脳腫瘍の夫と共に

2010年4月グリオーマと診断された夫との手探りの日々…

救急車の音

2012-12-22 22:03:30 | 私の思い 3
私の勤務先は夫が最初に入院し手術を受けた病院の近くにある。
夫と共に半年以上通院した道を通って出勤するのは
とてもつらいことだった。

その病院のすぐ横に市役所があり、
仕事上、書類をもって市役所に行かなければならないこともたびたびある。
そんなとき、救急車に出会うと
もう、いけない。

救急車の音を聞くと心臓が締め付けられるようになる。
それも、夫の病院の近くだとその衝撃は倍増する。

夫に救急車を要請したのは2回。
一度は、初めての痙攣発作のとき。
それまで普通に歩いていた夫に右半身麻痺が先にきて、
私一人では車に乗せることができなかった。
病院に連絡したら、救急車を呼んで
近くの病院に行くか
そのかかりつけの病院まで運んでもらうかは
救急隊に判断してもらうようにとのことだった。
救急隊の方は、意識がしっかりしているから
少し遠いけど、かかりつけの病院まで大丈夫でしょう、とのことで
隣りの、さらに隣りの市にあるその病院まで運んでくださった。
2度目は、最後の入院のとき。
もう車椅子に乗せることも出来なくなって
寝たきりになってわずか二日目。
突然の39・6℃の発熱で、救急要請した。
そのまま、夫は自宅に帰ることはできなかった。
2回ともそのあとのことを考え
私は自分の車で、救急車のあとを追いかけた。

救急車の音を聞くと
あのときの気持ちにそのまま引き戻されてしまい
心臓がしめつけらるように痛む。
フラッシュバックに近い状態なのだろうか。
自分の意思ではどうにもならない。

一昨日、仕事が遅くなり、
辺りが暗くなってしまってから、市役所に行った。
そのとき、救急車に出合ってしまった。
暗いときの救急車はもっといけない。
最初の痙攣の夜、
夫の乗る救急車の赤い光を必死で追いかけたのに
あっという間に離れてしまった。
あのときの、暗闇に光る
赤い回転灯の光が
脳裏にやきついている。
高速を利用することがわかっていたので
自宅を出るとき、ETCのカードを挿入しようとしたのだが
手が震えて、なかなか挿入することができなかった。
落ちつこうと思っても
気持ちはかなり動転していたのだろう。

もう、決して戻れない日々。
戻せない時間。
ならば、私は、これからどうして生きていけばいいのだろうか。

夫が元気だったころの私には戻れない。
私の生活は、根本から変わってしまった。
あの頃の私が行なえていたすべてのことが
同じようにはできない。
それはしかたがないことなのだ。
仕事も、家事も、眠ることも、食べることも
何もかも、同じようにはできない。
ならば、
全く違う方法で生きていくしかないのだ、と思う。

眠れなければ、眠らない。
食事のメニューも思い出せないなら、
新たなメニューを考えるしかない。
夫の好物を買うことができないなら
それ以外の材料で作れるものを考えるしかない。
夫と一緒に行ったところには出かけられない。
かといって、一人で知らないところにも出かけられない。
買物のほとんどは
生協と、ネット通販ですませている。
割高だけど、しかたがないのだ、と思う。

しかたがないのだ・・
この状態が「普通」になる日がいつかくるのだろうか?
それが、他の人が言う「元気になる」ということなのだろうか?
今の私にはわからない。
わからなくてもいいのかもしれない、と今は思っている。
私は、私のペースで、ゆっくり生きていくしかないのだから。