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リタイアーのよもやま話

長門裕之の偽善

2010-01-23 22:38:42 | 介護&エトセトラ
長門裕之の偽善



長門裕之が「認知症の妻を支えて(~洋子への恩返し~)」というテーマで、講演をしている。

わたしは、その厚顔無恥な人間性に辟易している。


南田洋子さんが、認知症であったとういうニュースに、わたしは、ショックを覚えた。


そしたら、亭主の長門裕之が、テレビに出てきた、みっともないことに、いかにも自分が妻の病気を憂えていると、これ見よがしの態度で、涙を浮かべて、話している。



ウィキペディアでは、このようにある。




彼は、1961年に南田洋子さんと結婚している。

「1985年11月に『洋子へ』(データハウス)を出版。妻の南田への告白という形で、自身の奔放な女性関係などを実名で赤裸々に記し、いわゆる暴露本として世を騒がせた。

これに対し実名を書かれた女優池内淳子などが強く反発。

長門(データハウス)側は初版を回収し、問題箇所を書き直した改訂版を出したうえ、池内に対しては新聞に謝罪広告を掲載した。長門は「ゴーストライターによる口述筆記だったため真意が伝わらなかった」などと弁明したが、南田とともにすべての出演番組、CMの降板を余儀なくされるなど、この騒動が以後の芸能活動に大きなダメージを与えたとされる。

ワイドショーの多数の取材を受け、長門が「こんな本はダメです!」と、自著を机に叩き付ける場面がテレビで放送された。」
とされている。

南田洋子さんは、1998年には、舅・沢村國太郎の介護の経験を中心に綴った『介護のあのとき』を出版し評判となる。2004年頃から認知症の症状が表れ始め、ドラマや映画のセリフが覚えられなくなるほど悪化。2006年に芸能活動を引退。専門医によりアルツハイマー病との診断が下された。

以上、ウィキペディアより。


ネットより

テレビの「ドキュメンタリ宣言」で、再び長門裕之・南田洋子夫妻の闘病生活が放送された。
 
南田氏の認知症は、南田氏が受診を硬く拒んでいたため家庭での様子をビデオ撮影し、それを見た専門医による診察が行われており、そこではアルツハイマー型と診断が下されていた。
 
今回、長門氏は念のため、総合病院で南田氏の容態を診てもらうことにした。
 
そこでの診断は、肝機能障害から来る脳障害が引き起こす認知症というものであった。

そして、肝機能障害の治療を進めれば認知症の改善の可能性がある、というものである。
 
これはアルツハイマー型の認知症とは大きく異なる。
 
アルツハイマー型は、一旦かかると進行するばかりで、治癒の可能性はまるで無い病気だからである。
 
長門氏は、この総合病院での診断を受けて改めて南田氏を連れて専門医にもとへ向かった。
 
専門医の診断は、やはりアルツハイマー型
の認知症とのことだった。

これは一体どういうことなのだろう?

総合病院での診断は、肝機能障害から来る認知症、かたや専門医の診断はアルツハイマー型である。
 
だが素人目にも、これは肝機能問題では?と思えるシーンがいくつもあった。
 
南田氏の容態が思わしくない時に、肝臓治療の薬を服用すると容態が改善されているようだ。
 
日々悪化していった認知症も、肝臓治療を始めてからは、ほんの少しながら良くなりつつあるそうだ。
 
これは以前では考えられないことだそうだ。

専門医での診断では、問診に重きが置かれ
ている。
 
記憶力などを測るテストを口頭で行い、その問診での点数が低いとアルツハイマー型とされてしまうらしい。
 
私達は、あぁ、これは記憶力のテストだな、と察するからうまく答えられるだろうが、治療に来ている身の上の人間が、いきなりテストされてうまく答えられるとは思えない。
 
ちょっと引っ掛け問題のような作りになっているのだ。
 
人間の脳はそんな単純に測れるものではないと思う。
 
だが、専門医の世界では、テストの得点によってアルツハイマー型の認知症と診断されてしまっているようだ。


途中、カット。


以上、ネットより。






再度、ねっとより。

今朝ほど ご主人の長門裕之さんの重篤におちいった 南田洋子さんについての記者会見の模様を 拝見しました。

愛妻を慮ってのお話 涙なしでは見られませんでした。

「皮膚の感覚、顔の形体をしっかり覚えようと 一生分のキスをしてやりました。」といっておられましたが私の心の中に 疑問詞がふと 頭を持ち上げました。

舞台から帰ってきたら 台所で嘔吐し倒れている 妻を発見した ということは ベッドからお台所まで 歩いていかれて 嘔吐なさったわけです。

誰かが そばに居たら その時 すぐ119番できたはずです。
明治座に 出演 していらっしゃる 長門さん、 
舞台がはねたあと、 帰宅なさったのだとしたら・・・
いったい 何時間 洋子さんは お台所に 倒れていらしたのでしょうか?
誰の助けもなしに・・・ そう考えると ゾッとします。

