認知症に関する興味深い記事が新聞にあった。
隣にスーパーが2カ所あってそこへ出かけると、、 最近、所在なげな
定年組の男性を多く見かけるようになった。
その様子に、寂しいものを感じてやまない。
この資料に、「自信喪失・孤独感・疎外感・無力感・恐怖・絶望・怒り・
悲しみ」という言葉があるが、これらの言葉が、その人たちにまとわり
ついているようで、寂しいものを感ずる。
皮肉にも、わたしは、父親のリハビリで、毎日病院通いなので、その
ような状況に浸りようもなく、複雑な思いがする。
わずかながらの父親の資産のおかげで、病院通いのストレスを、読書
やバイク発散しているし、トレードで小遣い稼ぎができるのが、気持ち
ゆとりをもたらしているかもしれない。
とはいうものの、
「自信喪失・孤独感・疎外感・無力感・恐怖・絶望・怒り・悲しみ」は、
わたしの胸の内にもあるし、同情を禁じ得ない。
認知症のタイプに
葛藤型、回帰型、遊離型とあるが、わたしは、どのタイプにもなりそう
にない。
社会的に高い地位にはなかったし、仕事人間だったが、働き者で頼り
にされていたわけではない。自分勝手に仕事をしていただけである。
不当人事を食らって、苦い思いをしたこともあるので、若年時からお
となしく従順な人でもない。
もしかして、ぼけは、わたしには無縁なのだろうか。
それはそうとして、たいていの高齢者が、
「自信喪失・孤独感・疎外感・無力感・恐怖・絶望・怒り・悲しみ」から、
自由になることは、不可能ではなかろうか。
定年は、労働者として賞味期限がきれたから、設けられたものだと
いう説明があったからだ。
国民の義務としての、労働から解放された定年組は、消費期限を
過ぎた存在でしかない。国民の義務を免除された存在は、突然
定年とともに、何事にも半人前に逆戻りだ。
ネットにあった書評である。
【書評】半グレ化する不良老人 暴行の検挙数は20年で45倍に
高齢者の万引き犯には常習者が多く、世間が思っている以上に
したたかなのだ。だが、犯罪に走る背景を探っていくと、「生きる
意味も生き甲斐も失った」と漏らし、心の空白を窺わせる高齢者
が多いという。
〈持て余す時間とエネルギーをどう使ってよいか分からず〉〈迷走
を続ける、不器用な高齢者〉。取材を通じて見えてきたのはそん
な姿であり、〈死ぬよりも、上手に老いることの方が難しい時代に
なってしまった〉と著者は書く。確かにその通りである。そして、こ
こに描かれている姿は誰にとっても「明日の我が身」かもしれな
い。そう思うと、問題はより切実だ。
以上、一部抜粋してみた。
〈死ぬよりも、上手に老いることの方が難しい時代になってしまっ
た〉
ところで、
荒井由美は、卒業写真で歌った。
ひとごみに流されて変わってゆく私を
あなたはときどき遠くでしかって
あなたは私の青春そのもの
小田和正は、The flagで歌った。
自由な翼を 僕らは たたんで
二度と そこから 飛び立つことはなかった
やがていつの日か この国のすべてを
僕らが この手で 変えてゆくんだったよね
僕らが この手で すべてを
こゝから 行くべき その道はどこかと
できるなら もう一度 捜さないか
戦える 僕らの武器は 今 何かと
それを見つけて こゝへ 並ばないか
僕は 諦めない 誰か 聞いているか
僕は こゝにいる 誰か そばに いるか
加藤登紀子は、歌った。
時には昔の話を
一枚残った写真をごらんよ
ひげづらの男は君だね
どこにいるのか今ではわからない
友達もいく人かいるけど
あの日のすべてが空しいものだと
それは誰にも言えない
今でも同じように見果てぬ夢を描いて
走りつづけているよね どこかで
である。
上手に老いることさえままならない情けない存在が
あの若き日の尊大な輩の成れの果てとは、誰が
想定できたであろう。
田中角栄は、学生運動見ていて、いずれこの若者
たちが、日本の将来を背負ってたつと、暖かく受け
止めていたというが、その成れの果てを見て、どう
思うのだろう。
わたしたちの世代は、高校入試から競争ばかり
してきたと言われたが、人生の一幕を終わって、
誰が、有終の美を飾り、人生をゴールできるのか、
そう簡単ではないようだ。