粗忽な夕べの想い

落語の演目(粗忽長屋)とモーツアルトの歌曲(夕べの想い)を合成しただけで深い意味はありません

長渕剛「とんぼ」

2016-02-05 19:27:33 | 音楽

この曲は、自分自身カラオケで歌詞を見ないで歌える数少な愛唱歌のひとつだ。清原逮捕で最近、テレビの報道で「とんぼ」がよく流れるが、改めて聴き直してみてもこの曲が名曲で傑作であることを実感する。

長渕剛の歌は男っぽlくて泥臭い曲が多いが「とんぼ」はその代表作といってよいだろう。曲もよいが歌詞もすばらしい。

♪裏腹な心たちが見えてやりきれない夜を数え

逃れられない闇の中で眠ったふりをする

♪ざらついたにがい砂を噛むと

ねじふせられた正直さが

今ごろになってやけに骨身にしみる

♪ケツの座りの悪い都会で憤りの酒をたらせば

半端な俺の骨身にしみる…

「裏腹な心たち」「にじふせられた正直さ」「ケツの座りの悪い都会」といった比喩が暴力的ともいえるほどに奇抜、個性的であり、屈折して都会に生きる男の情念を歌い上げている。まさに魂の叫びといえるもので、とってつけたわざとらしい知性もない。その点では都会的知性にあふれる小田和正とは対極にある。

ただ男の骨っぽさとはいっても、矢沢永吉とはかなり違う。矢沢がどちらかというと舶来志向の垢抜けたロック歌手であるのに対して、長渕はあくまでも「土着的」泥臭さを醸し出している。それも日本の田舎の原風景を引きずっていて、たとえば「花の都大東京」といった時代がかった表現などはいかにも長渕らしい。いわば長渕は「日本」を歌える数少ない歌手であるといってよい。

それが高じて長渕は自衛隊基地で隊員を激励するライブで「とんぼ」を熱唱している。日頃は冷静沈着な隊員たちをパワー全開の圧倒的リードで熱狂、鼓舞し会場を一体化させていく長渕の力量はすばらしく、とても感動的であった。これをナショナリズムの発露などと言うこと自体もはやおこがましい話だ。

そんな長渕にとってしあわせのシンボルが「とんぼ」であることも頷ける。まさに彼にとってふるさとの象徴であるとんぼが大都会の大空を舞う。自分もとんぼのように都会に飛び回っていきたいがそれもかなわない。ついにはとんぼに「舌を出して」笑われてしまう。東京という空を飛べない男の悲哀、これは限界ある人間の存在そのものだ。

あの清原も今は留置場でそれをひしひしと感じていることだろう。自分がスーパースターではなく欠点ばかりのただに人間であることを。ただ長渕が自衛隊員も鼓舞させたように、清原もかつては野球ファンを熱狂させた。

そこには野球に対する真摯な思いと強い情熱があった。だから清原にはその情熱を呼び戻して親友桑田真澄が期待する「放物線を描く逆転満塁ホームラン」をかっ飛ばしてほしいものだが。あの大都会を舞う「とんぼ」のように。


中島啓江「千の風になって」

2015-06-03 21:45:29 | 音楽

この名曲、数多くの歌手が歌っているが、自分の好みで言えば、新垣勉と中島啓江がベストだと思う。共に歌唱力が抜群だが、それ以上に歌詞に心を込めて歌い上げている。

ただ上手に美しく歌う歌手がよいとは言えない。やはり、最後は人の心を揺さぶることができるかにかかっている。その点、この二人の歌手は文句なく聴く者の魂に強く訴える力をもっている。

このうち、中島の方は昨年11月に57歳の若さで突然この世を去った。彼女のプロフィールを見たら、なんと生前は最大180キロの肥満体であった。これが心臓に過度の負担となり死期を早めたのかもしれない。以前から彼女のオペラ歌手として音楽性にはその巨体から醸し出される天真爛漫な人間性とともに注目していただけにその急逝は残念でならない。

動画で2010年3月銀座博品館のコンサートで「千の風になって」を歌っているのを見つけた。5年前であるが往年の力感溢れる歌唱は衰えて弱々しさが見られるのは残念だ。この曲は、やはり発売されているCDや音楽配信でベストの状態で聴くのはいいが、動画でもその情感を込めて切々と歌う彼女の音楽性は失われていない。もしかしてこれは彼女が死を意識して友人やファンのために捧げた「白鳥の歌」かもしれない。

彼女の一生は必ずしも幸せであったといえない。幼い頃は父親の暴力に苦しめられ母親とともに逃げ惑ったという。彼女が成人になってオペラ歌手としての栄光をつかもうとするときにもこの父親は彼女につきまとい、無心を強要する有様だ。彼女の肥満症は実生活でのストレスの反映かもしれない。

