粗忽な夕べの想い

落語の演目(粗忽長屋)とモーツアルトの歌曲(夕べの想い)を合成しただけで深い意味はありません

合区という愚策

2015-07-24 20:49:34 | 国内政治

一票の格差というけれど、これまで都会の住民でそれに不満を表明して抗議活動をしたという話を聞いたことがない。実態は「一票格差オタク」の特定の弁護士が自分たちの趣味で裁判所に告訴する「違憲ゴッコ」にしかみえない。裁判所がこうしたオタクの趣味にまともに応える必要があるのかと疑問に思う。

その結果が今回の参議院の選挙改正だ。特に「合区」と呼ばれる隣接する2県を一つの選挙区にする区分けが問題だ。今回は高知と徳島、島根と鳥取がそれぞれ合区になる。おそらく、これらの4県の県民はこの改正をやりきれない不満と憤りで見ていることだろう。

たとえば高知と徳島、この2県は古代奈良時代の令制で土佐と阿波という別々の国だった。明治の廃藩置県でもその区分はそっくり残ったまま今日至っている。両県人にとって県はまさに「おらが国」であり、郷里の最大単位といってよい。県の文化、方言や料理そして出身著名人などそのまま自分たちの誇りであり、アイデンティティでもある。

一方、坂本龍馬は高知の英雄だが、徳島県人にとっては「よそ者」である。こうした県という郷土に対するこだわりを全く無視して人口の合計だけで選挙区を決めてしまうやり方は横暴以外の何ものでもない。議院選挙で隣県の候補者をとても投票する気になれず、といって同県の嫌いな政党候補者を選ぶ気にもなれない。こうなると投票へのモチベーションが大きく減退するだろう。

自分自身、日頃衆議院はともかく参議院は人口比で定員数を決めるべきではないと考えている。アメリカ連邦議会上院のように、各県同数でいいと思う。明治以後、日本は中央集権国家になったが、それまでは封建国家で地方の大名の下、独立した形態をとっていた。そして、土佐を土州、阿波を阿州と呼んでいたのを考えるとまるでアメリカの州のようにも思える。

そもそも、都会は税金が多いことで経済的に地方を支え、文化的にも、あるいは情報発信でも地方をリードしているから、人口比で選挙区の定員を決めて当然というのは都会人の傲慢ではないか。例えば都会人に対し、地方の米や野菜、肉あるいは魚介物を提供していて、これなしでは1日たりとも生活できない。あるいは最近の原発事故で明らかになったとおり、都市部の電力も地方が支えている。

また地方の郷土文化の集合体が都会の文化を形成している側面がある。さらには日本は32の国立公園を始め多くの美しい自然は地方に点在し、国民のかけがえのない財産である。この宝物を保全してきたのは地方あるいは過疎地域の人々だ。

だから、都会人は地方のこれまでの支えを配慮し、地方の声も反映させる政策をとらなければならない。それを単に人口比だけで議員定数を決めるのは、地方切り捨てであり、まさに天に唾する所作であると思う。


翁長県政瓦解の始まり

2015-07-23 20:39:03 | 沖縄の虚像と実像

あれほど政府に高飛車な態度を取り続けた翁長雄志沖縄県知事だが、ここへきてその傲慢さがなりを潜めつつある。どうも今は風向きが変わり、知事には冷たく吹いているようだ。そして産経新聞が20日報じたスクープは翁長県政の正体を白日の下に晒しこれが致命傷になっていく可能性がある。

記事によれば、前知事時代に行われた名護市辺野古の埋立て承認を検証する作業が極めて恣意的で現場職員の主張を無視して行われたという。つまり、知事が設置した有識者委員会の検証が、過去の埋立て承認に瑕疵がある、いや瑕疵がなければならないという意図のもとで強引に行われた。さらに、200ページに及ぶ報告書も公表されずわずかA4用紙2枚だけの要約判しか出していないというお粗末ぶりだ。

結局、有識者の検証とは名ばかりで元々辺野古移設反対派の委員ばかりを翁長知事が選んで進めたのだから結果は火を見るより明らかである。こんなものは検証とはいえず、「瑕疵あり」と結論づけた委員会の報告に対して県職員から「(自分たちが)意図的にミスがあるようかのような言い方は心外だ」と抗議したようだが、それも当然であろう。

翁長知事はこの「検証」結果を受けて、8月中に前知事時代の埋め立て承認を撤回する方針のようだが、こんな内幕を暴露されてしまっては容易に撤回には踏み切れないのではないか。24日になっても産経の報道を否定する反応が知事や有識者委員会から全くないのはこの報道を深刻に受け止めている証拠だろう。

政府はこの夏本格的に辺野古埋立ての工事を開始するようだが、おそらく翁長知事側はその阻止に強力に動く口実を見いだせないだろう。結果的に、知事の支援者の信頼を失うことになる。もともと辺野古埋立て阻止の大義名分がはっきりせず、知事になりたいばかりに共産党などの革新勢力と手を組んだ。「知事が沖縄の民意を代表している」と擁護する沖縄や中央のメディアの後押しでこれまでの体面を維持してきた。しかし、ここへ来て知事自らがその馬脚を現し始めたということだろう。

