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リタイアーのよもやま話

三原氏、八紘一宇は大切な価値観

2015-03-17 22:05:39 | 政治

三原氏、八紘一宇は大切な価値観

 

 自民党の三原じゅん子参院議員(50)
は16日の参院予算委員会で、日中戦争
から第2次世界大戦にかけて、当時の政
府が用いた「八紘一宇」を、「日本が建
国以来、大切にしてきた価値観だ」と訴
え、今後の日本のあるべき姿として紹介
した。17日付のブログでも、重ねて言
及した。

 八紘一宇には「世界を一つの家とする」
という意味がある。戦前・戦中には、天
皇を中心とした日本の海外進出を正当化
するスローガンとされた経緯がある。

以上

 

「日本が建国以来、大切にしてきた価値
観だ」って言うが、借金だらけの倒産し
そうな日本で、「世界を一つの家とする」
そんな大層なことをぶちあげる頭は、ど
ういう構造なのだろう。

格差社会で、国民を食わせられなくなっ
た国に、「世界を一つの家とする」なんて、

恥ずかしく、よく言えたものだ。

 

ところで、これに関連して面白い本が
あった。

バカが多いのには理由がある
橘玲著 集英社

かなり、長い引用になるが、いい資料
だと感じ入ったので取り上げてみた。

以下、橘玲氏の著書より。

 

唐の誕生が「日本」を生んだ

 九州に渡った弥生人は稲作に適した
土地を求めて瀬戸内海と日本海を東へ
と進み、吉備(岡山県・広島県東部)
や出雲(島根県)に大型の墳墓を残し
ました。とりわけ畿内(大阪・奈良・
滋賀)は瀬戸内海と琵琶湖、日本海側
の若狭湾を結ぶ交通の要衝で、稲作に
適した河内平野が開け、琵琶湖から東
に進んで峠を越えれば東日本(関東・
東海)へと至るため、古米より有力な
氏族が覇を競ったと考えられています。

 そのひとつが「倭(ヤマト)」で、
4世紀中頃から中国大陸と交流を持ち、
東晋や南朝に朝貢した記録が残ってい
ます。当時の中国大陸は漢帝国滅亡後
の長い混乱期で、さまざまな王朝が興
ってば消えていました。
 その中国を300年ぶりに統一した
のが隋ですが、実質2代、40年足らず
で唐に取って代わられます。618年
にこの巨大な統一王朝が誕生したこと
が、朝鮮半島と日本に大きな影響を与
えました。

 当時の朝鮮半島は高句麗、新羅、百
済の3国が鼎立しており、百済と高句
麗に南北から挟撃される立場の新羅はい
ち早く唐に朝貢して属国となる道を選び
ます。
それを受けて唐は高句麗を攻め、次いで
新羅を従えて百済に迫ります。追い詰め
られた百済が倭国に支援を求めたことで、
663年に白村江で唐・新羅連合軍と百
済・倭国連合軍が激突します。この戦い
に大敗したことで百済は滅亡し、倭国は
朝鮮半島への足がかりをすべて失うこと
になりました。

 この敗戦は倭国に激しい動揺を招きま
す。大帝国である唐との圧倒的な軍事力
の差を見せつけられたことから、倭国の
指導者たちは国号を「日本」と定め、「天
皇」を置き、唐と外交交渉ができるよう。
グローバル化”を進めたのです(岡田英
弘『日本史の誕生』ちくま文庫)。

 中華帝国の朝貢・冊封体制では、中華
に属さない蛮族(東夷・西戎)の王は皇
帝に貢物をして服従の意を示し(朝貢)、
見返りとして贈り物を受けます(冊封)。
「皇帝」を名乗ることが許されるのは中
華帝国の支配者(天子)だけですが、当
時の日本は唐と国交を結ぶにあたり、皇
帝に服従する「王」ではなく同格の「天
皇」の号を用いました。これは対内的に
は唐と対等であるとして王権の権威を示
そうとしたものですが、もちろん唐では、
日本は東夷の属国のひとつと扱われてい
ました(この倭国が天皇家につながるか
どうかは歴史家の間でも諸説あります)。

万世一系-日本にしかないもの

 中国大陸に隋・唐という統一王朝が
成立すると、多くの知識人が遣隋使・
遣唐使として海を渡り、仏教や儒教、
道教など中国の最新思想(グローバル
スタンダード)を日本にもたらします。

それは飛鳥・奈良時代の支配層にとっ
てとてつもない衝撃でした。

 中国では紀元前17世紀の殷の時代
から文字の記録が残り、孔子は紀元前
6世紀の聖人で、漢王朝が繁栄したの
は紀元前200年から紀元後200年
にかけてでした。その長い歴史のなか
で、中国には膨大な文書・記録が残さ
れています。それに対して日本には、
8世紀まで王権の正統を示す歴史書す
らなかったのです。

 こうして『日本書紀』と『古事記』
の編纂が国家事業として開始されまし
た。そのなかではじめて天孫降臨の神
話と万世一系の物語が登場し、戦前ま
ではこれが。〝史実〟とされてきたの
ですが、いまでは「日本神話」のほと
んどが中国の史書を原典としているこ
とがわかっています。

『日本書紀』も『古事記』も、唐から
帰国した知識人や渡来人たちが天皇や
貴族(畿内の豪族)の権力の正統を内
外に示すためにつくったフィクション
でした。

 『日本書紀』『古事記』編纂当時の最
高権力者は藤原不比等で、自分の孫に
あたる首皇子(聖武)を天皇位につけ
ようとしていました。この野望を実現
するためには、文武天皇(不比等の娘
の夫)から首皇子への長子相続が唯一
の正統であり、その皇統が神(天孫)
へとつながることが示されなければな
りません。このようにして、「天孫降
臨」「万世一系の神話」が創造された
のです
(大山誠一『天孫降臨の夢』NHKブ
ックス)。

以後、省略。

(省略するには、惜しい内容だったが)

 

結局、八紘一宇の正確な理解は、この
ような歴史的背景を踏まえなければ
明らかにならないといえよう。

『日本書紀』も『古事記』も、唐から
帰国した知識人や渡来人たちが天皇や
貴族(畿内の豪族)の権力の正統を内
外に示すためにつくったフィクション
でした。

これを自分なりに、受け止めると、
天皇や貴族(畿内の豪族)が、他の豪
族に対して、唐から帰国した知識人や
渡来人の力を借りて、自分の権力の理
論武装をして、押しつけた。というよう
な理解が成り立つのではなかろうか。

だから、ここでいう「八紘」は、当時の
日本国内(?)の隅々までという理
解が、相当ではなかろうか。

だから、

八紘一宇には「世界を一つの家とする」
という意味がある。戦前・戦中には、天
皇を中心とした日本の海外進出を正当化
するスローガンとされた経緯がある。

というが、
このような理解の仕方は、本来は、詭弁

だろう。

「世界を一つの家とする」ではなく、

「バラバラな国内を一つの家とする」ため
に、天皇や貴族(畿内の豪族)の権力を
認めよ。と思想闘争をぶち上げたにすぎな
い。 

というのが、本来の理解のあり方ではなか
ろうか?
である。

自民党の三原じゅん子参院議員、スタンド
プレーするのはいいが、しっかりと理論武装
が必要だろう。 

しかし、1964年〈昭和39年〉生まれでは、こ
の言葉、知らないかも知れないな?

せっかくだから、この際、八紘一宇の言葉に
ついて、国民の理解が深まればと思うのだ
が?

 


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