中島啓江の存在を自分が初めて知ったのは、テレビ深夜の「いかすバンド天国」(1989年~90年)というアマチュアバンドのオーでション番組に審査員として出演したときだった。彼女はどんなバンドの演奏にも批判めいたコメントはせず、優しい言葉で激励していたのを今でも思い出す。当時見た目は「ふっくらとしたお姉さん」というイメージしかなかったが、私生活にめげず明るさを忘れないことを若い音楽家たちにメッセージとして訴えていたことだろう。

あの巨体には悲しみと溢れんばかりの涙が詰まっている。しかし、よき友だちとかけがえのないファンに囲まれ、彼らのために歌い続ける喜びもいっぱいだったろう。だから、彼女が歌っている姿がまるで天女のように美しくみえる。そして、今や、まさに天女になって下界を優しく見守ってくれているように思えてくる。

♪千の風に 千の風になって

あの大きな空を 吹きわたっています

秋には光になって 畑にふりそそぐ

冬はダイヤのように きらめく雪になる

朝は鳥になって あなたを目覚めさせる

夜は星になって あなたを見守る



かぐや姫「赤ちょうちん」

2015-05-12 23:14:19 | 音楽

かぐや姫といえば「神田川」という大ヒット曲であまりにも有名だ。「赤ちょうちん」(1974年)はその次につくられた曲で内容も「神田川」の続編のようだ。いわゆる「四畳半フォーク」といわれる貧しい恋人たちの純愛を歌ったものだが、今の若者が聴けば「ダサイ」歌の典型にも思えるだろう。

曲が作られた当時も自分自身、学生時代だったが、多少はそんな印象を持っていた。しかし、その後就職した会社で入社間もない頃、同僚数人で近くの居酒屋で飲みに行ったときのことだ。2歳年上の先輩女性が歌の話に及んだときに「赤ちょうちん」を挙げて「この歌、好きよ」と意外なことを口走った。特に歌の最後の「生きてることはただそれだけで悲しいことだと知りました」という歌詞がすごくいいというのだ。

彼女はとてもきれいな瞳をしていて、実は自分自身入社早々密かに憧れていた。ただ彼女を週末に飲みに誘うとしたが、いつも断られた。彼女は山登りが好きで専門雑誌で知り合った同好会で週末はしばしば山登りにいっていた。程なくして同好会仲間の男性と結婚してしまい自分自身ショックを受けたことを覚えている。

そんな彼女に、「今外国なら何処へ行きたいか」と聞いたことがあった。そしたら、意外な答えが返ってきた。「サハリンがいいな」と。自分自身、想定外の場所に絶句してしまった。あるいは普段の家にいる時のことをたずねると「一晩中泣き通すことがよくある」などと自分をドキッとさせることも語っていた。

赤ちょうちんの歌詞、山登り、サハリン、そして夜通しの涙…。自分とはまるで違う彼女の生活空間に戸惑いながらも自然に引き込まれる。そしてじっと人を見つめる彼女の眼差しはどこまでも清いが、自分には一瞬寂しさが垣間みえるようだった。それは彼女がふとつぶやいた「生きてることの悲しさ」なのだろうか。

昔、ある大学教授が日本人は独特の死生観をもっていると指摘していた。それは「人間は悲しい存在」ということだ。日本人は人間を正義の名の下他人の悪を裁くような極端には走らない。人間は神にも悪魔にもならず、欠点と弱さをもった存在であることを、日本人が本音では自覚している。彼女の思い出とともに赤ちょうちんの歌にもそんな死生観がうかがわれるのだ。

追記:この「赤ちょうちん」を志村けんがパロったコントを動画で見つけた。往年のTV番組「だいじょうぶだ」の1シーンだが思い切り笑った。「キャベツばかりをかじってた」のフレーズだけがしつこく繰り返され、遂には部屋中がキャベツだらけ。最後は「仕事行くよ、俺」こんなわかりやすく面白いコントは志村けんしかできないだろう。こうしたパロディには南こうせつや作詞家の喜多条忠も苦笑どころか喝采しているにちがいない。


三味線が奏でる秋の虫の音

2015-04-29 11:48:24 | 音楽

最近パソコンでラジオを聞くことが多い。いわゆるradikoと呼ばれるネット放送が主だが、これはNHKを除く地域の民放である。NHKの場合は「らじる★らじる」というネットラジオで聞くことができる。自分自身、らじる★らじる」NHKFMでクラシック音楽を聴くことが多い。

ところでこのネットラジオのホームページを見ると「過去の放送」という欄外のコーナーがあり、過去に放送した一部の番組をいつでも聞くことができる。そのなかで「高校講座」というのがあって、NHKが毎週放送している高校性向けの通信教育の授業を自由に受けることができる。

