民全体が持っていれば隣国との関わりで過剰な意識をもつこともなかっただろう。

しかし、韓国は経済発展はしたが、常に日本を意識しその競争に勝つことばかりを考えてきた。いまだ先進技術では日本の黄後塵を排している。その間国民格差が日本以上に広がり国民全体の連帯感が失われつつある。

残念ながら韓国には反日教育を克服できるだけの誇り高い歴史と文化を国民全体で共有しているように見えない。それをもっていれば、日本の統治時代を冷静に認識しその肯定面も認める余裕ができるはずである。しかし、今日に至ってもそうした動きが見られず、逆に慰安婦問題で旧日本軍を悪玉に仕立てて日本非難を増幅させている。

すなわち今の韓国には経済的な余裕がないばかりか民族としての文化的余裕もない。それが日本に対する歴史認識の歪んだ要求となったり米国などでの日本叩きであったりする。米国在住の韓国人が自分の民族としての自信があれば、隣国の過去の行為をあげつらうこともないはずだ。隣国からの被害者意識を主張することでしか自分の民族意識のアイデンティティを持ち得ないのは情けない話だと思う。

そのとばっちりを受ける日本はたまったものではない。確かに日本の朝鮮統治は全て正当化できるものではない。問題にすべき点はあるだろう。でも多くの日本人はその有無をわきまえていると思う。すなわち、民族問題や隣国関係を考える場合はその是非を冷静に見られるかどうかが肝心なのだ。国民の余裕とはその辺りにあるのではないか。


お笑いの卵と大物ものまね芸人

2013-10-27 19:13:06 | 一般

今日、知人の誘いである大学の落研の芸を間近に見るこ機会があった。落研といっても落語だけでなく漫才もやっているのが最近の大学のサークルのようだ。地元の超高層マンションの最上階にあるレストルームが会場であり、15坪程度のこじんまりとしたスペースだ。20数人が入れば一杯になるごく内輪の会場といってよい。

登場した芸人は落語家2人、漫才3組で各々数分程度の短い芸である。正直言って、あまり面白くなかった。素人芸から一歩踏み出した感じだ。そんなに笑えなかったが、聴衆には笑い上戸のおばさんが2,3人いてそれなりに会場は沸いた。彼らの芸はこうした笑いに救われて場を保つことが出来たといえる。

おそらく50才台のオヤジで60にも届こうとする男たちだけではとても盛り上がらないことだろう。自分自身気難しいということもないが、どうも笑いの世界には少々遠い世代だ。今日出演した若者がいずれ「大化け」するのであろうか。先のことはよくわからない。彼らが出世した時に昔の修業時代の一環として、今日の芸がビデオに登場することを密かに期待する。

20数年前にあるスナックで有名な物まね芸人が自分のショーを演じていた。店内はスナックの女の子とお客総勢10人程度であった。女の子たちは大爆笑だったが、お客の反応は今イチだった。芸人の名は「コロッケ」だ。当時彼自身不祥事を起こして、謹慎の身でこんな夜の場末の酒場でどさ回りをする苦難の時期だった。記憶ではお客はセット料金1万円ぐらい払ったと思う。当時も彼は有名であったが、その芸は昔の芸をただ演じるだけで大して面白くなかった。店のママからコロッケのサインをもらったがそんなにうれしくもなかった。

しかし、その後コロッケは芸能界に復帰して見違えるように変身して芸才は至高を極めた。現在ものまね芸人の頂点に立って他を圧倒している。テレビで一人で見ても彼の芸には思わず爆笑してしまうくらいだ。謹慎時代のどさ回りは何か成長の糧になったのだろうか。あの時貰ったサインがどこか紛失してしまった。本当は大事な宝物になったのに。


ベクレてる

2013-10-26 19:10:25 | プロ市民煽動家

山本太郎参議院議員が国会の弁当に「ベクレてるんやろなぁ、国会議員に出すお弁当は」と発言した動画がネットに流れて批判を浴びている。「ベクレてる」は放射能汚染されているという意味で言っていることは、彼の立ち位置を知る者ならば、容易に想像出来る。

おそらく、彼を取り囲む環境で「ベクレてる」という言葉は日常的に飛び交っていることだろう。国会議員とはいっても、所詮議員バッチがついた衣を着た反原発活動家に過ぎないことはこのエピソードでもわかる。いまさら、彼に「風評被害」云々を批判しても、のれんに腕押しで、たいしたプレッシャーにならないだろう。

