脳腫瘍の夫と共に

2010年4月グリオーマと診断された夫との手探りの日々…

失敗ばかり・・・

2012-12-27 23:46:04 | 日記 3
失敗続きの毎日。
以前のようにはできないのだから
「しかたがない」と思うべきなのだろうか・・

仕事場でもミスをした。
昨夜は年賀状を逆さまに印刷した。
今朝は水道を凍結させてしまった。

これだけ続くと、やはりへこむ。
どのミスも
気をつけていたことだから
なおさらへこむ。

どうして、こんなこともできなくなってしまったのだろう・・・


追記

年賀状は宛名を書くまで気づかなかった。
水道は明け方一度水を流しておいたのに、凍結した。
流し方が不充分だったのだろう。
自分で気づけないことが不安だ。
以前なら、何も考えなくてもできていたことができなくなってしまった。
あの頃の夫の不安を思う。
「オレはアホになったんやな・・」とつぶやいていた。
だんだんとできなくなっていく自分を自覚できた頃。
どんなに不安だったことか・・・
私の不安など、とるに足りないものだ。

新たなメニューの開発

2012-12-26 05:26:47 | 日記 3
勤務先では、
ハンディのあるお子さんの一時預りをしている。
(日中一時支援)という制度。
今は冬休み中なので、一日中。
毎日、スタッフも含め10人前後の昼食を作っている。

わが家は来客が多く、
20人以上になることもよくあったのだが、
何を作っていたのか、
まったく思い出せない。
仕方ないので、
毎日、新たなメニューの開発中。

でも、子どもたちやスタッフの方たちが
残さず食べて下さるので、
それを励みに
なんとかがんばっている。

夜、自宅で下ごしらえしておく。
久しぶりに
「ちゃんと働いている」気分。
メニューは思い出せないけど、
夫が元気だったころは、
夫の帰りを待ちながら
こうして翌日のお弁当の準備をしていたことを思い出した。
忙しかったけれど、
よく働いていたなあ・・・
よく動いていたなあ・・・
座るのは食事の時くらいで、
一日中忙しかったなあ・・・
今のように
ぼーっと過ごしてしまう生活を
なんとかしたいと思うのだが・・・



どうしたものか・・・

2012-12-24 22:24:07 | 私の思い 3
自分が自分である所以、
よってたつ基盤、
そうしたものすべてをなくしたら
人はどうやって生きて行く事ができるのだろう・・・?

名古屋のドクターは
自分の病状がどんなに絶望的であっても
人はやがてそれを受け入れていく」と言われた。
だが、夫はそのときすでに
そうした「思考」の手段としての言語を失っていた。
ドクターは
「ことばは理解できなくても、人の表情は理解できるから」といわれ、
夫の前では勤めてあかるく
分りやすい言葉で、夫が理解出来るように話をしてくださった。
ノバリスの前、「完全失語の一歩手前」といわれた時期だった。
このころは、とても不安そうな表情をしていた。

その後、ノバリスの効果か、
思考力が戻った時期があった。
思考力は戻ったが、表出言語が混乱していたため
夫が伝えたいことが私には理解できなくて
双方がとてもつらい思いをした。
このころはとても暗い目をしている。

でも、夫は、ドクターが言われたように
平安な心を取り戻していった。
それは、どんな心境の変化だったのだろう・・・?


私は、夫に支えられて生きてきた。
夫がいたから、
外では「しっかり者」を演じることができていた。
保護者会の活動も
NPOの活動も
夫が支えていてくれたからできたことだった。
夫が病気になって、すべての仕事を引き継いでもらった。
今は、戻る場所がない。
どこにも、私の居場所はない。

今は、生活のための仕事をしている。
障がい者支援のNPOで、
以前の、NPOの事務という経験をかわれての職場だが
自分たちでたちあげたNPOではないから
自分の理想とはかけ離れている。
それでも、生活のためには
黙って従うしかない。
自分の理想など言える立場ではない。
そんなことは、わかっている。

では、私は
なんのために生きているのか。

もう、私は
以前の私ではない。

私は、これから先
どのように生きて行くことができるのか
答えは見つからない。


年賀状に
「おめでとうございます」と書く気持ちになれなくて
どうしたものか・・・





救急車の音

2012-12-22 22:03:30 | 私の思い 3
私の勤務先は夫が最初に入院し手術を受けた病院の近くにある。
夫と共に半年以上通院した道を通って出勤するのは
とてもつらいことだった。