思えば、沖縄の基地問題と現在国会で審議中の安保法制とは密接に連動している。ここでは両者に共通する「中国の脅威」というものがなぜか脇に追いやられている。基地では米軍による県民被害が強調され、安保法制では日本が戦争に巻き込まれて犠牲者を出すといったマイナス部分が語られている。それを強調することにより中国の脅威という本質が隠蔽されている。結果的に基地の負の部分のみが語られることにより、安保関連法案大合唱の強力な補強になっている。

しかし、ここへのきてこのような綻びが露呈することにより、沖縄基地問題そして安保法制論議は新しい局面を迎える。自分の推測ではこの産経のスクープも翁長県政に不満を抱く県職員の内部告発によるものだと考えている。今後翁長知事への風当たりは強くなり、県民から厳しい批判を受けるだろう。

いま報道が騒がしい辺野古移設反対だが、実際は沖縄県民の民意とは大いに乖離しているように思える。これを権力維持のために利用しようとする知事のやり方には今後さらに県民の反発が高まっていくものと思われる。結局沖縄県民、そして日本国民が今後直面する脅威を自覚することでしか日本の国防を語れない。


在日中国人漫画家の風刺画

2015-07-20 17:37:14 | プロ市民煽動家

先週、安保関連法案が衆議院を通過したが、そもそも日本の集団的自衛権行使容認に反対している国は隣の中国韓国2カ国だけだ。それ以外の周辺諸国はおろか、世界中で支持されている。結局、中韓が世界で例外的な反日国ということになる。一方、日本国内でこの法案に反対しているのは一部メディアと憲法学者などの文化人だけだが、その声がやたら大きく国民に伝えられるのが今の日本の問題点だと思う。

そんな中、日本在住の中国人漫画家、孫向文氏の風刺画が異彩を放っている。彼は30歳と若いが、故国を見つめる目はリアルで鋭い。ぶくぶく太った習近平国家主席とおぼしき人物がミサイルを背中ばかりか手にもって、まさにどや顔で威嚇する姿が紙面を占領している。その脇をかためるのは北朝鮮の金正恩第一書記のようだ。

その下には国内の反対デモに苦慮する安倍首相が描かれている。そしてデモ集団は「憲法をちゃんと読め、戦争反対は絶対ダメ!」「武力で平和をつくれない」「自衛隊も誰もころさせるな(若干解読に難がある)」などといったプラカードを掲げている。

おそらく、習親分が高笑いしている表情にみえるのはこうした日本国内の反対デモが自国を利するものと歓迎しているためではないか。自国の軍事拡張に対抗する安倍首相は目障りの存在でしかない。これに対して日本国内の反政府勢力が安倍政権の力を削ぎ打倒まで動こうとしているのだから、習親分にとってありがたいことだろう。

孫向文氏は、ちょうど法案反対デモをしている国会前の現場でこの風刺画を公然と掲げたようだが、その反応はいかに?彼の「反骨の精神」は理解されただろうか。孫氏はデモ参加者たち特にSEALDSといわれる若者たちのデモが最近の政治騒動の波に飲みこまれ逆に反日勢力に利用されている現状をツイッターで警告している。

 

SEALDsのもうひとつの共産色は「綺麗な言葉」使い、誰も反論できない言葉、ほぼ「絵空事」です。習近平の「中国夢」と同じです。僕は昨日見かけてメンバーたちの雰囲気はだいたい紅衛兵と似てる。

 

1960年代後半、中国で吹き荒れた文化大革命の嵐の中、共産党内部の権力闘争の道具に使われたのが紅衛兵たちだ。「革命無罪」を叫び穏健派幹部を吊るし上げた姿が自分にも今日の安保法制騒動とかぶってみえる。

今の中華帝国は周辺諸国を傍若無人に脅かす厄介者でしかない。そして中国国内では厳しい言論統制をしいて国民の自由を圧殺している。中国共産党は日中両国民の共通の敵である。それなのに、中国政府を喜ばせるデモの動きが日本国内で起こっているのは情けないことだ。もちろん、こんなデモなど一瞬の泡でしかないと思うが、中国人の風刺漫画家にとっては異様で不気味な姿に映るに違いない。

<参考資料>

 

 

自分の風刺画を掲げる孫向文氏

 

 

 


強行採決抗議デモ、「国会前10万人」の実数は?

