脳腫瘍の夫と共に

2010年4月グリオーマと診断された夫との手探りの日々…

孤独

2014-05-31 18:07:13 | 私の思い 3
誰にもわからない
誰ともつながれない


夫がいなくなって
いちばんつらいのは
この
孤独感だと思う


障がいをもつ子のしあわせを願う気持ち
どんなにがんばっても
制度は追いついていかない焦り


夫がいないさみしさ
闘病中の後悔
懺悔の胸をえぐるような気持ち


死後の世界を信じられないこと自体は
しかたないと思えても
もう
なにひとつ
未来への望みも
見通しもなく
ただ
日々の営みを続けなければならないことへの
罪悪感


誰にも
わかってもらうことなどできない
だれとも
つながることもできない


ただ
息子や
娘の生活を思い
生きながらえているだけの日々

いのちのおわり

2014-05-24 18:58:40 | 私の思い 3
いのちは自分で守るものなのか?
「津波から」「災害から」

でも、一瞬の違いで
事故に巻き込まれることだってある。

わたしは運命論者ではないが
そもそも
自分のいのちを「自分で守れる」と思うこと自体が
はなはだしい思い上がりではないのか・・・と思う。

ひとは
だれでも
かならずいのちの終わりを迎える。
その時はだれにもわからない。

ほんの一瞬
そこを通りかかるのが遅ければ
その事故に巻き込まれなかったかもしれない。

ほんの一時
はやくそこを立ち去れば
その災害から逃げられたかもしれない。

でもすべては事後のことだ。

それが病気となれば
いったい
なにが悪かったのか、と思う。

くりかえし
くりかえし
思う。

家の掃除が行き届いていなかったからか。
家の湿気が多く、カビが発生していたせいか。
食べ物が悪かったのか。
生活習慣が悪かったのか。

それでも
だれも
病気の発症を予測することはできないし
それを防ぐこともできない。

生きるか死ぬかは
偶然でしかない。


今、生きている私も
次の瞬間には
どうなっているかは
誰にもわからない。

であれば
なぜ、ひとは
生き続けなければならないのか。

わたしたちは
いまあるいのちしか
認識することができない。

ほんとうに
つぎのいのちがあるならば
今の悲しみに満ちたいのちを
生き続ける理由はどこにもない。

どんな生き方をしても
すべてのひとは
おなじところにむかっている。





元気なころ
障がいをもつ子どもとともに
死を選ぶ人を身勝手だと思っていた。

子どもには
子どもの人生があり
その子が
障がいがあろうと
いきいきと
その人らしく生きる道をつくっておくのが
親の務めだと思っていた。

その可能性を奪うことは
親の身勝手だと思っていた。

でも、
今、
わたしは思う。

娘の周りには
たくさんの支援者がいてくださる。
娘は
まいにち
たくさんの人に支えられて
明るい笑顔で暮らしている。

でも、
娘を大学病院に連れて行ったり
その健康や
生活の質について
わたしは
たくさんの動きをしている。
わたしがいなくなったら
今の制度の中では
難しいことがたくさんある。
親だからできること、
親がいなければできないことがたくさんある。

そんなことを思うと
娘を残して死ぬことはとてもできない。
私が死ぬなら
娘も一緒に、と思う。
あのころ
身勝手だと思っていた親の気持ちが
今は痛いほどわかる。

息子に対しても、それは同じだ。
息子のまわりにも
支えてくださる方は増えている。
でも、
わたしという経済的な後ろ盾を失ったら
息子はどうするのだろう。
今の制度では
息子のようなタイプを支える制度は皆無にちかい。
だから
わたしが死ぬときは
この子たちもともに・・・と思う。


この子たちとともに死ぬことができる
体力があるあいだに
それを選び、実行したいと願っている。





ねこの寝姿2態


こちらは若猫




こちらは老猫



猫って
どうして
顔を隠して眠るんだろ?


猫2匹とわんこと
3匹一緒に体調を崩し
病院に連れて行って
毎日
薬を飲ませている。
今月は
猫たちの病院代が2万円を超えた。
わたしの
パート収入だけで
どこまで
もちこたえることが
できるんだろう?








