脳腫瘍の夫と共に

2010年4月グリオーマと診断された夫との手探りの日々…

人格

2016-11-19 21:06:46 | 日記 2
夢でもいいから
会いたいと願い続けているのに・・・

わたしより早く
40代で夫を失くした姉が
「夢に出てこないのは、安心してるからなんだって。
 残した人が心配だと、夢に出てくるんだってよ」
と言ってくれた。
だから、姉の夫も、私の夫も
安心して見守ってくれているということなのだと・・・

ねえ、
あなたは
今も人格を持って
わたしたちを見舞ってくれているの?
今も
人格があるなら
また会えるよね?
会ったとき
あなただとわかるんだよね?

そんな
ちいさな希望にも
すがりたい


プレッシャー?

2016-11-11 21:36:53 | 日記 2
以前心療内科を受診していたころ
ドクターから
「ある方は7年かかったそうですよ」と言われたことがあった。
平常心に戻るのには
膨大な時間が必要なひともあるから、焦らないように、という意味だったのだろう。
夫がいなくなって、今夏で、丸五年たった。
来年には7回忌を勤めなければならない。
夫の従弟が言っていたように
それは
一つの区切りにしなければならない時期なのかもしれない。
だが、そううっすらと思うことさえ
今の私には
大きなプレッシャーとなっているのを感じる。

夫の骨壺は今も仏壇にある。
それがなくなることなど考えられない。
遺骨を常に手元に置くためのいろいろなものが市販されていて
そのうちの、小さな仏像型のものが気に入っていて
これなら、将来、
自分が、介護施設に入るときも持っていけるだろうと思っているが
そのためには、骨壺を開け、遺骨を小さく分けなければならない。
その勇気が、私にはない。
夫の存在が
そんな小さなものになってしまうことが受け入れられない。

自分の体調不良も相まって
こころがぼろぼろ




ねえ、会いたいよ。
どうすれば、会えるのかなあ・・・?

答えを求めて・・・

2016-11-05 22:11:54 | 日記 2
今日
買い物を済ませて
娘の迎えまで、15分ほどの時間があったので
夫の友人が経営している喫茶店に寄った。
夫が再発して名古屋の病院にいたとき
お見舞いに来てくださり
もうほとんど意味のある言葉を話せなくなり
自分の名前さえ言えなくなっていた夫が
「〇〇!」と正しく名前を言って喜んだことがあった。
名古屋の病院を退院し、
車椅子になってからも
何度かお邪魔した。
お店に入るのに小さな段差があって
いつも手伝って下さったのだが
今は、そこに、小さなスロープがついている。
そんな気遣いにも感謝している。


田舎の暮らしには
男の力や技術が欠かせない。
夫がいなくなって
こまごまとした手入れができなくて
庭も小屋も家の周りも荒れ放題だ。
休日には
いつも何かしら家の周りのことをしてくれていたことを思い出す。
こまごました手入れが終わると
「ドライブに行こう」とか
「買い物に行こう」などと
急な外出に誘ってくれたものだった。





高齢の母親の体調も思わしくなく
毎週末、母親のところへ通っている。
自分自身の眼の調子も悪く
右目が見にくい状態が続いている。
こうして
パソコンを打っていても
右目を閉じないと
画面を見ることができない。


さまざまな思いや
次々と起きる出来事も
自分自身が
受け止めてゆくしかないのだとわかっていても
心が悲鳴を上げている。


友人が
「理性や理屈ではどうしようもないことがあるんだよね」と
言ってくれた。
「気力や理性では乗り切れないことがあるんだよね」とも。
その友人もまた
問題は違っても苦しんでいるんだろうな、と思った。



いつか、また
夫に会えるのだろうか・・・・
ほんとうに
そのことが信じられたら
その日を待ち望んで生きられるのかもしれないと思う。
今日も
答えのない答えを求め続けている。