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…漁師アトムの航跡… ~ある沖乗り漁師の綴記~

回顧記 24話 「旅の港、旅の衆」!

2006年04月22日 | 船上回顧記

「独航船」とは鮭鱒漁での呼称であって

その他の漁種ではそういう呼称は使いません。

北海道、根室船籍の船での秋刀魚漁は、当時

花咲港への水揚げが主で、10月の初旬になって

やっと内地への水揚げが始まるのが普通でした。

(今では船の新鋭化が進み、速力に優る船は解禁から

内地に運ぶ北海道船籍の船も多くなっています)

10月も中旬を過ぎると時化休みも多くなり

内地でも宮城県の気仙沼港や女川港での

休みには、宮城県から乗船している我々は

休みになれば自宅へ帰る事もできましたが

同じ内地でも秋田や北海道の函館から乗船している方々は

秋刀魚を水揚げできる港が無く、

漁期が終了するまでは帰宅する事はできませんでした。

北海道、根室から乗船していた方々は、花咲港への

水揚げが続いていた9月中には帰れていましたが

内地に水揚げが集中し始めると、心なしか元気が

なくなっているように、当時の自分には感じました。

この年は12月中旬まで漁をして、根室に帰ったのは

20日頃で雪が積もっていた事を憶えています。

漁期終了となり帰宅したのがクリスマスの夜でした。

その後以前乗船した「61長功丸」で鮪漁に

出港する事が決まっていたので、

正月前に鮪漁へ出漁しました!


回顧記 23話 「青函連絡船」!

2006年04月20日 | 船上回顧記

「函館衆」とずいぶん親しくなった事もあったが

母船式鮭鱒漁で函館港に滞在した事で

なじみの友達もいたので、帰宅する前に函館で

少しの期間「青春時代」を謳歌しました!

しかし時間の経過は瞬く間で、当時、北海道と本州を

結ぶ交通手段に「青函連絡船」があって

4日後の朝には「青函連絡船のデッキにいました。」

津軽海峡冬景色が流れるデッキで、故郷に帰るという

気持ちとはうらはらに、名残りがある「青春の一コマ」で

3ヶ月前には不安だらけだった事がうそのように

落ち着いている自分がそこにいました!

故郷から空路、共に北海道に渡った先輩方は

一足先に帰宅していましたが、若干遅れで帰宅。

その年乗った青函連絡船はその年を最後に

役目を終え、今では「青函トンネル」が開通し

津軽海峡を船で渡る事はなくなりました。

と 共に「青春の一コマ」は「津軽海峡冬景色」の詩と

そして「青函連絡船」が、遠い昔に見た映画のように

記憶の断片をつなぐ事があります!


回顧記 22話 「旅の衆Ⅱ」!

2006年04月20日 | 船上回顧記

20日間の出漁停止期間を経て、「イカ流し漁」へ出港!

この船は、今年から「イカ流し漁」の権利を取得し

初めて「イカ流し漁」をする。当然漁労長をはじめ

以前から乗船していた方々は経験が無かった。

そのため鮭鱒漁前に「イカ流し漁」経験者を集めたらしく

我々、旅の衆は本来ここが正念場でした。

鮭鱒漁だけなら「独航船」の本場「北海道の方々」で

十分事足りるはずですから!

この年は、ムラサキイカ(イカ流し漁の対象)が大漁だった年で

少ない操業回数で満船にできました。

(鮭鱒漁を終えて秋刀魚漁までの期間に2航海した船もあった)

イカ流し漁を終えて帰航すると、すぐに秋刀魚漁への

転換準備作業を進め、8月の初めには故郷へ帰る事になった。

しかし自分は「函館衆」と共に函館まで車で移動し

函館で3日程プライベート時間を過ごした。


秋刀魚漁、今年の解禁日!

2006年04月15日 | 水産関連

全さんま(全国秋刀魚棒受け網漁業協同組合)

所属船の今年の出漁日が決定したようです!

(農林大臣許可秋刀魚棒受け網船)

10トン以上20トン未満船が昨年より8日遅れの8月15日

20トン以上40トン未満船が昨年より9日遅れの8月18日

40トン以上船が昨年より5日遅れの8月23日 と

決定したという事です!