脳腫瘍の夫と共に

2010年4月グリオーマと診断された夫との手探りの日々…

わからないまま

2016-06-12 22:43:52 | 私の思い 3
夫が名古屋の病院を退院し
車椅子ながら
自宅での生活をしてきたこの時期・・・

週3回のデイサービスとデイケアを利用し
在宅でリハビリも受け
ヘルパーさんにも来ていただき
とにかく
利用できる限りのサービスを利用させていただいて
かろうじて生活が成り立っていた

ひとつひとつについて
詳細な検討を加える余裕はなかった
とにかく
使える限りのサービスを利用しないと
重度の障害をもつ娘と
わたしの生活が成り立たなかったのだ



どんどん変化してゆく夫の病状
それは
とても残酷だった

娘にとっては
「お父さん」が「お父さん」でなくなってゆく過程だった
混乱し
日常生活にさまざまな困難がおきていた





それでも
いま
娘は
夫が元気だったころをたくさん思い出してくれる
それだけが
いまの私の救いだ



夫がいない今
なにをこころのよすがとして
生きていけばよいのか
いまだわからないままだ





会いたい

2016-05-08 21:07:50 | 私の思い 3
この世界にはたくさんの哀しみがある

同じ病気で亡くなられた方や
事故や災害や事件に巻き込まれた方・・・

その方々のご家族のお気持ちを思うと
わたしの個人的な哀しみを綴ることははばかられて・・・



ひとは
だれでも
いつかは
いのちの終わりを迎える


どんなに
あがいても
それは
あらがうことができない


ひとは
みな
同じところに向かっている


だからこそ
いきている
この瞬間が大切なのだと言われれば
そうなのかもしれない


だからこそ
この瞬間を大切に生きなければならないと言われれば
返す言葉はない


でも
たった一人の大切な人を失って
喜びも楽しみも味わう心を失くし
ただ時間がすぎてゆくことを願っているわたしには
どんなことばも
自分とは遠い世界の言葉にしかおもえない


いつか
ふたたび
まみえることができると
信じることができる
強い信仰もない私には
いま夫に会えないという事実だけが
深い哀しみとなって
わたしを押し潰すのだ


会いたい
会いたい
会いたい


ただ
それだけ

受け入れる

2016-03-27 22:54:10 | 私の思い 3
今、職場では大きな発作のある方二人を担当している。
毎日のように発作が起き
体が硬直し、痙攣し、苦しそうな声が出る。
わたしは、何もできず、(何もしない、というべきか)
ただ、ただ、様子と時間を見守っている。
呼吸はできているか、
危険はないか、
変なふうにからだをひねっていないか、等々。
注意深く見守りながら
自分自身が引き込まれそうになる記憶に
必死でブレーキをかけている。


あのころ
夫はどんなに不安な思いで
発作の時間をやり過ごしていたのだろう。
「発作は大丈夫」
「発作をこわがらないで」
「発作は必ず止まるから」
そんな主治医の言葉を
発作がおきるたび
わたしは
心の中でくりかえしつぶやくことで
なんとか冷静さを保ち
夫の傍らで
その発作が一刻も早く止まることだけを願っていた。
夫の不安や苦しみに寄り添っていたのではない。
自分自身の不安と闘っていたのにすぎない、と思う。
なんと愚かで小さな人間だったのかと思う。


どんなに悔やんでも謝っても
時間はもどらない。
わかっていても
くりかえし、思う。


この思いを語れる場所はここだけだ。


職場ではそんな個人的な哀しみは
心の奥底にかくして
つとめて明るくふるまわねばならない。
同じ時期に鬱に苦しんだ近所の友人は
かなり回復し
当時は
励ましてくれるタイプの友達を避けていたが
今はそんな友達との外出を楽しんでいる。
そのほうが
彼女のためにはずっといい。
彼女は元気になれる状況の人なのだから。
わたしは
この状況が変わることはないのだから
ずっと
この哀しみや後悔とともに生きていくのだと思っている。
それは
あきらめとかではなく
自分の状況を受け入れていくことに近い思いかもしれない。