それだけの愛があったら 一人の愛妻のために なぜ 住み込みのお手伝いさんを雇って あげなかったのか。
心から愛する かけがえのない妻のために つきっきりの看護師さんを雇って あげなかったのでしょうか。

何万回 言葉で愛していると おっしゃっても 何か 腑に落ちません。

ご結婚なされた当時は 若くて美しい 南田洋子さんの方が 大スターでした。

私の世代の方々はみんな あの頃の洋子さんしか 知りません。

南田洋子さんのファンの中には 老醜をさらけだした 南田洋子さんを テレビ 本や雑誌で 見たいと 思っていないと 思います。

長門裕之さんは あえて 南田洋子さんの老醜を雑誌に テレビに さらけ出しました。

深刻な 認知症の問題に 一石を 投じたかもしれませんが妻を さらしていることに 変わりはありません。

それに対しての代償として 収入も得ているはずです。

その収入をもって 南田洋子さんに つきっきりの お手伝いさんか 看護師さんを 雇用しても よかったのでは ないでしょうか。

妻の病気で 収入を得ていると 思っている方も 少なくありません。

長門裕之さんの 寝たきりの 義父の沢村国太郎さんの 看病を それは14年間も 南田洋子さんに 一任し洋子さんが クレゾールの匂いが してしまうほどだった。

挙句の果てに、 浮気相手の実名が公開された 書籍を出版。

2人で出演したCMが 上映禁止になるほど の問題でした。
それでも、夫の長門さんを 支え続けた 南田洋子さん。

そう考えると いまこそ 南田洋子さんを ご自分が 仕事なしでも つきっきりで みてさしあげるべきでは なかったのでしょうか。
皆さんは どう思われますか。

愛妻の 介護に忙しかったら 本を書いている時間なんて ないのではないか 
という 書き込みがありました。

愛妻を 失って 悲しみのどん底にいる 長門さんに 
こんなことを いうのは 酷でしょうか。

いじょう、ネットにあったこと。



かなり、ネットから引っ張ってきた。


ところで、長門裕之・南田洋子夫妻は、おしどり夫婦と思ってきた。




「1985年11月に『洋子へ』(データハウス)を出版。妻の南田への告白という形で、自身の奔放な女性関係などを実名で赤裸々に記し、いわゆる暴露本として世を騒がせた。

とあるが、正気の沙汰ではない。南田洋子さん気持をどう考えたのだろう。


「ワイドショーの多数の取材を受け、長門が「こんな本はダメです!」と、自著を机に叩き付ける場面がテレビで放送された。」

これって、どういう意味。
おしどり夫婦という評価は、ある意味で、南田洋子さんにとって、財産だ。
こんな妻を裏切るような仕打ち、いったい全体、この男何を考えているのだろう。
これって、「ドスメティックバイオレンス」じゃないの。妻にとって、亭主が浮気の暴露本をだすって。

妻のアイデンティティをぶち壊す行いではないか。


ところで、再度ネットより。

南田さんは、この義父を昭和35年から14年間、自宅で介護しました。

本に著者の年齢がないのでおぼろげな私の記憶をたどると、南田さんは昭和8の生まれではなかったかと思いますが、そうすると、なんと彼女がうら若き27歳から41歳までということになります。

舅は、晩年は痴呆症も始まって仕事場から帰宅すると大便のついた一万円札を部屋に散乱させていた日もありました。

ブザーを鳴らしても誰も自室に来ないことに腹を
立てた義父の抗議だったのですが、この本は「甘い香水の匂うスタジオと、思わず吐きそうな汚臭のする部屋」の往復をした南田さんの14年間の回顧録です。