2015-07-16 18:26:33 | 反原発反日メディア

今日、朝のラジオで、東京新聞の報道では昨日の安保法制関連法案「強行採決」に抗議して主催者発表で10万人の人々が国会前に集まったということを伝えていた。原発事故であれだけ恐怖を煽った東京新聞のことだから、主催者発表の数が警察発表でどれくらい「しぼむ」か早速確認してみた。

案の定というか、「期待以上」の落ち込みだった。なんと警察関係者によると「6~7千人」ということだった。「警察関係者」という表現が少し気になるが、国会前のキャパシティを考えればこんなものだろう。16分の1なんていうのは錯誤という次元ではなく捏造といってよいだろう。政府与党の強行採決がいかに民主主義を無視した暴挙であり、それに対する国民の怒りが大きいのかを訴えたいのだろうが、こんな大嘘の報道は印象操作以外の何ものでもない。

嘘と言えば、最近若者が「自発的」に集まったSEALDsなる組織も共産党の下部組織「民青」が企画主導していることがバレバレになった。あるいは、お母さんたちの抗議デモもその中心は中核派の人物であるという。(ラジオニッポン放送「ザ・ボイス」に出演の経済評論家上念司氏の発言参照/youtubeで最初の約7分)これって、数年前の反原発デモで散々と思い知らされたことだ。反原発の民意といったものが、いかにムード的で実際はその背後にプロ市民と言われる人々の暗躍があった。

だから、この安保法案が成立してメディアの注目が下火になれば、すぐに国民の関心は雲散霧消していくことだろう。今後は、もっとネットによる多種多様な情報提供が充実していくものと思われる。既存の意図的なメディアに振り回されることなく国民が独自の冷静な判断で政治を語る日が来ることが望まれる。


ネオ進歩的文化人

2015-07-13 22:16:32 | プロ市民煽動家

昨日、ラジオのトーク番組をを聞いていたら、ある高名な老詩人がゲスト出演していた。彼は若い頃の戦前の時代に言及して、言論統制の厳しさを語っていた。そして新たな反戦詩も披露した。それを聞いていた進行役のタレントが、思わず「どこか現在の状況と重なる」というふうな感想を漏らした。

この人物、マルチタレントとしてテレビに引っ張りだが、よく情報番組でいかにも理論派風のコメントをする。(自分自身は陳腐に聞こえあまり評価はしないが)

でもこのタレント、実は55歳で全くの戦後派であり、厳しい戦前の言論統制の時代を経験していない。それなのに、どこが「現在の状況と重なる」のか。昔のことを知らないのに今の言論など語って欲しくない、と思う。

こうした「戦前の状況と瓜二つ」とか「いつか来た道」などと安易に語る傾向が最近よく見かける。特に2012年12月末に第二次安倍政権が誕生してから、左翼リベラル派からそんな感想が聞かれる。一昨年の秘密保護法成立時の際は「戦前の暗黒時代が訪れる」などと喧伝されれ、今回の安保法制審議でも「日本は再び戦争の道を歩もうとしている」と、まるで戦前の暗い時代に安倍政権が進もうとしているかのような騒ぎようだ。

こうした「警告」を発する人々の多くが、前述のタレントのように実は戦前とはかすりもしない70歳以下の人間である。あるいは戦前の生まれでも80歳近くならないと本当の「時代の雰囲気」はよく実感していないのではないか。だから、そんな世代の人間が「戦前」云々を言い出したら「眉唾」と考えていいのではないか。

小説やドラマなでで描かれる戦前と比較しても、少なくとも今の日本ははるかに言論や表現の自由、あるいは集会の自由が保証されている。また安倍政権になって、何かそれに不自由する状況が生まれただろうか。むしろ、テレビ新聞には安倍政権を批判する言論が満ち満ちており、政権を擁護する保守派の声がかき消されているのが現状だ。あのレレビを降板させられたと騒いでいた元経産省官僚は相変わらず活発な言論活動に勤しんでいる。むしろ仕事が増えたくらいだ。

反面、安保法制に賛成する声はあまり新聞やテレビの既存メディアでは採用されない。あるいは、原発再稼働を支持する発言をするならば、総スカンを食うだろうし、メディアは最初からそんな人物の主張を採用しない。ある意味、戦後レジームの報道体制が今も厳然としている。

むしろ今は戦後の左翼運動の高揚期さえ彷彿とさせれる。自分は60年安保の時代の記憶は全くないが、70年安保のころなら、多少はある。当時は同時にベトナム戦争が泥沼に陥った時期であり、戦争反対の気運が沸騰していた。この点は今の安保法制を巡る国会内外の騒擾と似たところがある。

昔自分の通った高校も当時の社会情勢に無縁ではなく、学内に全共闘なる政治集団が生まれてその主導で生徒集会がしばしば行われた。マスコミも「反戦平和」を盛んに煽っていたのを思い出す。もちろん、反米を前提にしたものでどうしても左翼色が強かった。

しかし、それも連合赤軍事件が社会に衝撃を与えたことで左翼的な平和主義の幻想が急速にかつもろくも崩れていく。今回の異常と思える安倍政権への攻撃もそんなもろさを秘めている感じがする。

当時、左翼的言論を主導して我が世の春を謳歌していた知識人もいつか「進歩的文化人」と否定的に揶揄される存在に成り下がってしまった。失礼ながら、今月18日に予定される「アベ政治を許さない」という集会の呼びかけ人のメンバーをみるにつけ、そんな類いの人々が多く見受けられる。いわば「ネオ進歩的文化人」というべき人々だ。