脳腫瘍の夫と共に

2010年4月グリオーマと診断された夫との手探りの日々…

生きるために・・・

2015-07-29 23:16:21 | 私の思い 3
ずっと
ずっと
何も考えられなかった


ただ
ただ
夫がいてくれたら
何と言ってくれただろうと考えていた

妊娠8か月の姪が救急車で
NICUの整った病院に救急搬送されて3週間ほどになる。
早産の兆候があるが
胎児に大きな異常があり
地元の病院では対応できないとの理由からだった。

その後
姪の子供に致死的になりかねない大きな異常があることが判明し
姪は
さまざまな決断を迫られ苦しんでいた。
今は誕生前に胎児の異常がわかってしまうので
わが子の顔を見る前に
いのちにかかわる大きな選択を迫られる。

分娩に胎児が耐えられるのか・・・
その不安の中で
まずは分娩方法を選択しなければならない。
さらに
無事に生まれたとして
自力で呼吸ができなかったら
気管切開をするのかしないのか、
呼吸器をつけるのか、つけないのか
酸素吸入は、どうするのか、
NICUには入るのか、入らないのかなどなど
たくさんの選択を一度に迫られる。


姪は泣きながら
自分の非力を語り
なにひとつ決断できない自分を責めていた。
「おじさんが生きていたら
 何んていってくれたかなあ・・・」
その姪をわが子のようにかわいがっていた夫のことを思っていてくれた。




いま
わたしは思っている。

ひとは
生きるために
生きている。
だれでもひとしく
「死」にむかって歩いているが
でも
いまこの瞬間は
「生きて」いる。
この
瞬間のために
この瞬間を
精一杯生きるために
ひとは
みな
生きているのだと。


あの最後の日々
苦しい呼吸の中で
夫は
「死にゆく人」ではなく
その瞬間を
まがうことなく
「生きて」いるひとだったのだと。


姪の子どもも
明日のことはわからないが
少なくとも
いま
この瞬間は
姪の胎内で
精一杯
生きているのだと。


夫が元気だったら
きっと
そういってくれたに違いない、と思う。


娘の障がいがわかったとき
わたしに言ってくれたのとおなじように


「俺たちの子にかわりはない」と。


どの子のいのちも
愛すべきもの
大切に
守り育てるべきものだと。


すべてのひとは
いのちの終わりに向かって歩いている。
でも
目的地が「いのちのおわり」なのではなく
いま、この瞬間のつながりのむこうに
「その時」が待っているのだ。
大切にすべきは
いまこの瞬間なのだ、と。


哀しみがきえることも薄らぐこともないけれど


私自身も
きっと
そのなかのひとりなのかもしれないと思っている。



偽善者

2015-07-05 21:03:07 | 私の思い 3
わたしは偽善者だと思う。
今更言うまでもないのだろうが
今日はあらためてそのことを実感した


近所の「鬱仲間」が久しぶりに訪問してくれた。
彼女は
裕福な家庭で
お子さんにも恵まれている。


夫の闘病中は
幾度となく、彼女やそのご家族に助けていただいた。
夫が混乱し
私一人の力では助けることができない時
いつでも駆けつけてくれる人が近くにいてくれたことは
本当に大きな支えだった。

夫がいなくなって間もなく
彼女が大きな病気になった。
その後
さまざまな合併症が出て
彼女は入退院を繰り返した。
そして、
体調は良くなっても
彼女は「鬱」に悩まされ
食事もあまりとれない状態が続いた。
わたしには
彼女の
「気力がでない」状態が理解できたので
誰にも理解されないその状態を
共に語り合った。


その後
彼女は家族の助けもあり
一時、回復したように見えた。
そのころは
わたしは
あえて彼女に近づかなかった。
彼女には
家族も未来もあり
わたしとは違う世界の人だと思った。


だが「鬱」は一直線に回復するものではない。
彼女は
苦しい思いを吐露できる相手である私に
時々、その想いを語る。


わたしは彼女の言葉に同意を示しながらも
心の中では違う言葉を思っている。


わたしは
なんて偽善者なのだろう、と思う。


「一人ぼっちでさみしいのよ」と彼女は言う。
会社を経営するご主人は忙しく
帰宅時間はばらばらなのだろう。
お子さんたちもそれぞれに独立し
母親の話し相手になってくれないこともよくわかる。