その病院のすぐ横に市役所があり、
仕事上、書類をもって市役所に行かなければならないこともたびたびある。
そんなとき、救急車に出会うと
もう、いけない。

救急車の音を聞くと心臓が締め付けられるようになる。
それも、夫の病院の近くだとその衝撃は倍増する。

夫に救急車を要請したのは2回。
一度は、初めての痙攣発作のとき。
それまで普通に歩いていた夫に右半身麻痺が先にきて、
私一人では車に乗せることができなかった。
病院に連絡したら、救急車を呼んで
近くの病院に行くか
そのかかりつけの病院まで運んでもらうかは
救急隊に判断してもらうようにとのことだった。
救急隊の方は、意識がしっかりしているから
少し遠いけど、かかりつけの病院まで大丈夫でしょう、とのことで
隣りの、さらに隣りの市にあるその病院まで運んでくださった。
2度目は、最後の入院のとき。
もう車椅子に乗せることも出来なくなって
寝たきりになってわずか二日目。
突然の39・6℃の発熱で、救急要請した。
そのまま、夫は自宅に帰ることはできなかった。
2回ともそのあとのことを考え
私は自分の車で、救急車のあとを追いかけた。

救急車の音を聞くと
あのときの気持ちにそのまま引き戻されてしまい
心臓がしめつけらるように痛む。
フラッシュバックに近い状態なのだろうか。
自分の意思ではどうにもならない。

一昨日、仕事が遅くなり、
辺りが暗くなってしまってから、市役所に行った。
そのとき、救急車に出合ってしまった。
暗いときの救急車はもっといけない。
最初の痙攣の夜、
夫の乗る救急車の赤い光を必死で追いかけたのに
あっという間に離れてしまった。
あのときの、暗闇に光る
赤い回転灯の光が
脳裏にやきついている。
高速を利用することがわかっていたので
自宅を出るとき、ETCのカードを挿入しようとしたのだが
手が震えて、なかなか挿入することができなかった。
落ちつこうと思っても
気持ちはかなり動転していたのだろう。

もう、決して戻れない日々。
戻せない時間。
ならば、私は、これからどうして生きていけばいいのだろうか。

夫が元気だったころの私には戻れない。
私の生活は、根本から変わってしまった。
あの頃の私が行なえていたすべてのことが
同じようにはできない。
それはしかたがないことなのだ。
仕事も、家事も、眠ることも、食べることも
何もかも、同じようにはできない。
ならば、
全く違う方法で生きていくしかないのだ、と思う。

眠れなければ、眠らない。
食事のメニューも思い出せないなら、
新たなメニューを考えるしかない。
夫の好物を買うことができないなら
それ以外の材料で作れるものを考えるしかない。
夫と一緒に行ったところには出かけられない。
かといって、一人で知らないところにも出かけられない。
買物のほとんどは
生協と、ネット通販ですませている。
割高だけど、しかたがないのだ、と思う。

しかたがないのだ・・
この状態が「普通」になる日がいつかくるのだろうか?
それが、他の人が言う「元気になる」ということなのだろうか?
今の私にはわからない。
わからなくてもいいのかもしれない、と今は思っている。
私は、私のペースで、ゆっくり生きていくしかないのだから。


悲しみの先にあるもの

2012-12-20 22:47:19 | 私の思い 3
夜になると眠くなる。
時間がくるとお腹がすく。

夫が元気だったころ、
それは
「あたりまえ」とさえ思わなかった。
まったく無意識のことだった。

夫がいなくなってから、
少し前まで
そうした日常生活のすべてが苦痛だった。
それは鬱のせいだったのか、
背負いきれない哀しみのせいだったのか・・・

哀しみは薄らいだわけではない。
でも、ここ数日は
その哀しみを
しっかり抱きしめていけるような
不思議な気持ちの変化を味わっている。

以前詠んだ

悲しみを悲しみぬいたその先に
       明日に続く道ぞあれかし

といううたが
今の私の心境。
ちっとも進歩していないってこと?
それでもいい、
ゆっくり歩いていこうと思う。

「すごい」と思う人たちがいる。
私には
とてもそんな力はない。
でも、
あの苦しかった最後の日々、
夫が見せてくれた人としての生き様を
きちんと引き継いで
生きていかなければいけないのだと思う。

お風呂に入るたびに
車椅子になってから
どんなに自宅のお風呂に
ゆっくり入りたかったことだろうと
当時の夫の気持ちを思っていた。
でも、夫は一度もそのことを言わなかった。
あんなにお風呂の好きな夫だったのに
私を困らせるようなことはひと言も言わなかった。
言わなかった夫の気持ちを思うと
胸が潰れそうな思いに駆られる。
でも、夫は言わなかったのだ。
私は、決して私を困らせることを言わなかった
夫のその思いこそ、大切にしなければいけないのだと思う。
夫の思いを大切にして生きて行くしか
私にできることはないのだから・・・。