脳腫瘍の夫と共に

2010年4月グリオーマと診断された夫との手探りの日々…

ねがい

2015-01-31 23:01:54 | 私の思い 3
当地、今日は一日中雪が舞う寒さ。
それでも、12月のような積雪にならないだけでも少しは心の重荷が少ない。


週末は娘がいるので精一杯明るく
娘が喜ぶことを心がける。
とはいえ、どこにも行けない、調理ができないのは変わっていないので
せいぜいが、外食に出かけたり、
味付けのいらないメニューを考える程度。
今日は
朝はサンドイッチをつくり
昼はオムライスを作り
夕食にはミートスパを作った。
昼・夜は
味付けはインスタントのソース。
夫がいたころはありえないメニューばかりだ。
それでも
娘が喜んでくれることだけを願って
今の私の精一杯。


眠れないのは
ずっと変わっていない。
もう
「眠らなければ・・」という
強迫観念のような思いもなくなり
人間って
こんなに眠らなくても生きていられるんだ、と思う。


水曜日は
娘の大学病院と障害者歯科受診日だった。
大学病院では
12月の発熱以来の様子を報告した。
主治医の「大丈夫」とのお言葉のお陰で作業所にだせたことのお礼。
それでも不安でたまらなかったこと。
ドクターは
再度、検査結果の数値の意味を丁寧に説明してくださった。


歯科では虫歯が発見され、治療をした。
「痛くなかった?」と聞かれたが
「この子は痛みをほとんど訴えないのです」と答えた。
痛みを訴えない娘を
どうすれば痛みや病から守ることができるのか・・・?
考えるととても不安になる。

わたしがいなくなったら
この子は
どうやって
自分の意思をひとに伝えることができるのだろう?
この子は
どうやって
自分の苦しみをひとに伝えることができるのだろう?



わたしのかなしみが癒されることはない
わたしの願いはただ一つ
夫とともにありたいだけだ
いまのいのちには
未練もないし
願いも何もない
それでも
娘のことをおもうと
できるだけ長くいきていなければ、と思う
かなうなら
娘もともに・・・と願う。




カウンセリング

2015-01-24 22:01:30 | 私の思い 3
昨日は、カウンセリングの一応の最終日だった。
臨床心理士の先生が産休~育休に入られるため・・・
変わりの臨床心理士が来られるとのことだったが
夫のことや私のことを一からお話しすることは
とてもできないと思い、お断りした。
先生が育休から復帰されるとき
もし、まだ私が先生を必要としていたら再開するかもしれない・・


「どうしてここに来るのでしょうね」と話し合った。


夫が元気だったころ
わたしのカウンセラーは夫だった。
さまざまなことを夫と飲みながら話した。
夫はいつでも黙って聞いてくれた。
夫と話して、私の考えや感じ方に共感してもらうことで
わたしは、自分の考え通りにならないことも
どうすれば、すこしでも理想に近い形で実現できるのか
どうすれば、ほかの人たちとうまく折り合いをつけながら
自分の理想を実現できるのか
冷静に考えることができた。
夫がいなくなって
わたしには
カウンセラーが必要だったのかもしれない。


夫との思い出や
夫にできなかったことへの後悔や懺悔も
たくさん話した。
だれにも話せない、
誰にもわかってもらえないかなしみ。
そこでだけは
誰にも遠慮せずに涙を流すことができた。


そんな場をなくして
これから
どうすればいいのかわからない。







夫の愛車

2015-01-18 22:09:30 | 私の思い 3
わたしはどこにむかっているのだろう・・・?

夫が望んでいたことはなんだったのだろう?


夫は半身麻痺になり
言葉も錯語が激しくて
自分の意志を伝えることが難しくなっていたが
くりかえし
「あんたはどうするんや?」と
たどたどしい言葉で尋ねた。
その質問が何を意味するのか尋ねても
夫はその意味を説明する言葉を失っていた。
わたしは
うすうす
夫は自分がいなくなったら
わたしはどうやって生活するのか、と
心配してくれているのではないかと思っていたが
そう尋ねることはとても恐ろしかった。
それは夫の余命が短いことを認めることのようで
とても恐ろしかった。
そしてわたしは
夫がくりかえし尋ねることに答えようとしなかった。




長男がまだ乳児の時に義母が癌になった。
3年半の闘病後、義母は亡くなった。
その間に次男が生まれた。
家には年老いた祖母がいた。
祖母の面倒と子どもたちの面倒を見なければならず
勤めに出ることは不可能だった。
まもなく祖母に認知症の症状が出て、
トイレが不可能になり、
おむつをして、寝たり起きたりの生活になった。
当時次男はまだ乳児だった。
次男をおんぶして、祖母の面倒を見た。
2年以上そんな日々が続いた。
祖母がなくなり3年後に娘が生まれた。
娘は病弱で
発達も遅れていたので
車で片道1時間半かかる訓練施設に
週に2回通って訓練を受けていた。
(当時は高速道路はまだできていなかった?)
育児や家族の面倒を見ることに追われて
わたしはわずかな時間のパートにしか出たことがなかった。
夫の給料だけで暮らすことは
金銭的な余裕はなかったけれど
自由な時間をつかって
親の会の活動や
さまざまな研修会に出かけることはできた。
ことに娘が生まれてからは
そうした活動に多くの時間を使ってきた。
娘が小学校四年生の時
私自身が癌になった。
2年間で3回の入院・手術を受けた。
その後は
自分自身のリハビリもかねて
音訳のボランティア活動もするようになり
収入につながるような仕事はしなかった。
夫はそんな私の生き方を応援してくれた。
わたしが親の会の活動などで帰りが遅くなり
夫にそのことを詫びると、
「自分がやりたくてもできないことをしてくれているのだから・・・」
と言ってくれた。
夫も時間の余裕があり、
生活のために働かなくてもよかったなら
きっと親の会の活動に参加したかったのだろう。
夫の支えがあったから
わたしは私のしたいことに打ち込むことができた。
だから
夫は自分がいなくなったら
わたしがどうやって生活していくのかを心配してくれていたのだと思う。



