脳腫瘍の夫と共に

2010年4月グリオーマと診断された夫との手探りの日々…

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2014-08-27 03:57:04 | 私の思い 3
心の痛みを止めるおくすりはないんだな・・・


足のけがで病院へ行き
痛み止めと抗生剤を処方された。
薬局で、薬を受け取って、そう思った。



心療内科に行っても
カウンセリングを受けても
けっきょく
自分の痛みを話すだけで
痛みはすこしもへらない


それはそれでいい、とおもう


かなしみや
いたみは
「負」の感情ではないと思うから


いちばん
いちばん
たいせつなひとをうしなったんだから
かなしみや
いたみがきえないのはあたりまえのこと


できないことばかりになってしまったけれど
それもしかたのないこと


それでも
いつまで
夫のいない世界で
生き続けなければならないのだろう・・・と思う。
かなしみや
いたみから逃れたいのではなくて
夫がいないという状況が受け入れられないのだ、と思う。

カットガーゼ

2014-08-26 01:41:00 | 私の思い 3
足を怪我して
救急箱を出したら
たくさんのカットガーゼが出てきた。


こんなところに片付けたことも
すっかり忘れていたのに・・・・



夫の最後の入院のとき


もう
ほとんど反応はないように見えたけれど
高熱が続き
なにも飲ませてあげることもできなかったので
冷たくしたガーゼで
唇を拭いていた。
そのために購入したものだ。



こんなところに片付けたことも
すっかり忘れていたのに



あのとき、
夫は
まだ
たしかに
生きていたのに。


なにもない

2014-08-25 20:45:32 | 私の思い 3
ずっと
激しい耳鳴りの中にいて
いっそ
世の中の音が
何も聞こえなければいいのに、とおもうことしばしば。


諦観でも
達観でもなく
ただただ
かなしみとともにいて
もうすべてが
わたしとは
とおい世界のことのようで・・・


東京の病院で
夫の入院を知り
ネットでどんなにしらべても
それは「悪性」にしか思えなくて
「なぜ、同時期に一家に二人も脳腫瘍患者がでるのか」と
神がいるなら
神を呪いたいとさえ思った。


それでも
「今がどん底と思おう。」
「明日はきっと今日よりよいしらせがある」
とメモしていた。


ともに闘う夫がいて
ともに闘う相手があったころのことだ。


もう
わたしには
なにもない。
うしなって惜しいものも
失いたくない大切なものも。


それでも
「生かされて」いる。


もっと生きたかった人のことを思えば
ぜいたくなことなのかもしれないが


わたしには
どこに向かっていけばよいのか
わからない。
夫のいない人生は
ただ
ただ
かなしいだけなのに

宴が終わり、豪雨・・・

2014-08-17 20:21:21 | 私の思い 3
お盆が終わった。
13日から4日間、義姉・娘・孫が滞在してくださり、にぎやかに過ごした。
毎年、20人以上の来客があり、
みんなお酒には強くて、酒宴が一日中続いた以前に比べれば
わずかな人数だが、
それでも、普段の生活とはかけ離れたにぎやかな日々だった。

以前から痛めていたひざをこの春、再び痛めてからは
まったく正座することができず
「しゃがむ」ことすらできなくなった。
そのため、拭き掃除もできなくなり
家の中の掃除も、草とりもできなくなった。
一番困るのはトイレ掃除で
便器の奥に届かない。
高いところも
踏み台への昇降が不安で
換気扇の掃除もできないままお盆を迎えた。

夫の命日から一週間、
夫の父親の命日である14日に毎年お勤めをお願いしている。
以前はこの日に親戚がたくさん集まったが
今年は
夫の友人、義弟、義姉家族、
我が家もあわせてたった8人。
仏壇の前には
義姉や義弟が供えてくださったお花。
わたしの姪や夫の友人たちからのお供え。
でも、夫のもとには届かない、と思う。

義姉とは夜遅くまで夫の思い出を語り合った。
義姉のつらかったお話もうかがった。
どれだけ話しても、話はつきない。



そして、連日の雨。
昨夜から今日はことのほか激しく
あちこちが通行止めになった。
避難準備情報もだされ
川の水もすごかったが
さいわい、大きな被害はでず
いまのところ少し小降りになっている。
川の水位も下がってきている。



日々
いろいろなことがおきる。
明日からは
日常生活。
どんなおもいも
心の奥にしまいこんで
日常の生活は流れていく。


いつまで
こんな生活を続けなければならないのだろう。
夫のいない生活に
なんの意味があるんだろう。

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2014-08-03 05:36:22 | 私の思い 3
どんなに悲しくても
日常生活は容赦なくつづく


昨日は母のところに行ってきた。
母が暮らす介護付き高齢者住宅までは
往復2時間
滞在は大体30分
同行する娘のために
往復のどちらかに
昼食または休憩と買い物をいれると
4時間近くの外出になる

母はほとんど自分の世界でだけ暮らしている
耳もとおく、会話はあまり成立しない
でも、昨日は珍しく
「○○君(夫の名前を正しく言った!)がこのごろよう来てくれるんよ」
「○○君は死んだんやったかな?このごろよう話すんやけど、あれは夢かなあ?」
これってもしかしたらお迎え現象?
なんで私のところにはきてくれなくて母のところにいくの?
もしも、これが近い将来に現実になったら
わたしは死後の世界を信じられるかもしれない、などと思う。


ねえ、
ほんとうに
どこかにいるのなら
わたしを迎えににきてよ


高速を運転していると
このままハンドルをまっすぐ固定して
アクセルを踏み続けると
ガードレールを突き破って
高架の下に転落して
即死できるかなあ・・・という思いが
何度も何度も湧き上がってくる
でも
高速を運転しているときは
たいてい娘の病院の帰りで
隣には娘がいるので
もし、即死できなかったら
娘がかわいそうと思う気持ちが
わたしを引き戻す

ねえ、
そっちの世界がしあわせなら
娘もつれていってもいいでしょう?
また
家族そろってしあわせに暮らせるのかなあ?