脳腫瘍の夫と共に

2010年4月グリオーマと診断された夫との手探りの日々…

とうとう

2014-12-31 22:28:11 | 私の思い 3
とうとう
大晦日を迎えた
夫がいなくなって
4回目の大晦日

夫がいたころとはなにひとつ同じにできない
いつも夫がしてくれていた
仏壇の掃除は私がした。
いつも夫がしてくれていた
年末洗車は
車内も掃除機をかけ、拭き掃除をし
ワックスもかけてぴかぴかにしてくれたのだけれど
洗車すらできなかった。
洗車に使う山水も先日の大雪で止まったままだ。

いつも
この日には午前中に一緒に買い物に出かけていた。
今日は娘と二人で
町のスーパーに出かけた。
車を止めるところさえなかなか見つからないほどの混雑。
どこも家族連れで、
買い物かごいっぱいのごちそうを買い求める中で
わずかな品物と、
娘のためにお寿司を買った。
それも少人数用のものはほとんどなくて・・・
ほとんどが5人前だった。
おひとりさま用は皆無。
かろうじてあったのが
高級品の二人前。
二人前で五人前の安いものと大差はない値段。
仕方なく、隣のおばあさんと息子の分も含め5人前を購入。

その留守中に
夫の従弟がお参りに来てくれていた。

発病の前年、
夫よりはるかに若いその従弟の奥様が亡くなられた。
夫は二日間家に帰らないで
その葬儀の手伝いをした。
ちょうど連休で
我が家にはたくさんのお客様と
最期を迎えた老犬がいた。
もうお水すら自力で飲めない老犬に
口の横から注射器で水を流し込み
体をさすっていた。
本当はずっとそばにいたかったのだけれど
たくさんのお客様とともに
お通夜とお葬式にお参りし
たくさんのお客様の食事の支度もしなければならなかった。
お葬式を済ませ
お客様の夕食の支度をし
一通りお酌をした後
わたしだけ庭に出て犬の様子を見に行った。
それを待っていたかのように、
老犬は私に体をなでられたあと、息を引き取った。
せめて、その最後の瞬間にそばにいてやれてよかったと思った。
夫の姉は、
夫がいないなかで愛犬を見送らねばならなかった私を気遣い
犬の火葬にも付き合ってくださった。
まさか
その翌年、夫が発病するなど
だれも予感できなかったことだった。
従弟には一度もそのことは話したことはない。
夫はあのとき
従弟のために
自分にできることを力を尽くしてしようとしたのだ。
その気持ちがわかっているから
わたしはわたしの仕事を全うしようとしたにすぎない。
あのとき
本当は16年ともに過ごした犬のそばにいてやりたかった。
それでも
夫は従弟のそばにいたかったのだ、とわかっているから。


その翌年の連休は
夫は発病し、手術を受けて
一人で病院にいた。
その翌年の連休は
再発し、名古屋の病院にいた。



夫が元気だった最後の連休の思い出。


今は
夫が命をかけて守ってくれた娘を
わたしが守らなければならない、とそれだけを思っている。

そして
今も私を気遣ってくださるたくさんの方に感謝している。












かなしみとともに・・・

2014-12-30 22:41:24 | 私の思い 3
「立ち直る」という言葉が嫌いだ。


「立ち直る」ということは
今の状態が良くない状態だということを意味している。
でも
一番大切な人、
心のよりどころを失くして
かなしみと、後悔の中で
かろうじて生きている状態が
はたして「よくない」状態なのだろうか?
当たり前のことではないのか、と思う。
この思いが変わることも、うすれることもないのだと思う。


障がいのある子どもを育てているとき
ほかの親さんから
「周りに理解されない」
「どうすれば、理解してもらえるのか」
といった声を聞いた。
わたしは
自分自身も
この子を授からなかったら、
きっと、本当に「理解する」ことはできなかっただろう、と思っていた。
苦しみや悩みもあるけれど
それでも
この子がいてくれることで出会うことができたたくさんの喜びや感動、
そしてたくさんの豊かな人間関係。
それらは実際に経験して、はじめてわかったことだ。
そして
この子たちの生きにくさや、必要な手助けも。
だから、「理解してほしい」と願うことが
そもそも間違っているのだと思っていた。
それでも
ほんとうに「わかる」ことはできなくても
「つながる」ことはできると思ってきた。
だから、さまざまな親の会の活動に取り組んできたし
つながる努力をしてきた。


では、大切な人をうしなったこの気持ちはどうなのだろう?
鬱をともに経験した友人でさえ
少し復調した今は
「きっと元気になれるよ」と励ましてくれる。
わたしは心の中で、「違う!」と叫ぶ。
わたしは元気になりたいのではない。
夫がいたころのように、元気に明るくいきたいとは思っていないのだ。
このかなしみは
「乗り越え」たり「立ち直」ったりするものではなく
「ともに生きていく」ものなのだ、と思う。


夫がいないかぎり
わたしには、喜びも感動も楽しみもない。
それは、いつも夫とともにあったものだ。
かなうなら
夫のもとに今すぐにでもいきたい。
でも、
「生きたい」と願い続けた夫の気持ちを思えば
みずから命を絶つことができないから
そして
夫が命を懸けて守ってくれた娘に
一日でも長く寄り添っていてやりたいから
ただそれだけの思いで生きながらえているに過ぎない。
自分のことなど、どうでもよいのだ。
わたしが生きているかぎり
このかなしみとともに歩いていくのだ。
それは苦痛ではない。


このことを「わかってほしい」と思うこと自体が間違っているのだろう。


今日はやっとお墓へ行く道を除雪した。






まだ
わたしの長靴より深い雪が残っている。
踏み外すと下の畑に落ちてしまうので
慎重に雪をよけ、一歩ずつ進んだ。
以前あった山の上だったら
行くことはできなかっただろう。
こんな日が来ることを
夫は予感していたのだろうか?