南田さんは、最初は自分で介護しようとは思っていませんでした。プロの介護人を頼んだこともありました。でも、その人が語尾を上げ、幼児を諭すように話すことに義父が腹を立てたことと、南田さん自身も無神経に介護する人に月々三十万円近い費用を払うとに納得いかなかったので辞めてもらって、その分の費用を運転手さんとお手伝いさんに追加支給して、手伝ってもらうことになりました。

嫁である南田さんが献身的に介護する一方で、「良い意味でも悪い意味でも女優」であった義母、マキノ智子さんは、夫の看病をすることができませんでした。デパートなどに出かけたときは必ずお土産を忘れない母でしたが、おむつを替えたりというような介護は最後までできませんでした。

そんな母と南田さんを比べて南田さんを讃える週刊誌の記事がたくさん出て、言葉にはしないけれど二人の間には気まずい空気がありました。二人の板挟みになった夫の長門裕幸さんが言った言葉は、
「おふくろか洋子のどちらかを崖に突き落とさなければならなくなったら、オレが飛び込む」

「おふくろは長いこと女優をしていたから、女優的な神経の持ち主なんだ。だけでオレのおふくろには間違いない」

この言葉を聞いた南田さんは「なにかすーっと余分な力が抜けていくような感じ」がしました。

*--引用開始---------------------------------------

もうこのことで長門を責めたり、彼の神経をすり減らしてはいけないと思いました。長門を責めても問題の解決にはならないし、それで彼が傷つき、私も後悔するのだったら何もいいことはありません。二人の仕事にもマイナスになるだけです。

「あーもうやめたっ。どうせやるんだったら、愚図愚図と文句言うんじゃないわよ」と私は私自身に言い聞かせていたのです。

-------------------引用終了(P.26-27より引用)---*

あるとき夫が、選挙に夢中になりましたが、南田さんは夫婦といえどもイデオロギーは別と言って、候補者の応援演説を拒否しました。そのとき結婚以来初めて暴力を振るわれ、結果は鼓膜破裂。

医者が怒って電話を入れると、長門さんは「すまなかった」と素直に謝りました。

南田さんは、夫が選挙に熱を入れはじめてから夫との間に霞のように漂っていたわだかまりが、その一言で「一陣の風絵が吹き抜けるように消えていた」(P.36)そうです。

(アンビリーバブー...by私)

介護者の負担を軽くするための介護用ベッドもなかった当時は何から何まで人力でした。その中で南田さんは「シーツ、タオル、ビニールのサンドイッチ作戦」を思いつきました。

義父は、夫や義弟の津川雅彦さんが車椅子を押すと実にうれしそうでした。南田さんはその笑顔が自分へのものとは別の種類であると感じました。

介護もなにもしなくても「病人にとってはやはり我が子や肉親の愛情が最大の支えなのです。」「介護ができない子どもは、せめて療養している親と話すこと、それが最大の親孝行なのですから。」(P.74-75)

南田さんが「介護をしているのはこの私なのよ!」と思わないでいられたのは、逆の立場を体験していたからでした。

実の父母は兄弟のお嫁さんたちが介護してくれており、
南田さんが行くと、お母さんはそれは喜んでくれました。

そんなとき、お嫁さんたちは微笑ましい表情で見つめてくれていて、「介護をしているのは私なのに」などという表情はおくびにも出しませんでした。南田さんはそのときのことを今でも感謝しているそうです。

南田さんの実のおばあちゃんは、南田さんに数々の言葉を残してくれました。介護をしていたときに、たびたび思い出されて南田さんを支えてくれた言葉は、

「人間、非凡に生きるのはやさしいのよ。だけど、平凡に生きるのは辛抱がいるし、とても難しいことなの」(P.79)

「自分を客観視する目と、自分を抑制する心を持ち、そのバランスを取らないと平凡にはいきられないと、おばあちゃんは言いたかったのでしょう」

しかし、そんな教えが自分の「つっかえ棒」になっていたことさえ、当時は考える余裕がなかったそうです。

ある日、家でボヤ騒ぎがありました。いち早く気づいたのは義父でした。ブザーを押して知らせてくれたので、幸い大事に至りませんでした。

「すごい、お父さん。ありがとう」

そう言ったときの義父の嬉しそうな顔。頼りにされるということが、いかに人間を生き生きとさせるのかあらためて思い知りました。

義父は臨終のとき、親族や親しい人が集まった病室の中ギョロッとした目で、一人一人の顔を見ていました。
誰かを捜すような目つきだったので、

「お父さん、ここにいますよ」

南田さんが声を掛けると、一瞬目があったあと、ゾクッとするような冷たい無視するような目つきでした

夫や義弟が声を掛けても同じでした。義父は誰を探していたのか?