5年ぶりの・・・

2014-05-10 22:34:25 | 私の思い 3
若葉風の強い一日。



昨日は
娘の療育手帳の再判定だった。
成人になると、間があいて、5年ぶりの判定。

「5年前と何か変わったことはありますか?」と聞かれ
「もう成人になれば、そんなにできることが増えるわけでもないし
 特に変わりはないと思いますが・・・」と答えると
「ご家族も?」と尋ねられて絶句した。

5年前・・・
ケアホームができたばかりで
夫も元気だった。


こんな日がくるなんて
想像もしていなかった。
穏やかな日常が
ずっと続くと信じて
疑わなかった能天気だった日々。


娘の手術、
夫の病気、
娘の病状について
問われるままに答えた。

娘は今も服薬が必要で
定期的な受診が欠かせないこと。

娘の将来の生活が
とても心配なこと。
親はいつかは子どもを残してゆかなければならないのだから
そうなっても、
手厚い支援を受けて
幸せに暮らしつづけてほしいと願っていること。


何も望みなど、ない。
息子や娘が
必要な支援を受けることができて
生活を楽しむことができるように
それだけが
わたしの願い。

GWと誕生日

2014-05-10 21:10:26 | 私の思い 3
ゴールデンウィーク


3日に義姉と娘、その息子(小2、義姉の孫)が来てくださった。
6日まで滞在。


結婚以来、
GWとお盆、お正月にはいつも大勢の来客の接待だった。
夫や子どもたちと
どこかに出かけたいと思うこともないわけではなかったが
それが本家の勤めと思ってきた。
子どもたちが小さなころは
大変なときもあり
泣きたい思いをすることもあったが
年を経るにしたがい
それが楽しみになっていた。
いまでは
誰も来ないGWやお盆は考えられない。
そんな私の思いを察して
義姉家族が滞在してくださったのだと感謝。


調理ができないのは相変わらず。
でも、義姉に心配をかけるわけにはいかないので
なんとかごまかした。
小さな子どもがいることを言い訳に
冷凍のハンバーグや、
グラタン、エビフライやから揚げなど、
ほとんど味付けしなくてもよいものばかりを並べた。

義姉も気を使ってくださり
4日、5日の昼食は外食に誘ってくださった。


おかげで
時間を持て余すこともなく
忙しく過ごすことができた。
娘とふたりっきりだったら
行くところもなく
することもなく
きっと
泣いてばかりいただろう。


そして
5月7日は
娘の誕生日だった。

夫が発病した年(4年前)
娘は東京の病院を退院した後
体調不良で
大学病院に再入院していた。
5月6日に退院許可が出て
主治医と連絡が取れたのは
午後4時過ぎだったが
翌日の誕生日を
夫とともに過ごさせてやりたくて
ばたばたと退院してきたのだった。

翌日
まだ入院中だった夫のもとへ
娘の誕生日ケーキを持って出かけた。
翌年の誕生日には
夫がどうなっているか、とても不安だった。
夫の口から、娘に
「おめでとう」と言ってもらえる
最後になるかもしれないと思っていた。

翌年(3年前)
夫は名古屋の病院から
外泊で自宅に戻っていた。
車いすで
失語も進んでいた。
それでも
義姉家族も迎え
少し早いけれど
連休中に娘の誕生日を祝い
夫の手から
誕生祝に準備した「かるた」を
渡してもらった。
夫は
あまりよく意味が分からないようだった。
わたしに促されて
「おめでとう」と言ってくれたのだった。

あの
二回の娘の誕生日を
わたしは決して忘れないだろう。
それが
娘にとっても
思い出の宝物になることを祈っている。

わたしは・・・

2014-05-01 22:47:24 | 私の思い 3
夜になると
無性に誰かと話したくなる
夫が元気だったころ
毎晩
夫と一緒に
晩酌をし
話が尽きなかった時間


もう
わたしには
私の本音を話すひとがいない


どうしたら
ひとりで
いきていけるようになるのだろう


わたしが
弱虫なだけなのかもしれない
愛する人を失くしたおおくのひとは
ひとりでも
「前を向いて」生きているのだろう


でも
わたしは
夫のいない世界で
生きていく意味が見いだせない
そんなちからもない


ひとは
ひとりぼっちでは
生きていけないのだろう