脳腫瘍の夫と共に

2010年4月グリオーマと診断された夫との手探りの日々…

それでも大晦日! 感謝をこめて!

2012-12-31 21:07:15 | 日記 3
今日は朝からめげていた。
でも、娘にとっては、楽しい大晦日、
そしてお正月。
夫と過ごした楽しい記憶を思い出してほしい。
いつか、私がいなくなっても、
泣いていないで、
楽しい思い出と共に
元気に生きていってほしいから。

とても、とても、気が重かったけど、
がんばって買い物に行き、
お正月料理の材料を買ってきた。
もっとも、午後の半日で作れるものなど
たかが知れているし、
あの頃、どんな手順で
たくさんのお節を作っていたのかも思い出せないので
思いつくもの、娘の好きなもの限定。
明日は
夫がいなくなってから
ずっと出番のなかった黒塗りのお盆に
きれいに盛りつけよう。

夫の従弟がお参りに来てくださった。
忘れないでいてくれて、ありがとう。

そして、私を見守って下さった
たくさんの人にも、
心からありがとうございます。

ゆっくり、じっくり、生きていきます。
これからもよろしくお願いいたします。


春の陽射しの記憶

2012-12-31 05:59:56 | 私の思い 3
記憶に残っている
元気な夫と過ごした最後の日。
一昨年の4月、土曜日。

前日、
下垂体腺腫で
東京の病院からの連絡待ちだった娘が
泣いて目の痛みを訴えた。
大学病院の主治医にメールで相談したところ、
すぐに東京の病院のドクターと連絡をとって下さった。

娘の入院に備えて、
しばらくは家を留守にしなければならないので、
野良猫が入らないように
私は縁側の障子の補強をしていた。
その日、夫は休みで
家の周りの片付けなどをしていた。
二人とも、主治医からの連絡を待って
落ち着かない気分だった。

たまたま、二人で縁側にいたとき、
主治医からの電話が入った。
春の陽射しが暖かく
妙に明るい日だった。

東京のドクターが
その日は病院に行けないので、
月曜日に病室の手配などをして連絡を下さるとのことだった。

当時、時々数字がわからないという症状が出始めていた夫。
だが、私には何も言わなかった。
私が気づいたのは数回だったが
本人はもっと経験していたはずなのに。
娘の入院を最優先させてくれたの
だろう。
夫の入院が先になっていたら、
私一人で東京に行くことはできなかっただろう。

あの日の、
あのときの、
縁側の暖かさと明るさは
はっきりと記憶に残っている。
心に焼きついている。
病気が発覚する前の
不安ながらも
穏やかで優しかった時間。

しばらく一人暮らしをしなければならない夫のために、
たくさんのお惣菜を作って冷凍した。
カッターシャツや下着も
たくさん購入した。

だが、夫は娘の入院の翌日、
緊急入院したので
お惣菜もカッターシャツも手付かずのままだった。
下着の新品は
入院に役立った。

今も、あの日のことを思う。
時々数字がわからなくなる夫を残していくことは
とても心配だった。
でも、確実に症状が進んでいる娘のことも心配だった。
そして、私は夫の気持ちに甘え、
娘のことを優先させたのだ。
なぜあのとき、
夫のことを優先させなかったのか・・・・・

悔やんでも
時間は戻せない。


あの日の
あの春の陽射しの記憶は
私を激しい後悔の渦に引き込む。

ずっと
この後悔は消えることも
薄らぐこともないだろう。





願い

2012-12-30 21:20:16 | 日記 3
昨日の朝、
前夜の雨まじりの雪が凍って
フロントガラスにできた不思議な模様



さて、今日は仏壇と客間の掃除。
仏壇のお磨きはいつも夫の仕事だった。
やっぱり、一人でする年末の仕事は悲しい。
普段はあまり入らない客間の掃除をしていて
見つけたもの。