夫の支えを失って
わたしのこころにはおおきなあながあいたままだ
半身をもがれるより
もっともっとおおきなぶぶんをもぎとられたまま


おっとがいたから力を出すことができていた。
おっとがいたから活動できていた。


わたしは
なんのために
どこに向かえばいいのだろう・・・?






夫が自宅療養中
近所の道を掃除に出かけるときに使っていた台車を手放すことを決めた。





車の運転を禁じられ
「これがおれの愛車やなあ・・・」とさみしそうにつぶやいた。
長い間小屋の片隅でほこりにまみれていて
見るたびにあの時の夫の表情を思いだし涙があふれた。
でも
このまま錆びつかせてしまうよりは
使ってもらえるところがあるのなら・・・と思い
勤め先に寄付することにした。
夫が生きたあかし。
夫はあの時も「よくなりたい」と願っていた。
リハビリ代わりにと
毎日、近所の道を掃除していた。
夫の思いは
いまも私の中で生きている。

ねがい

2015-01-10 19:25:56 | 私の思い 3
今日は「お敬い」だった。
毎年、夫が何よりも大切にしていた行事だったのに
わたしはインフルエンザで行くことができなかった。
無理をすれば行けない体調ではなかったが
高齢の方が多い集まりに
感染を広げるようなことはできないので
遠慮した、というのが本当なのだけれど。

年が明けて、たった3日仕事をしただけなのに
水曜日の夜から、激しい悪寒・筋肉痛・関節痛、そして高熱(39・5℃)という
インフルエンザの教科書のような症状だった。
木曜日の午前、少し遅めの時間に
発熱から12時間たつのを待って受診した。

いつも週末に帰宅する娘は
感染すると困るので
ホームで預かってもらっている。
預かってもらえる場所があることに感謝。
明日は美容院へ
明後日は映画に連れていってもらう予定だ。

こうして
少しずつ
親がいなくなったときの練習を重ねていく。
親がいなくなれば
週末も
年末年始も
ずっとホームで暮らすことになる。
その時に
寂しがることがないように
その時にも
生活を楽しむことができるように
さまざまな経験を積んで
さまざまな楽しみ方を身に着けてほしい。

それは
ケアホームを立ち上げるときの
わたしたちの切実な願いだった。
夫とともに
心からそう願っていたのだった。



ねえ、そうだったよね・・・?
少しは安心できているかなあ・・・?
それとも
まだまだ心配かなあ・・?



本当に
本当に
安心できたら
迎えに来てくれるかなあ・・?


年が明けても・・・

2015-01-04 22:59:59 | 私の思い 3
新しい年が来たとて
何が変わるというのだろう?

夫がいない限り
なにひとつ状況は変わらないのだ

当地、元旦より雪
夫がいないから
雪と格闘するしかない。

お墓に行くにも
深い雪をかき分け
急な斜面にたっているので
一歩ずつ、慎重に歩く


例年のの新年会にも
車では行けず
娘と歩いて行った

あれは何年前のことだったのだろう?
年末から降り続いた雪が
年明けにもやまず
除夜の鐘をあきらめた寺社もあったと聞く
夫も
元日に車を動かすことをあきらめ
娘を二人で両側から支えて新年会に行ったことがあった
夫が車を動かすことをあきらめるなど
それまでにはなかったことだった

今年は
私一人で
怖がる娘の手を引き
新年会に出かけた。
行ったところで
なにも楽しめることなどないことはわかっていても
夫が何より大切にしていた「おつきあい」だから・・
にぎやかな中で
お酌をし
お酒がなくなっていないか気を配り
へとへとに疲れて
夫がいたころは考えられないほど早く帰宅した
いつも一番最後まで残り
後片付けを手伝ってくるのが習慣だったけれど
わたしの気力はそこまでがやっとだった


帰宅してからは
また雪との格闘だった
なにしろ
坂道の雪かきをしておかないと・・・


それでも
娘を精一杯楽しませてやりたくて・・・


わたしには未来はなくても
娘には
未来がある
わたしがいなくなっても
娘には
ずっと
いきいきと暮らし続けてほしいから





さて
明日からは
わたしも仕事が始まる
娘の作業所も始まる
どんなに苦しくても
夫が命を懸けて守ってくれた娘を守るために
わたしはいま生きているのだ、と思う







珍しい二匹のツーショット




「哀しみのトンネルからまだ抜けられないのですね」と
ある人からの賀状に書かれていた
トンネルにはいつか出口がある
でも
このトンネルの行きつく先は
地下深くの地底湖ではないのだろうか・・・
底にたどりついたら
本当に静かな気持ちで
暮らせるのではないだろうか・・・と思う。


わたしの願いはただひとつ
夫とともにあることだけなのだから。
それが
たとえ「無」であっても
夫とおなじところにいたいだけなのだ。