今日は午後から
思いがけず時間が中途半端にできたので
娘と一緒に田んぼまでドライブをした。
我が家からは車で市街地を抜け
さらに走る。市街地まで15分、さらに10分。
山の中で
平地のないこの辺りは遠くに田んぼを買っている。
夫の父親が購入した田んぼはもう少し市街地に近かった。
ある事情で、交換してほしいと申し入れがあったとき
自宅に近いが面積が狭くなるところと
さらに遠くなるが広くなるところとを示された。
夫は、「受け継いだ土地を減らすことはできない」と言い
自宅からは遠くなるが
田んぼはとても広くなるほうを選んだ。
遠くて、田植えのあとの手入れも大変だったが
夫は、田んぼの仕事は嫌いではなかったようだ。
定年になったら、もっと手をかけて
減農薬で作りたいと、夢を語ってくれたこともあった。
娘とお弁当を届けに行き
夫が手作りした田んぼの農機具小屋で
一緒に食べたものだった。
田んぼの畔に立つと
向こうから夫が手を振りながら歩いてくるような気がした。


今も
夫がいないということを
受け入れることなどできないのだ、と思う。
それでも
この状況を受け入れて生きていくしか
生きていく方法はないのだろう。



ミニ水仙

2016-03-21 13:39:39 | 私の思い 3
夫がなくなった翌年、初めて咲いたミニ水仙。




毎年、咲き続け、今年は一段とたくさんの花をつけた。
伸び放題の芝生にも負けず・・・





写真の向きや大きさを揃えられないのは???



3連休でも
娘をどこにも連れて行ってやれないので
昨日タイヤを夏用に履き替えるために外出した。
オイル交換とタイヤ交換を待っている間に
飲み物とお菓子を出してくださるのが娘の楽しみで。

夫がいたころは、いつも夫にお任せだったので
いったい、いつ履き替えたらいいのかもわからず・・
義弟に相談して決めたのだけれど・・
今日は、また冷え込んでいる。
4月に入っても雪が降る年もある当地。
早すぎたかなあ・・・と不安。

わからないし、できない

2016-03-12 21:05:17 | 私の思い 3
ここ数日は、滂沱の涙ですごしてきた。

ニュースや特別番組は、あの日のことばかり。

新しい道を歩み始めた方もあれば
今も苦しみの中にいらっしゃる方もおられる。

そして
わたしも
今もかなしみの底にいる。

あの日は
再発して
名古屋の病院に入院して3日目。
まだ
治療すれば
少なくとも
現状維持ができるのではないかと期待していた。
夫は
まだ言葉が話せて
急激に進んだ右半身マヒと
激しいめまいやふらつき、
視界の下半分が見えないなどの症状を
身振りを交えて訴えることができていた。

でも
あのすさまじい津波の映像を見ても
理解することはできなくなっていた。
わずか数日で
失語はすすみ
テレビ番組が
通常に戻ったころ
もう
テレビを見ても
何も理解できなくなっていた。

だんだんと
被害の大きさが明らかになっていく過程は
そのまま
夫の症状が進んでいく過程と重なる。



それでも
あのとき
夫は生きていた。




人は
なんのために生き
どこに向かうのか


わたしの母は
高齢になっても
たくさんの趣味を持ち
元気に生きていたが
今は
友人もなくなり
寂しく施設にいる。
多くの人に気遣われ
大切にされてはいても
寂しさは薄れないのだろうと思う。
ただ
大切にされて
生きながらえているだけの日々。
早く夫(父)のもとに行きたいと訴える母を
わたしは説得することはできない。


わたしも
夫のいない世界で
いつまで
生き続けなければならないのだろう。
わたしの喜びは
夫と共にあった。
いまは
なにひとつ
こころ踊ることはない。
それは
仕方ないことなのだと思っているのに
周りの人は
わたしに
笑っていることを強要する。
元気に生きることを強要する。


たいせつなひと
たったひとりの
こころ許せるひとを喪って
それでも
なぜ
笑っていられるのか
わたしには
わからない