義父が探していたのは、主治医でした。すがるような目で先生を見つめていた義父の心にあったのは、死への恐怖ではないかと南田さんは感じています。

みなが号泣するなか、南田さんは一滴の涙も出ませんでした。まるで目頭が熱くならなくて、自分自身でも薄情なのかと思いましたが、「ごくろうさま」という気持ちが強かったのでした。

医者から「洋子ちゃん、最後にもうひと仕事」と言われて、義父の鼻の穴、耳の穴、肛門に綿を入れました。
・苦しかったとき何も聞かずに美味しい食事に誘ってくれた京まちこさん(P.124)

・若くして結核を患い生涯仕事につくことのなかった博学の実兄(P.128)

・実母(P.139)
南田さんの言葉で語られる近しい人々はみんな素敵です。

南田さんが奮闘している間、長門さんがどうしていたかというと、プロダクションやステーキハウスを倒産させて大借金を作ったり、香水をつけてもクレゾールの匂いの消えない妻にショックを受けて浮気したり、麻雀に凝って二日、三日と徹夜したり。どうして離婚しなかったのか。

南田さんは夫の言葉を、文字通りに受け取りません。

「うるさい」という夫の言葉を「わかったよ」と同義語と理解してしまいます。

「小さな不幸はちょちょいと消しゴムで消せるもの」

彼女がこんなふうに考えるようになったのは、自分自身の命の危機を乗り越えた経験からでした。昭和31年、願ってもない役で主役が決まった矢先に腸のポリープが見付かって大手術。手術の途中で機械が故障して縫合して、手術をやり直すというハプニングがあり、一時はもうダメなのかもとあきらめかけました。しかし、手術はその後、無事終了。南田さんは、それを契機に大きく変わりました。

手術を終えて「わあー、生きていた。うれしいー!」

と心底思うようになってから、それまで目にも留めなかった事柄に目が向かうようになりました。その心の目が他人を許せる自分にしてくれました。いま彼女は色紙を頼まれると、

「小さな優しさ、小さな思いやり、小さな勇気」

病気をする前は、「小さな」とは書きませんでした。

*--引用開始---------------------------------------

 少々、無理をしても優しさと思いやりと勇気を大切にしたい、と目をつり上げていたのが昔の私だったのです。

でも、病気をして以来、私は無理をしてまで優しさや
思いやり、勇気を発揮する必要はないと考えるようになりました。

本当にこれらを大切にしたいのなら、むしろ無理をしないほうが効果的であるということに気づいたのです。

-----------------引用終了(P.167-168より引用)---*

女優と介護の両立の日々にあっては、頑張って無理をしなくては越えられないハードルもありました。それでも、この「小さな」という精神は支えになりました。

南田さん夫婦には子どもがありません。若いときに大病をした南田さんは、危険を冒してまで子どもを設ける決心が付きませんでした。でも、夫がどう思っているのか知りたくて三十年ぐらい前に聞いたことがありました。

「これからも私だけで辛抱できる?」

長門さんの答えは、「おれはとにかくお前だけでいいとか何とか言うのではなく、お前でなければ困ると思っている。

だから、終生オレの妻でいてほしい」

南田さんは自分自身が老いに向き合う年齢が来たいま、身体の修理すべきところは早めにお医者さんに直してもらい、経済的な準備を怠らないようにしなければいけないと考えています。

普通の夫婦以上に山あり谷ありの結婚生活にも関わらず南田さんが離婚しなかったのは、自分が異性と寄り添って生きないと生きることができない性格だとわかったからだそうです。

彼女のこの考えに大きな影響を与えたのは、実母でした。

実父は終生定職を持たず、女性関係も多くて、でも母は父が大好きでした。

ある日、線路際の道をまだ幼い南田さんの手を引きながら歩きながら母が、「男と女ってさあ、結局この線路みたいなものなのよね。

一生、交わることのない平行線なのよ」(P.181)

南田さんも、「夫婦は赤の他人」夫と自分は、血も育ちも違うのだから、どこまでいっても結局は交わることはないだろうと考えています。

「それを現実と受けとめて、果てしなく続く線路を二人で手を添え合って歩いていけたらいいのではないでしょうか。」(P.182)