40年以上前の学生気分で、なぜか授業を覗いてみたくなって、まず「音楽1」のジャンルをクリックしてみた。今週放送されている講座を聞いたらとても驚いた。。音楽の授業だから、主に西洋音楽の基礎的なものかと思ったら日本伝統の音楽についての話題だった。第3回「身のまわりの音を取り込む~日本の音」というテーマだ。これが予想外に面白かった。内容として下記のような解説がある。

自然音や生活音など、私たちの身のまわりの音と日本の音楽がどうつながっているのかを、おもに江戸時代に生まれた音楽から探ります。歌舞伎で情景描写に使われる音や、身近な音を三味線や箏の音楽に取り入れて洗練した表現の例を聴き、古い時代の身のまわりの音が、今も日本の音楽の中に生き続けていることを考えます。

放送ではまず雷雨の音、そして隅田川を船が行き交う際の波の音が、歌舞伎でどのように表現されいるかが紹介される。また雪がしんしんと降る情景や幽霊や怨霊が現れる様子など普通は音にならないものも、三味線や太鼓を使った歌舞伎特有の表現で巧みに奏でている。もちろん、写実性とはほど遠いが、だんだん聞いているうちになぜか情景がリアルに想起されてくるから不思議だ。

さらに「秋色種」(あきいろぐさ)という長唄の中の「虫の合方」という曲を聞いてその表現力に圧倒された。長唄とは「唄と三味線からなる歌舞伎には欠かせない音楽」だが、ここでは冒頭と最後に唄がはいるだけでほとんどは三味線のみの演奏だ。秋の松虫が、賑やかに鳴き散らす様子が生き生きと奏でられている。最後に「楽しき」と唄が入るように聴いていてうきうきさせる音楽だ。そのリズミカルかつ躍動的でしかもユーモラスの感じが、三味線だけで表現されているところに成熟し洗練された日本の伝統音楽のレベルの高さを感じる。

この曲は、江戸時代に大名の新築祝いの際に演奏されたようだが、果たして現在の大企業が自社ビルの落成式にこうしたお祝い用の音楽が演奏されるだろうか。そう考えると江戸時代の文化水準は現代人が想像する以上に高かったといえるのではないか。

一昨年日本の和食がユネスコの無形文化遺産として登録された。しかし、日本の伝統文化は和食に留まらず、こうした音楽もそれに匹敵するのではないかと思う。食事や音楽はとも日本の風土と密接に結びついている。そこには四季の移り変わりが日本人の感性を磨いたともいえる。今年は夏の蝉や秋の松虫の鳴き声が特別待ちこがれる。どんな三味線の音色を楽しませてくれるだろうか。


ケテルビー「ペルシャの市場にて」

2015-04-05 17:25:58 | 音楽

クラシックの入門曲としてこの曲「ペルシャの市場にて」はよく演奏される。1920年にイギリスのケテルビーが作曲した代表曲でペルシャの市場の情景を音楽で描写したとても楽しい曲だ。シルクロードに点在するオアシスでの人々の様子が生き生きと描かれている。

出入りするラクダの隊商、物乞いたちの叫び声、一転して部族長の妃を乗せた荷籠の行列、あるいは市場での曲芸の様子など様々の情景が臨場感をもって迫ってくる。特に優美でのどかな妃たちの行進は、その美しく華麗な様が想像されて思わず聞き入ってしまう。反面、隊商の行進や曲芸人の披露は賑やかさや躍動感を感じさせ、妃の静かな行進とくっきりとした対象を印象づける。

そういえば、35年前に大ヒットした久保田早紀の「異邦人」のイントロはこの曲の冒頭のメロディーを連想させる。「異邦人」は家電メーカーのCMで流れていたが、CMで映し出されるシーンはちょうど中東の市場で、おそらくこのクラシック曲がモチーフになっているのではないかと思う。

それはともかくこの曲は、古代より延々と続くシルクロードの市場における日常が描かれていて、これこそ中東世界の原風景ではないかと察せられる。そこには、様々な民族や宗教、文化が交錯する世界がある。同時に通商という共通の目的で共存できる寛容さも感じられる。

そんなのどかなオアシスと思われる地域が今、混乱を深めているのはとても悲しいことだ。当地の主流であるイスラム教は異教には極めて寛大であった。あるいはスンニー派とシーア派の深刻な対立もなかった。砂漠から生まれた宗教とはいっても土俗化して素朴で日常的な規範となっていた。

アルカイダやイスラム国などの過激原理主義は本来のイスラム教とは異質なカルト宗教だと思う。はやくこうしたカルトが排除され従来の平穏な中東世界に戻ってほしいと願わずにはいられない。それこそ、こんなオアシスの市場のようにおだやかだが活気と人間味にあふれた世界を。