(でも、あなたが病気になれば
 みんな飛んできてくれて、
 あなたの面倒を見てくれるじゃない)

そんな言葉を飲み込む。

(私にはだれもいない)と思う。

ご主人の兄弟に誘われて旅行に行ってつらかった話に相槌をうつ。

(でも、あなたはお金の心配をしないで
 その旅行に行けたんじゃない)と思う。

(わたしは、娘のホームの旅行さえ
 こつこつとお金を貯めなければ参加できない)と思う。

人の境遇と
自分の境遇を比べて
それがなんになるだろう。

夫がいたころは
人と比較することなどなかったのに
今の私は
とても嫌な人間だ。

それなのに
彼女の気持ちが理解できるかのように
彼女に相槌を打つ
わたしは
なんて偽善者なのだ、と思う。





何を選ぶのか・・?

2015-07-03 21:30:45 | 私の思い 3
「絶望」とは文字通り解釈するなら「望みを絶たれた状態」。


わたしのすべては夫と共にあった。
喜びも悲しみも怒りも希望も・・・
夫がいない今
わたしにはなんの感情もない。
希望がなければ絶望もない。
喜びがなければ哀しみもない。
未来へのなんの望みもない。
ただただ
毎日を「やりすごしている」。



物質はいつか滅びる。
新しい家も数十年たてば古びる。
新しい家具も家電も
わずか数年で古くなる。
形あるもの、人が作ったものは
すべて「古び」「壊れていく」。
不滅のものは何もない。
人間のいのちもおなじだ。
いま、どんなに光り輝く人生を送っていても
かならずどのひともいつかは最期の時を迎えるのだ。
不滅のもの、変わらないものはなにひとつない。


では、
わたしは
どんな生き方を選ぶのか?
その答えは自分自身で選びとるしかないのだ、と思う。

伝わらない思い

2015-07-01 22:33:01 | 私の思い 3
脳腫瘍は発生した部位により症状は本当にさまざまだ。

夫の場合は
まず、計算ができない、
言葉が出にくいというものだった。
運動野への浸潤はまだなかったから
最初のころはアルツハイマーを疑った。

最初の手術の後遺症は幸いなことにほとんどなかった。
でも、そのことがかえって夫を苦しめていた。
周りから見れば、「言葉が出にくい」「数字が混乱する」という症状はあったものの
本人の自覚症状としてはほとんどなかったので
身体機能に異常のない夫は復職を強く願っていた。
医師から運転を禁止されていたことも
夫にとっては納得のいかないことだった。
高次脳機能障害の自覚は本人にはほとんどなかったので
運転を禁止されることは
復職が不可能であることを意味しており
本人にとっては一番つらいことだっただろうと思う。



再発してからは
わずか数日で右半身が麻痺し
失語もすすんだ。
その後の治療により
完全失語の状態からは少し回復したが
それは
症状をより複雑にし
理解できるのに
表出言語が混乱して
「思いを伝える」という言語の本来の役割を担うことができなくなり
夫にとってはとてもつらい時間だっただろうと思う。


わたしが夫の言いたいことをどんなにわかろうと努力しても
「錯語」のために表出言語は混乱し
夫の言葉を理解することは不可能だった。
それでも
夫は一生懸命何かを伝えようとしていた。
それは
自分のいのちの終わりを意識した夫が
残してゆかねばならない私たちの生活を案じての
さまざまな「指図」であったのだろうと
当時からうすうす感じてはいた。
だが
わたしはそのことに真正面から答えることができなかった。
自分の言葉が理解されない絶望から
夫はとても暗い目をするようになっていた。
わたしは夫との最後の時間を
穏やかに過ごすどころか
夫を絶望へと追いやっていたのだ。
夫が絶望したのは
いのちの終わりに対してではなく
残してゆくものに対する思いが通じないことだったのだと思う。


夫は
自分のいのちより
残してゆく私たちの生活を案じ続けていてくれたのだ、と思う。
それなのに
わたしは
そのことにきちんと答えようとしなかった。


どんなに悔やんでも
どんなに謝っても
届かない思い。
でも、あのころの夫の
自分の思いが伝わらないことへのいら立ちや絶望を思えば
今の私の哀しみなどとるにたらないほど小さなものだ。