ところでこの「ベクレてる」という言葉がどれくらい世間で流布しているかを知りたくてグーグルで検索してみた。結果山本議員関連の記事ばかりが延々と続いている。少しは反原発論壇でこの言葉が「業界言葉(隠語)」として流布しているかと思っていたが、全然そんなことはない。結局山本議員の「商標」に近いといってよいだろう。

あるいは「ベクレる」という言葉はどうか。これで検索しても、出てくるのは「ベクレル」と自然に置き換わっていて普通のベクレル関連の記事ばかりだ。まるで「ベクレる」という言葉は変換ミスの如くに。

ならば山本議員が「ベクレる」や「ベクレてる」という言葉を「商標登録」すればすんなり審査が通って一儲け出来るかもしれない、なんて勝手に想像したりする。

しかし、そこは好事魔多し、「ベクレてる」の裏の意味を言い出す人間はでてくるだろう。「デマに汚染されて放射脳になる」ことの意味で。「ベクレてる」という言葉が出るたびに裏の言葉を思い浮かべてしまうかも。いや、むしろこちらの意味が一般的になるかもしれない。たとえばこんな会話。


その1、都内の学生食堂で二人の男子学生

学生A「あいつの彼女、相当ベクレてるみたいだよ」

学生B「ええ、ほんとに?」

学生A「あいつが言ってたよ。彼女のワンルームに入ったら、ペットボトルの箱が山積みになっていて、

    お米の袋は『熊本産森の熊さん』と書いてあったよ、ちょうど宅配が来て見たら岡山の野菜

    だってさ」

学生B「超やば!結婚したら先が思いやられるね。あいつもいずれベクレるんじゃないの」


その2、沖縄の居酒屋で店の仕事が終わって、二入のバイト女性

バイトC「今日の座敷奥の家族連れ、東京から避難したみたいよ」

バイトD「まさか避難て、あれのこと?」」

バイトC「そう、あの夫婦、ベクレてるのよ。小学生2,3年生の男の子が、いろいろしゃべってた。

     冬休み杉並の友だちとスカイツリーに行きたいとか、千葉のおじいちゃんちの魚が食べ

     たいとか。お母さんが不機嫌そうに『さっさと食べなさい』と急かしていたけどね」

バイトD「子どもは正直だよね。そういえばおととい神奈川の若夫婦が来てたよ。

     これもベクレてたね。メニューの産地、いろいろ聞いていたからね」

バイトC「結構、関東から避難してくる家族が多いみたいね。

     お母さんと子どもだけというのもわりといるけどね」

バイトD「でもあのカップル変なの!焼売をやたら注文するの、横浜が懐かしいのかな」


*当初の記事を一部変更しました。



毎日新聞記事への疑問

2013-10-25 13:55:20 | 反原発反日メディア

毎日新聞郡山支局記者の記事に批判的な反響を呼んでいる。福島県田村市で避難指示区域の解除を巡る国や市といった行政と地域住民との意見の相違についての記事だ。全文掲載しておく。


「メモ帳の片隅:/10 「戻りたい」持ち出されても /福島

国や市よりも住民の方が筋が通っていることがままある。当局が図表などを使って理路整然と施策を説き、住民が感情的に反発する場面はそうはない。田村市での会合で、都路住民の言葉を書き写していた時、私はメモ帳の片隅に「論理」という言葉を添えた。彼に理があると思ったからだ。

 原発事故後に国が発令した「避難指示区域」の解除を巡り、当局が「11月1日が最も望ましい」と提案し、「ご自宅に戻りたい市民がおられる以上、後押ししなくてはならない」と理由を語った。

 これについて、農家の男性が除染の効果が出ていない場所や、高齢のため家を再建できない事情を語り、こう締めくくった。「ただ帰りたい人がいるから解除するというのでは、納得できないんですね」

 確かに、「戻りたい人がいるから」と言うなら、都路に限らず、被災市町村全てがそうだ。例えば全町民が避難している富岡町でも、1割程度は戻りたい人がいる。でも、解除は別の話だ。都路の原発20キロ圏の場合、すぐにでも戻りたい人は1、2割ほど。「戻りたい」という個人の意識や感情で規制の有り無しを決めて良いものか。それが基準になるなら、「20キロ圏」を単純に避難指示区域にした時も「逃げたい」「逃げたくない」という住民の声が物差しになったはずだが、そんな話は聞かない。2年半が過ぎた今、それを理由にされても、と首をひねる方が筋が通っている。

 「戻りたい」とはどういうことなのか。かつての暮らしを取り戻したいというのが大方の住民の気持ちだろう。だが都路は以前の都路ではない。線量が高くないとしても、原発がある浜への道は閉ざされ、雇用、市場(いちば)、教育など生活圏が大幅に縮んだ。住民の多くが「帰りたい」と言わないのは、「戻る」というより「あえて赴く」地になってしまったのも一因だ。【郡山支局長・藤原章生】


