脳腫瘍の夫と共に

2010年4月グリオーマと診断された夫との手探りの日々…

一番大切なこと

2012-05-30 23:30:27 | 私の思い 2
今の私
何のために生きているのか
自問自答する毎日



今更ながら
失語のために
自分の思いを表現できなかった夫の気持ちを思うと
どんなにつらかったかと
胸が潰れそうになる毎日


夫の無念を思えば
いのちの大切さ、尊さは言うまでもないが


やっぱり
あなたと一緒にいたかった
一緒に笑っていたかった


生きていること

生きていること
それだけが一番大切なこと

何もできなくても
穏やかに
笑顔ですごせる時間が
一番大切なことなのだと
今更だけど
そう思う

2012-05-28 22:59:44

2012-05-28 22:59:44 | 日記 2
昨日、結婚式の帰りぎわに頂いた花束は
姪のテーブルに飾られていたものだった。

ごく内輪の
二人の気持ちのこもった
暖かな結婚式だった。
披露宴の進行は新郎新婦で進められ
二人が「お世話になったかたたちに感謝をこめてお招きしたい」との言葉どおり
二人の心配りの行き届いた
本当にステキな式だった。

暖かな気持ちで過ごした昨日一日。


姪の花嫁姿を一番見たかったであろう義兄と
二番目に見たかったであろう夫は
写真で参加。


さて、
一夜明けて。


雷がなり、
ドロップのような雹が降り、
お天気のように
さまざまなことがおきて……


人はみな
それぞれの重荷を負って
生きていくしかない。


季節(とき)めぐり緑はさらに深くなる
君だけいない山里の初夏

姪の結婚式

2012-05-26 20:33:43 | 日記 2
明日は姪(姉の末娘)の 結婚式。
姉の夫は姪がまだ中2の時に病気のためになくなった。
以来、夫は何かにつけて姉の家のことを心配してくれていた。
大雪が降れば、
カーポートや小屋の雪おろしに飛んでいき、
まだトタン屋根だった頃はペンキ塗りにも行った。
3人の娘たちの進学や就職のための引っ越しにも行き、
ちょっとした電気工事や修繕もしてずいぶんと活躍したらしい。
姪たちも夫をとても大切に思ってくれていた。


義姉の時もそうだった。
父親をなくした姪が
連休やお盆に父親の車を運転して我が家に来てくれると
夫は必ず洗車をし、丁寧にワックスがけをしていた。
私は当時
たくさんの来客の接待に追われていて
もう少し家のことを手伝ってほしいと思っていたのだけれど、
あの頃、
夫は
父親をなくして
その車の手入れも十分にはできない姪への気遣いを
洗車やワックスがけをすることで
精一杯表していたのだと思う。


まるで
いつか
自分も
娘を残していくことを
予感していたかのように
姉や義姉、
そして姪たちのことを
とても案じていたのだ。


一家の主がいないということが
どんなに大変なことか
わかっていたから
姉や義姉たちに
あんなに一生懸命に力になろうとしたんだと思う…


そして
あんなに
私たちの生活のことを
心配してくれたんだと思う…


夫がいたら
明日は姪の花嫁姿に
父親のように号泣するかもしれない。
でも、
私は
夫の分まで
姪の幸せを祝ってこようと思う。
泣かないで
絶対に泣かないで!



従弟のこと

2012-05-22 23:53:27 | 私の思い 2
意識不明の従弟

髄膜炎と肺炎を併発して
人口呼吸器をつけて
2週間以上たつが
まだ自発呼吸は戻らないようで……


この従弟の父は私の父の弟。
つまり叔父にあたる。
この叔父夫婦は東京に住んでいたので
1年に1度くらいしか会えなかったが
独特の人生観からは大きな影響を受けた。
この叔父が大好きで
学生時代、
夏休みに1ヶ月、
叔父の家に居候させてもらって
バイトしながら東京生活を満喫したのも
懐かしい思い出。
当時従弟はまだ小学生だったろうか…


叔父の告別式には
夫が仕事を休んで連れて行ってくれた。
告別式の間、
娘を東京タワーに連れて行ったりして子守りをしてくれていた。
おかげで
私は大好きな叔父とのお別れをきちんとすることができたのだった。


従弟のお見舞いにも行きたいのだが
今の私には勇気も気力もない。
がんばって!がんばって!
と祈り続けるしかない。

医師から入院を勧められていたのに
仕事のために無理をしていたのだという…
大切な仕事があるからと…それを終えて帰宅して
着替えているときに倒れたのだという…


いのちをかけても
やりとげたいことがあるのは
幸せなことだと思う……


でも
まだまだ
君がやりとげなくちゃならないことはたくさんあるよ……

遠い空の下で
従弟に呼びかけ続けている