脳腫瘍の夫と共に

2010年4月グリオーマと診断された夫との手探りの日々…

母の思い

2015-08-30 15:09:35 | 私の思い 3
やっと、少し余裕のある週末。
昨日は久しぶりに母のところへ行ってきた。

毎回、「忙しいのによう来てくれた」と喜んでくれる。
そして毎回、「今日は何曜日や?」と聞く。
「土曜日だよ」と答えているのに
同行している娘に「今日はどうして休みなのか」と尋ねる。
二つ上の姉と並んで写っている写真を見ては
「T子さんもおらんようになって、(残っているのは)私だけや」と
さびしがる。
そして5分もしないうちに
その写真を見て「T子さんは元気か」と聞く。
亡くなったこと、お葬式には母も参列したと話すが
「そんなことは知らん」「私には何も教えてもらえん」と嘆く。
「ここにいるとお金がかかるから家に帰る」と何度も言う。
父の恩給で十分払えているから心配いらないと話すと
しばらくは黙っているが、またすぐ同じことを繰り返す。
1時間ほどいるあいだ
毎回、ほとんどこれだけの話題の繰り返し。
繰り返す間隔が短くなったということは
それだけ
記憶が早く消えてしまうということだろうか。

いつも玄関まで私たちを見送りたがるので
最近は昼食の時間に帰るようにしている。
見送られるのがわたしはとても苦手だから。

夫が最初の入院中
毎日、リハビリに行く時間に玄関まで私を見送ってくれた。
わたしは
夫がリハビリに行くのを見送ってから帰りたかったのだが
いつも
夫は私を見送ると言って聞かなかった。
駐車場から車を出して、再び玄関前を通ると
夫はいつもまだ見送ってくれていた。
いまも
あのときの夫のまなざしを思い出す。

母も玄関まで見送ってくれると
車が見えなくなるまで手を振っている。
どんなに一緒に帰りたいだろう、と思うが
どうにもできない。

長く生きるということは
それだけでもつらいことだと思う。

それでも・・・

2015-08-23 21:56:27 | 私の思い 3
同じ組()の方が亡くなられた。
ご主人に続き、わずか半年。
80代後半だったが
とてもお元気そうだったのに。
ご主人が亡くなられてからは
車で1時間半ほどの距離に住んでおられた
長男ご夫婦が交代で面倒を見ておられた。
そのご長男が「どれだけやっても、後悔はのこる」と言われた。
何を見ても
何を聞いても
すべてが夫の時と重なり
涙があふれる。


姪の入院以来、
上の子の面倒を見ながら
車で1時間かかる病院へ通う姉を少しでも助けたくて
お盆前はバタバタの日々だった。

お盆の準備はほとんどできなかった。
でも例年通り
義姉家族や、義弟、夫の友人、従弟たちが来てくださり
にぎやかだった。
姪たちもお参りに来てくれた。
夫の命日前日には
どなたか(今もわからない)が
お墓に参ってくださった形跡があった。
いまも
夫がたくさんのひとの心の中で生き続けていることを
とてもうれしく思う。


わたしにとって
夫は「過去」のひとではない。
いまもなお
ともに生きる大切な人だ。

ただ
やはり
現実に
苦しいとき
哀しいとき
そばにいてほしいと思う。
夫だったら
こんなとき
どうしただろうか、といつも思う。
私一人では
重すぎる荷を負いながら
それでも
夫がしたように
がんばることができるのだろうか。

無題

2015-08-09 20:38:57 | 私の思い 3
今日は姪の子どもの告別式だった。

8月4日に生まれ、8月6日、わずか39時間足らずのいのちだった。

重い先天異常があり
無事に生まれるかどうかさえ危ぶまれる状況だったが
姪夫婦は「自然のままに」ということを選び
自然分娩で出産した。
その後も母児同室を希望し
酸素吸入をしながらも
おむつ交換、沐浴、授乳(器具を使ってだが)もすることができた。
すべては
すべてを「選択」させてくださり
2人の意向を尊重してくださった病院のおかげだ。
その後も
母親である姪が退院できる状態になるまで
「母児同室」で過ごさせていただいた。


別れはとてもつらい。
炉の扉が閉まる瞬間
姪は「いやだ~」と叫び泣いた。
すがりつく夫がいることが
わたしにはとてもうらやましく思えた。
わたしも
あんなふうに
こころのさけびをあげることができれば・・・とうらやましかった。


ひとは
なんのためにうまれ
なんのために
どこにいくのだろうか



いまも
わたしにはわからない