年末

2014-12-28 20:17:19 | 私の思い 3
先日の雪はまだあちこちに残っている。
我が家の小屋の前には
屋根から落ちた雪が私の背より高く積もっている。





この奥に
息子の部屋のエアコンの室外機があるので
何とか掘り出したかったのだが
到達できなかった。



仕事は昨日まで。
今日は娘がいるとできない居間の掃除をすませ、
小屋の前の雪よけをしてから
娘を迎えに行った。


明日からずっと娘と一緒の生活。
夫がいのちをかけて守ってくれた娘が
しあわせな時間を過ごせるように
私も
すべての力を使おうと思う。



5年前のクリスマスイブ

2014-12-27 22:29:48 | 私の思い 3
5年前のクリスマスイブの日
わたしがいちばんもどりたい日
どれだけ悔やんでも
身もだえして泣き叫んでも
決してもどれないとわかっていても
戻りたい


その日のお昼少し前
職場にいた私に
夫から突然電話がかかってきた
その日は
午後から娘の大学病院の予約があり
お昼に娘を作業所に迎えに行くことになっていた

「大学病院へ行くとき
 (途中にある)S市の病院まで
 乗せていってほしい」

いったい何があったのか
わたしは矢継ぎ早に質問した。
それまで
夫は私には異常をなにひとつ話していなかったので
わたしには初めて聞く症状だった
「ろれつが回らない」「言葉がでてこない」
それが最初の症状だった。
メニエルの持病があり
耳鼻科に通院していた夫は
耳鼻科の先生にその症状を話し
念のためCTを撮り
すぐ、内科に回され
内科からS市の脳外科のある病院に
すぐに行くように言われたのだという。

それでも
夫も私も
そんなに大変なことだという思いがなく
1時間の車での移動中
コンビニで買ったおにぎりを食べながら行ったのだった。
今から思うと
なんと呑気だったのだろうと思う

CTの画像を見たドクターは
すぐ
「造影MRIを撮りましょう」と言われた。
当時、異常な症状があり
その日に
血液検査の結果を聞くことになっていた娘のことが気にかかっていたわたしは
看護師さんにそのことを相談した。
「血管造影は付き添いがいなくても大丈夫」と言ってくださったので
わたしは夫をその病院に一人残し
大学病院へ急いだ。
娘の検査結果はやはり異常で
年明けに他科にかかることになった。
その時点で、私の頭の中は娘の心配で一杯になってしまった。

娘の診察が終わって夫に電話をすると
「軽い脳梗塞だって。
 でも、時間がたってるから
 薬もなにもいらないって言われた」とのことで
夫はすでに病院を出て
国道沿いの電気店でぶらぶらしているとのことだった。
「軽くてよかったね。
 これからは、もっと健康に気を付けようね」と話し
それからは
夫も私も娘の心配でいっぱいになっていた。

あの日のMIRの画像をわたしは一度も見ていない。
見ていたところで
素人の私にわかるはずもなかったのだろうけれど
それでも
なぜ、あの日
夫を残して行ったのか
そのことが
悔やまれてならないのだ。
もしもあの日
夫のそばにいて
「軽い脳梗塞だ」と言われても、「それでも心配だ」と言っていたら
もしかしたら
「気になることがあれば
 また見せてください」と言われたかもしれないのに・・・
そうすれば
あんなに腫瘍が大きくなる前に
手術ができたかもしれないのに・・・
すべては
娘を優先したわたしのせいだと思えてならない。


どんなに悔やんでも時間はもどせない
どんなに悔やんでも夫は戻ってこない
そんなことは分かっているけれど
わたしには
悔やむことしかできないのだ
悔やんで
悔やんで
自分を責めて


それでも
できることなら
夫のもとにいきたいと
それだけを願う




大雪、停電、そして・・・

2014-12-20 23:10:55 | 私の思い 3
18日の朝の我が家前






連日の雪かきでもうへとへと
それでも
職場の雪かきや雪おろしもあり
「できたら出勤して」と言われたが
我が家からでることはできなかった。


我が家の急な坂道は
よほどきれいに雪かきをしておかないと
車が登ることはできない。

18日の朝、
出勤しようとしていた息子が脱輪した。
石垣の下は畑で、落差は1メートルほど。
前・後輪ともに脱輪していたのでどうすることもできなかった。
大雪の朝、JAFも来てくれない。
仕方なく義弟に電話すると運よく休みだとのこと。
近所の人も手伝いに来てくださり
転落防止のロープを電柱に結び付け
ジャッキであげてなんとか救出してくれた。
そのあと、義弟の車が我が家に登ろうとしたら
今度は義弟の車が雪にハンドルを取られ
動かなくなった。
息子と三人で坂道の雪を全部きれいにしてようやく登ることができて。


その日は、倒木のため4時間余りの停電にもなった。
ストーブとゆたんぽで寒さをしのいだ。
灯油も食料も買い置きはたっぷりあるが
それでも心細い。


そして、今日は
我が家に配達に来た車が脱輪。
先日の息子の時より高い位置で
今にも転げ落ちそうだった。
雪を積んで足場を作り、パレットを置いてなんとか救出。


こんなことが続くと
いつまでこの家に住めるのだろうか・・・と思う。
雪があったら、坂道を登ることはできない。
かといって
仕事をいつまでも休むわけにもいかない。
どうすればいいのか・・・
これ以上、雪が降らないことを願うしかないのだけれど・・・