人間が他人にすることは誰にとっても良いと言うことはないのかもしれません。義父の介護を懸命にすればするほど、義母に良心の呵責を感じさせていたことを悩んだこともありました。

「他人からどう思われようと、自分の信ずるようにやればいい」と、自分が自分に語りかける言葉を聞いてふっ切れました。

「悩んでいてもしょうがない、やることをやればいいんだ」(P.186)と、いつ果てるともしれない介護の日常を14年間も全うしたんですよねぇ。

義父の介護の経験は、自分の老後への貴重な遺産と評価しながらも、やむにやまれぬ気持ちで体験を記したのは、「愛する男性の親、それも痴呆になりかけている親を介護することとはどういうことなのか、その一端をくみとっていただければ・・・(中略)・・・私の場合は女優という仕事をしていたからこそ、介護という厳しい環境を乗り切れた面もあります。

現在、専業主婦でなおかつ身内の介護をしている方はもっともっとたいへんなはずです。」(P.189)


以上、ネットより。

わたしは、思う。結局、長門裕之の結婚は、南田洋子さんへのある意味で、ドスメティックバイオレンスの日々だったのでは。

その点、南田洋子さんの人間性のすばらしさに頭が下がる。

ネットの話しだが、

南田さんは、この義父を昭和35年から14年間、自宅で介護しました。

本に著者の年齢がないのでおぼろげな私の記憶をたどると、南田さんは昭和8の生まれではなかったかと思いますが、そうすると、なんと彼女がうら若き27歳から41歳までということになります。

とある。






南田洋子さんは、長門裕之の父親を、27歳~41歳の女盛り、女優としても一番輝いている時に、介護生活をしている。
(1974年に介護した義父が、逝去する。)



長門裕之は、「1985年11月に『洋子へ』(データハウス)を出版している。

南田洋子さんの52歳頃の話しだ。女性として更年期で苦しい時に、残酷なことをしている。
いったい全体、どういう人間性の持ち主だろう?

自分の実の父親の介護で、疲労困憊して頑張った妻に感謝の意を示すのではなく。

本人は、4年間献身的に介護したと言っているが、

ネットでは、
「舞台から帰ってきたら 台所で嘔吐し倒れている 妻を発見した ということは ベッドからお台所まで 歩いていかれて 嘔吐なさったわけです。」
以上のようにある。

また、こういうこともあったが、
「その後長門本人より、南田の病状について会見を行う。「意識は行ったり来たり。このまま植物状態になったらどうしよう、とも考えていた」と、長門は涙ながらに苦しい心境を語った(その後南田は4月18日に一旦退院していた)。 」

これって、何だろうね?
こんなに、愛している言っていながら、自分は、舞台にたち続けている。そして、南田洋子さんの死に目に立ち会っていない。

わたしが、テレビを見て、非常に違和感を覚えたのがある。それは、長門裕之が南田洋子さんに、キスをしようとした時に嫌がったということである。

この嫌がったことの中に、南田洋子さんの長門裕之への本音があったと見ている。

もう、彼女は、精神的に長門裕之を受け入れていなかったのだ。


ネットの情報に
南田さんも、「夫婦は赤の他人」夫と自分は、血も育ちも違うのだから、どこまでいっても結局は交わることはないだろうと考えています。

「それを現実と受けとめて、果てしなく続く線路を二人で手を添え合って歩いていけたらいいのではないでしょうか。」(P.182)

こう言っている。

はっきり言って、南田洋子さんは、長門裕之について、完全に愛想を尽かしているのである。

彼女が、なんでこんなにくだらない男と夫婦になったのか、辛くてしようがない。

彼のテレビでの振る舞い、わたしは、アリバイ作りにしか見えない。

わたしは、声を大にして、叫びたい。


長門裕之よ!

認知症の妻を支えて(~洋子への恩返し~)」というテーマで、
老老介護をやってきたなんて、講演をしたりしているが、偽善者、恥を知れ!

このように肝機能障害になり惚けたのは、あなたの身勝手な人生に疲れはててしまったせいだと、わたしは、解釈している。

やりたい放題の人生で、妻の人生を収奪し、廃人にした恥を知れ。

とにかく、介護という舞台から、消えて貰いたい。

もし、すこしでも懺悔の念があるなら、人目を忍んで、これからの人生を隠れて生きて貰いたい。




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