田村市は、都路地区の一部だけが避難区域として居住が制限されている。ただ日帰りが自由な避難指示解除準備区域で、この地区は除染も進んでいる。平均空間線量が除染前の毎時0.63マイクロシーベルトから0.34マイクロシーベルトとなり、居住制限解除できるほどの状態になった。

実際、8月からは10月まで普通に宿泊も許可される特別措置がなされている。その期限が切れる直前に行政側が避難地域の全面解除を住民側に提案して会合が開かれた。しかし、住民側から解除を不安視する意見が続出し、解除を来年4月まで先伸ばしにすることになった。その経緯を取材した毎日新聞記者の感想が上記の内容である。

率直に言って、この記者は行政側の姿勢を融通の利かないお役所仕事と決めつけて、住民の意思を軽視しているという見方で書いている印象が強い。そして住民に「論理」があるとまで言い切っている。どうも記者が一方的に住民側に立っているとしか思えない。

線量が問題にないレベルまで下がれば、国や市が復興を進めるために避難地域の解除の措置を講じるのは当然である。避難区域の状態を放置しておく自治体がどここにあるだろうか。十分に自治体にも理があるはずだ。

また記者は「すぐにでも戻りたい人は1、2割ほど。『戻りたい』という個人の意識や感情で規制の有り無しを決めて良いものか。」と行政を批判している。その理由に事故当時の避難の際に「逃げたい」「逃げたくない」の基準だけで決めるには無理があったという理屈と同様に捉えているのには首を傾げる。

実際、線量的に問題がなければ避難する理由はなくなるから、自治体が大丈夫だということであれば帰還するのは個人個人の自由である。本当のことをいうと、住民全体で決めないで解除の前提で個人の判断を優先させても決して間違いではないと思う。しかし、会合で住民の話し合いで解除を先伸ばしにしたということだ。

今は帰還すべきでないという人は、住民の8、9割となるようだが、そこには住民の複雑な心情があるし、理由といっても公言している言葉は建前であって本音は別にあるような気がする。

農家の男性が除染の効果が出ていない場所があることや、高齢のため家を再建できない事情を語っていたようだ。確かにそうした面はあるかもしれないが、想像するに理由はそれだけではないような気がする。仮設住宅などの避難所生活に慣れてしまった現実があるのではないか。家賃が補助され、東電から家族一人当たり毎月10万円の支援金も入る。周辺は買物、病院、娯楽施設なども充実している。同じ避難民同士が集まって一つの共同体が出来つつある。

いわば、今の避難所生活に居心地がよい面があるのではないか。それを不便な農村に戻り荒れた田畑を耕作するのはきついということもあるだろう。さらに実家に戻れば支援金が打ち切られる心配もあるはずだ。解除を決められると避難所生活の理由付けがなくなる。本音はそんなところにあってしかもある意味「負い目」になっているかもしれない。

しかし、外部の人間が一概に、ある面優遇されている避難民の境遇をどうこう言うことはできない。やはり、原発事故の被害者でありその厳しさを理解しなければならない。しかし、その上で帰還を促して復興を進めるという自治体の意思も尊重すべきだ。住民の本音と建前あるいは負い目、行政の意思、そうした複雑な背景のもとで行政と住民の間で協議が行われた。それを記者は深く汲み取るべきであったし、その点で少し視点が偏っていると言わざるを得ない。

福島の事故を地元民の立場から冷静に見つめ直そうとする運動「エートス福島」の代表者である安東量子さんが、毎日新聞の記事に対して何度もツイッターで批判している。

あなたは住民の何をご存知なのか。非常に複雑な状況にある場所で、あなた個人の感傷を記事として載せることになんの意味があるというのか。

*赴任間もなくで、状況理解が浅いのは理解できなくもないが、それならば、それなりの記事をかかれるか、背景を十分に学習してから、記事を書かれることを望みます。

*失礼ながら、関係者、地元の住人たちが、すでに何度も逡巡し、考えつくし、その上での努力をなんら踏まえていないあなたの考えを記事にされても、迷惑なだけです。帰る帰らないは個々の判断、そんな事は現地では誰だってわかっています。

全く安東さんの意見に同感する。住民の複雑な心情は表向きと実際は違う。また個人個人それぞれ異なる。それを行政と住民の関係を新聞記者特有の主観で単純な二元論を展開し、一方の住民しかもその一部だけに与する行為はいやしくも慎むべきだと思う。