人を見抜く技術 桜井章一 講談社+α文庫
という本を読んだ。けっこう面白い文章があった。
これを読んで、自分なりに、恥じ入る気分になるものがあった。
図星というかんじもして、反省させらる。
以下、本の抜粋である。
〝酔い癖〟が人を愚鈍にする
酒を飲んですぐに酔ってしまう人がいる。
酒が好きなのはいいが、とくにアルコールに弱
いというわけでもないのに、酒に呑まれてすっかり記憶をなくしてしまったりする。
こういう人は、普段も酒以外のなにかに酔っていることが多い、
しかし、こうした人に限った話ではない。
人間はみんな、なにかに酔って生きざるを得な
い面がある。
女に酔う、金に酔う、仕事に酔う、趣味に酔う。
酒を飲むことだけが酔いに繋がるわけではない。誰にでも、こうした広い意味での〝酔い癖〟があるのだ。
〝酔う〟というのは、自分のことがわからなくなったり、自分の存在すらも消えてしまうほ
どの状況になることだ。
いわゆる〝目分を見失う〟という状態は、多かれ少ながれ、誰の身にもあることではないだろうか。
日常の生活において、ずっと連続して〝自分〟や〝時間〟を意識しているわけではない。誰にでも、ぽつんぽつんと埋没した時問、自分をあまり意識していない時間かあるはずだ。
現代社会には、人間を酔わせるさまざまな要因が存在している。
一生懸命生きること、がんばることが大切とされている世の中で、なにかに酔っている人というのは、じつはたくさんいるのだ。
私のまわりにも〝酔っぱらい〟がたくさんいる。
仕事に酔っている人、金に酔っている人、知識に酔っている人。権力に酔い、自国を誤った進へと進めてしまう国の長も、世界のいたるところに存在する。
がんばっている人ほど酔っている人が多いのも事実だ。
そして、その誰もが、自分が酔っていることに気づいていない。しかも、往々にして酔っぱらっている状態を「偉い」と思っているから始末が悪い。
私にしても、実際に酒で酔ったこともあるし、船で酔ったことだってある。いずれにして
も、この私も、やはり目常生活でなにかに酔ったことがあるということだ。
ただ私の場合、こだわりはしてもけっして囚われないという生き方を貫いてきだから、酔いも軽度で済んだのだと思う。
私は、ものごとにはこだわる。こだわらないと選別できないし、方向性も決まらないから
だ。
しかし、そのときに囚われるという感覚にはならない。酔う人は囚われるから酔ってしまう。
「こだわる」と「囚われる」は同じようなものだけに使い分けは難しいところだが、ものごとにこだわってもけっして囚われてはいけないのだ。
柔軟性を付加したこだわりを持ち、囚われに繋がる固定観念はできるだけ消し去るようにする。
ものごとには表があり裏がある。こだわりを持ちながらも、その両面を見ていくことが犬切なのだ。
車酔い、船酔いは別にして、酔っているときはたしかに気持がいい。しかしその逆で、酔わない気持ちよさというのもちゃんとある。
私の場合の酔わない気持ちよさとは、自分を 覚醒させること。
〝酔い〟は人を鈍感にするが、〝覚醒〟は人を冴えさせる。
かつて私が、裏麻雀の世界で代打ちをしていた頃、大一番の前になると飲まず食わず、さらに寝ずという生活をくり返していた。別に自分を追い込むためにやっていたのではない。
体が自然とそうなったのだ。眠くならないから寝ないし、腹が減らないから食べない。
今、考えると、本能的に体が反応していたのだと思う。
自分を覚醒させるために。五感を冴えさせるために。
以上、抜粋である。
内容的にいって、ほんとうに、恥ずかしくなること、多々ありである。
という本を読んだ。けっこう面白い文章があった。
これを読んで、自分なりに、恥じ入る気分になるものがあった。
図星というかんじもして、反省させらる。
以下、本の抜粋である。
〝酔い癖〟が人を愚鈍にする
酒を飲んですぐに酔ってしまう人がいる。
酒が好きなのはいいが、とくにアルコールに弱
いというわけでもないのに、酒に呑まれてすっかり記憶をなくしてしまったりする。
こういう人は、普段も酒以外のなにかに酔っていることが多い、
しかし、こうした人に限った話ではない。
人間はみんな、なにかに酔って生きざるを得な
い面がある。
女に酔う、金に酔う、仕事に酔う、趣味に酔う。
酒を飲むことだけが酔いに繋がるわけではない。誰にでも、こうした広い意味での〝酔い癖〟があるのだ。
〝酔う〟というのは、自分のことがわからなくなったり、自分の存在すらも消えてしまうほ
どの状況になることだ。
いわゆる〝目分を見失う〟という状態は、多かれ少ながれ、誰の身にもあることではないだろうか。
日常の生活において、ずっと連続して〝自分〟や〝時間〟を意識しているわけではない。誰にでも、ぽつんぽつんと埋没した時問、自分をあまり意識していない時間かあるはずだ。
現代社会には、人間を酔わせるさまざまな要因が存在している。
一生懸命生きること、がんばることが大切とされている世の中で、なにかに酔っている人というのは、じつはたくさんいるのだ。
私のまわりにも〝酔っぱらい〟がたくさんいる。
仕事に酔っている人、金に酔っている人、知識に酔っている人。権力に酔い、自国を誤った進へと進めてしまう国の長も、世界のいたるところに存在する。
がんばっている人ほど酔っている人が多いのも事実だ。
そして、その誰もが、自分が酔っていることに気づいていない。しかも、往々にして酔っぱらっている状態を「偉い」と思っているから始末が悪い。
私にしても、実際に酒で酔ったこともあるし、船で酔ったことだってある。いずれにして
も、この私も、やはり目常生活でなにかに酔ったことがあるということだ。
ただ私の場合、こだわりはしてもけっして囚われないという生き方を貫いてきだから、酔いも軽度で済んだのだと思う。
私は、ものごとにはこだわる。こだわらないと選別できないし、方向性も決まらないから
だ。
しかし、そのときに囚われるという感覚にはならない。酔う人は囚われるから酔ってしまう。
「こだわる」と「囚われる」は同じようなものだけに使い分けは難しいところだが、ものごとにこだわってもけっして囚われてはいけないのだ。
柔軟性を付加したこだわりを持ち、囚われに繋がる固定観念はできるだけ消し去るようにする。
ものごとには表があり裏がある。こだわりを持ちながらも、その両面を見ていくことが犬切なのだ。
車酔い、船酔いは別にして、酔っているときはたしかに気持がいい。しかしその逆で、酔わない気持ちよさというのもちゃんとある。
私の場合の酔わない気持ちよさとは、自分を 覚醒させること。
〝酔い〟は人を鈍感にするが、〝覚醒〟は人を冴えさせる。
かつて私が、裏麻雀の世界で代打ちをしていた頃、大一番の前になると飲まず食わず、さらに寝ずという生活をくり返していた。別に自分を追い込むためにやっていたのではない。
体が自然とそうなったのだ。眠くならないから寝ないし、腹が減らないから食べない。
今、考えると、本能的に体が反応していたのだと思う。
自分を覚醒させるために。五感を冴えさせるために。
以上、抜粋である。
内容的にいって、ほんとうに、恥ずかしくなること、多々ありである。