自分が仕事場にしているマンションの管理室には朝日新聞と読売新聞2紙が宅配されている(共に朝刊のみ)。、もう数年前から両紙とも「無料」だという。管理人の話だと、たいした交渉もなく先方からあっさり無料にすることを申し出たようだ。マンションだから、1件分配達が増えたところで労力にまず差はない。それでも新聞店にとって1ヶ月4000円近くの購読料が入らないのは痛手だとは思うが。
これは、おそらく最近話題になっている「押し紙」が原因だろう。新聞社が配下の新聞店に配達に必要な部数以上のものを押し付けて不当な代金を強要する悪しき慣習のことだ。実数の3割増は当たり前の状況だという。この強要に耐えかねた朝日新聞の販売店が集団で本社を相手取って訴訟を起こす騒ぎになっている。公式の発表でもすでに朝日新聞は発行部数700万部を割っているというから実売はすでに400万部台に転落しているかもしれない。
「押し紙」によって、余った新聞の多くは配達されずにそのまま古紙回収業者に回されているという。チェーン店のカレーなら他の小売店に払い下げできる?かもしれないが、インクで汚れた新聞ではヤギに餌にもならない。ただ、新聞には折り込みチラシという付加価値がある。いや付加というよりは新聞店の主要収入だといわれる。だから、購読を無料にしても折り込みを依頼する側に対しては折り込みにカウントできるわけだ。おそらく、前述の管理室への無料サービスはそんな新聞店の意図が働いているのだろう。
それはともかく、現在は「押し紙」が裁判沙汰になるほどに新聞そのものの購読が激減していることは事実だ。その結果、新聞店の廃業が相次ぎ地域内での統廃合が進んでいる。自分の地域でもここ2~3年で異なる新聞店が廃業した。その影響か、知り合いのチラシ折り込み業者が営業不振で倒産したということを最近聞いた。
よく言われることだが、スマホの普及で若い人ばかりか中高年にいたるまで新聞購読者が激減している。リベラル左翼の雄である朝日新聞も一時900万部を誇示していたが、今や実売半減という窮状である。
確かにスマホの普及も大きいだろうが、減少の背景はそれだけではないと思う。リアルタイムの情報が得られにくいこともある。さらには、新聞社の論説が旧態依然として読者の意識と乖離していることが大きいと考えられる。
自分たちの言論を押し付けてそれにそった論調の記事を流す。当然、読者には欲求不満が溜まる。朝日新聞のように慰安婦問題の捏造記事を掲載して30年もの間訂正しないのでは読者からも不審に思われる。検証作業も曖昧ではそれが読者の不信へと変わるのも時間の問題だ。
他の新聞も似たり寄ったりの旧態依然のものが多い。特にリベラル色が強い新聞ほどその傾向が強い。そして、新聞に取って代わるといわれて久しいテレビも安閑とはしていられない。視聴率が全体的にこれも激減しているが特に報道部門について顕著だ。かつてセンセイショナル報道で我が世の春を謳歌してきたあの報道ステーションも最近のリサーチでは12%台だ。報ステと偏向報道の雄を競い合っているサンデーモーニングがまだまだ15%台なのが癪に障る?が、局へのクレームが最も多いのがこの番組だという。
その結果、新聞やテレビといった既存メディアの衰退を尻目に、現在その影響力を強めてきているのがネット報道である。最近では1回の放送で視聴が10万回を超える人気番組も続々登場してきている。そしてこうした番組は、視聴者が自分の意志で能動的に閲覧する傾向が強いので報道のインパクトは大きいといえる。
ただ、同じネットでも放送ではない個人的なSNSであるフェイスブック、ブログ、ツイッターなどでは、その信用性に問題があるものは少なくない。だから、ネットといっても玉石混淆で功罪半ばといった側面はある。それをより価値ある影響力を持つ媒体に育てていくためには、ネット利用者のしっかりした見識が必要だといえよう。
ところで、ネットの利用者で「ネトウヨ」という集団が問題にされる。既存メディアがどちらかというリベラル傾向が強いのに対してネットではこれを否定するような保守色が強い論調が目立ち、それが多くの視聴者に支持されている。論説がリベラル側にとっては過激ともみえる場合が多いようでこれに同調するするネッット住民は「ネトウヨ」と総称される。
反面、ネットの住民には「ネトサヨ」という存在があってもよさそうなのに、全くというほど話題になったことはない。自分自身は新聞やテレビといった既存メディアに対するアンチテーゼというネットの性格を考えてしまう。従来メディアの多くがリベラルに傾いてしまっていることへの反発である。
人々の不満を汲んでくれる媒体としての役割をこのネット報道に対して渇望しているのだ。だから、ネット住民をひとくくりに「ネトウヨ」と総称することは誤解を招く。既存メデジアの飽き足らないネット住民の本音が新しい世論として形成されつつあるといえる。
その世論はまだ確たるまとまったものとはなっていない。しかし、新聞やテレビがこれまでの優位に胡座をかいて惰眠をむさぼっている間にその世論は強力な国論ともなっていくだろう。