この曲は、自分自身カラオケで歌詞を見ないで歌える数少な愛唱歌のひとつだ。清原逮捕で最近、テレビの報道で「とんぼ」がよく流れるが、改めて聴き直してみてもこの曲が名曲で傑作であることを実感する。
長渕剛の歌は男っぽlくて泥臭い曲が多いが「とんぼ」はその代表作といってよいだろう。曲もよいが、歌詞もすばらしい。
♪裏腹な心たちが見えてやりきれない夜を数え
逃れられない闇の中で眠ったふりをする
♪ざらついたにがい砂を噛むと
ねじふせられた正直さが
今ごろになってやけに骨身にしみる
♪ケツの座りの悪い都会で憤りの酒をたらせば
半端な俺の骨身にしみる…
「裏腹な心たち」「にじふせられた正直さ」「ケツの座りの悪い都会」といった比喩が暴力的ともいえるほどに奇抜、個性的であり、屈折して都会に生きる男の情念を歌い上げている。まさに魂の叫びといえるもので、とってつけたわざとらしい知性もない。その点では都会的知性にあふれる小田和正とは対極にある。
ただ男の骨っぽさとはいっても、矢沢永吉とはかなり違う。矢沢がどちらかというと舶来志向の垢抜けたロック歌手であるのに対して、長渕はあくまでも「土着的」泥臭さを醸し出している。それも日本の田舎の原風景を引きずっていて、たとえば「花の都大東京」といった時代がかった表現などはいかにも長渕らしい。いわば長渕は「日本」を歌える数少ない歌手であるといってよい。
それが高じて長渕は自衛隊基地で隊員を激励するライブで「とんぼ」を熱唱している。日頃は冷静沈着な隊員たちをパワー全開の圧倒的リードで熱狂、鼓舞し会場を一体化させていく長渕の力量はすばらしく、とても感動的であった。これをナショナリズムの発露などと言うこと自体もはやおこがましい話だ。
そんな長渕にとってしあわせのシンボルが「とんぼ」であることも頷ける。まさに彼にとってふるさとの象徴であるとんぼが大都会の大空を舞う。自分もとんぼのように都会に飛び回っていきたいがそれもかなわない。ついにはとんぼに「舌を出して」笑われてしまう。東京という空を飛べない男の悲哀、これは限界ある人間の存在そのものだ。
あの清原も今は留置場でそれをひしひしと感じていることだろう。自分がスーパースターではなく欠点ばかりのただに人間であることを。ただ長渕が自衛隊員も鼓舞させたように、清原もかつては野球ファンを熱狂させた。
そこには野球に対する真摯な思いと強い情熱があった。だから清原にはその情熱を呼び戻して親友桑田真澄が期待する「放物線を描く逆転満塁ホームラン」をかっ飛ばしてほしいものだが。あの大都会を舞う「とんぼ」のように。