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…漁師アトムの航跡… ~ある沖乗り漁師の綴記~

回顧記 21話 「帰航命令」!

2006年04月13日 | 船上回顧記

アメリカ、コーストガードの航空機に

写真を撮られた次の日「帰航命令」が届いた!

アメリカ、ロシア(当時ソ連)双方が定める

ライン(海上の国境)の領海侵犯との事で!

たしかにラインぎりぎりでの操業でしたが

船上のGPSではラインを超えていない!

しかし、日本の外務省、水産庁、を通じて船主に連絡が入り

「帰航命令」が船に届いたかぎり、帰らなければならず

同じく帰航命令が届いた僚船数隻と帰航する事になった。

それにしてもアメリカ、ロシアが領海を主張する

海上のラインはいまだに疑問です。

どう考えても日本の領海と主張できそうな海区も

他国の海となっている(太平洋戦争敗戦のツケで)

当時の鮭鱒漁船は、たしかに海区違反は相当あった。

ソ連の軍艦から威嚇砲撃を受けたり、拿捕されたり と

そういう事が多かったが、必ずしも日本の漁船が

全面的に違反していた訳ではなく、当時のソ連監視船の

GPSの精度不明良による位置の誤差や、言葉が通じず

ピストルを普通に所持している軍艦の兵士達のいいがかりで

強制的に拿捕、連行されていた事も事実です。

あの頃から比べると、ロシアの監視船のGPSも優秀になり

日本語を訳す方もいて、今では格段に進歩しています。

「帰航命令」が届いた数隻が根室の花咲港に接岸すると

水産庁からの取調べがあったが、どういう内容だったかは

我々は知る事がなかった、しかし20日間の出漁禁止という

ペナルティが課され、「鮭鱒漁」を切り揚げて、次の「イカ流し漁」に

出漁するまで待機する事になった。

鮭鱒漁を無事に終えた船が「イカ流し漁」に次々と

出港して行く中、我々はじっと待機しているしかなかった。

出漁禁止の数隻の船には故郷が同じ先輩達も数人いて

互いに励まし合いながら根室での日々を過ごした。

初めての「独航船での鮭鱒漁」はほろ苦い経験でしたが

操業に関しては通用すると、自負したし

その後の船員生活への大きな自信につながった!

この船で共に働いた「函館衆の○○」とは

函館⇔宮城を行き来する大切な友達となり

今でも交流が続いています。