以前の会社にいたとき
毎年、「スキー集会」があった。
まだ、高速道路がなくて、帰りはいつも大渋滞だった。
そこで、来客好きの夫の提案ではじまった
我が家での「夕食会」。
スキー場から会社までのちょうど中間に位置する我が家で
渋滞が終わるまでのしばしの休憩をかねての夕食会だった。
当時は夫もスキー大好きで、スキー集会にも参加していた。
会社の若い人たちがいつも20人くらいで立寄ってくださった。
ある年、そのお礼にといただいた時計。

夫が最後にスキーに行ったのは発病した年のお正月(一昨年)。
当時、「軽い脳梗塞」と診断されていて
仕事は休んでいた。
お正月に、退屈だからと、近くのスキー場に出かけたのが
夫の最後のスキーになった。



人は誰でも、
同じ「自分」ではいられないのだろう。
日々、他者との関係や
環境の変化により
「自己」は絶えず新たになっていくのだろう。
ただ、私の場合
夫の発病・死によって
あまりにも急激に
そして、すべてが変わってしまったから
「自己」のすべてが根底から崩れ去ったのだと思う。
では、どうすれば
「自己」を再構築できるのか
今も私にはわからない。




子猫のお気に入りは
パンダのぬいぐるみ。
親猫を彷彿とさせる色合いだからだろうか。


明日は大晦日だからといって
いつもと同じ一日が終わるだけのことだ。
お正月の料理も作る気にはなれないし
新たな一歩が始まるわけでもない。


今はただ、
夫と共に過ごした日々を思いだしたいと
それだけを願っている。
心療内科のドクターは
「いつかきっと思い出せるから」と言ってくださったのだが・・・




がんばった一日

2012-12-30 06:24:59 | 日記 3
昨日は、よくがんばった一日。

娘の作業所は昨日からお休みなので、
昨日は娘を連れて出勤。
午前中は職場の掃除をした。

そのあと、職場から10分ほどの
母の介護つきアパートへ年内最後の面会に。
まずまず元気そうだった。

帰宅して居間と玄関の掃除。

夕方、娘を同窓会に送り出してから、
音訳に。
市の広報の新年号、
先日録音したものの訂正と
他の人が録音して下さったものの校正。

帰宅して、娘の同級生からの連絡を待ちながら、
台所の掃除。
夫が元気だった頃は
こうして、夫の帰りを待ちながら掃除してたなぁ・・・

うん、我ながらよくがんばった!
ということにしておこう。
途中のいくつかの失敗は無視して。

さて、今日は・・?

同窓会

2012-12-29 22:49:19 | 日記 3
今日は娘の同窓会だった

重度の知的障がいがあっても
娘はずっと「普通学級」で過ごした。
それは、すばらしい同級生たちと
理解ある先生方のおかげだった。
語り尽くせないほど
たくさんのエピソードがあり、
娘はたくさんの愛情の中で
たくさんの経験をして育つことができた。

そして今でも、
娘は同級生の一員である。
私はなんのためらいもなく
娘を同級生にお願いできる。
それは本当にすばらしい関係だと思う。

成人式以来、6年ぶりの同窓会だった。
送迎バスの乗り場までは送っていった。
帰りのバスが出発する時、私の携帯に連絡してね、と
幹事の男の子にお願いした。

娘は酎ハイを飲み、赤い顔で帰宅。
ビンゴの景品も持っていた。

娘のはっきりしない発音で
「酎ハイ」と聞き取ってくれた友達がいたのだ。
数字がわからない娘のビンゴカードを
一緒に見てくれた友達もいたのだ。
トイレにも連れていってもらったらしい。
こうして、今も
たくさんの友達に助けられて
楽しく過ごすことができていることに感謝。

同級生の中で、
一番早く父親と別れなければならなかった娘。

2月には私の同窓会があるのだが、
まだ返事を出していない。
多分、
断るだろうと思う。
笑って話すことなど、できそうにないから。