知的幸福の技術
自由な人生のための40の物語
橘玲
幻冬舎文庫
を読んだが、印象的な話があった。
以下、引用。
自分探しの旅の終わり
大学の図書館で奇怪な哲学用語に満ちた分厚い本を手に
したことがある。
暗号の如きその書物はほとんど理解不能だったが、「人は
常に他者の承認を求めて生きている」と述べたくだりは
なぜか記憶に残った。
それから十年後、バブルの最盛期に出会った地上げ師は
「あんたもダニやウジ虫以下の人間になればカネしかないと
わかるさ」と言って、夜ごと銀座の高級クラブで花咲か爺さん
のように一万円札をばら蒔いていた。
彼は薪の代わりに暖炉にくべるほどの札束を持ち歩いていたが、
大して幸福そうには見えなかった。
その時ようやくヘーゲルの言葉が理解できた。
彼は金で買えるすべてのものを持っていたが、他者の承認だけは
得られなかった。
風俗業や高利貸しを濡れ手で粟の商売だと批判する人がいる。
だが参入障壁が低く利益率の高い商売が目の前にあるのなら、
悪口を言うより自分で経営した方がずっといい。
優秀な企業家は成功を手にし、業界が健全化すれば消費者にも
利益をもたらすだろう。
儲かる商売に参入者が少ないのは、それが他者の承認を得ら
れない汚れ仕事と見なされているからだ。
欲望という底なしの需要に対して供給が限られれば、当然そこに
超過利潤が生まれる。
違法だから儲かるのではなく、その背後には経済的な必然がある。
他者の承認を得るもっとも簡単で確実な方法は、自分の価値観
を他者と同じにすることだ。
女子高生の間で流行したルーズソックスのように、成熟した大衆
社会では、人々は他人が望むものを手に入れようと行動する。
不恰好な靴下は、マイホームやマイカーや学歴や肩書など、私たち
の社会で価値があるとされるどんなものにも置き換えられる。
そこでの個性とは、傍から見ればどうでもいいような微細な差異を
競うことだ。
ヘーゲルは、国家という共同体から承認を得ることで人は幸福に
なれると説いた。
ブランドの魅力は価値観を共有する世界規模の消費共同体に参加で
きることにある。
携帯電話の出会い系サイトが入気を博すのは、実生活では望み得な
い承認を仮想空間の共同体が与えてくれるからだろう。
忠誠の対象は違っても、誰かに認められたいという人間の行動は変
わらない。
ところで、あなたの欲望が他人の欲望であり、あなたの幸福が
他人の幸福だとすれば、あなたはいったいどこにいるのだろう?
豊かな社会では「自分探し」の旅が流行するが、たいていの場合、
探すべき自分は最初から存在しない。
人は誰からも承認されない人生に耐えることはできない。
一方で、他人の欲望を生きる人生は破綻を免れないだろう。
大衆の欲望は無際限で、渇きは永遠に癒されない。
幸福のかたちを見失う理由は、たぶんここにある。
以上。
先の文章を抜粋して、以下のようにつなげてみた。
ヘーゲルは、国家という共同体から承認を得ることで人は幸福に
なれると説いた。
他者の承認を得るもっとも簡単で確実な方法は、自分の価値観
を他者と同じにすることだ。
ところで、あなたの欲望が他人の欲望であり、あなたの幸福が
他人の幸福だとすれば、あなたはいったいどこにいるのだろう?
豊かな社会では「自分探し」の旅が流行するが、たいていの場合、
探すべき自分は最初から存在しない。
このような文章を投げかけられると、一理があり、目眩がして
しまう。
つまり、自己が実現することはない。と、突きつけられている
ようだ。
ところで、
自己実現の追求が、自己と他者との違いが、より明確化することに
よって成り立つはずである。
赤は、黄色、緑、黒等の色との違いがあることによって、それらの
色を否定することよって、赤になる。
ある意味で、個が個になることは、孤独になることが必然である。
ここに、個の追求は、ニヒリズムに到達してしまう。
さて、彼の論理は、
他者の承認を得るもっとも簡単で確実な方法は、自分の価値観
を他者と同じにすることだ。
ところで、あなたの欲望が他人の欲望であり、あなたの幸福が
他人の幸福だとすれば、あなたはいったいどこにいるのだろう?
とある。
となることも事実だ。
どの道をたどっても、自己の追求は、ニヒリズムに到達してしまうとは。
私は、無神論者だが。Oh, my god! である。
ネットをあたってみた。
引用1
新宮一成氏の『ラカンも精神分析』によると、まさに、自分と
いうのはカラッポである、というようなことが書いてあって、
なんと自分の行動というのは他者の欲望のあらわれなんだそうです。
私」ではなくて「私が見い出すあなたの中の私」という感じなのでは
ないでしょうか。
引用2
忠誠の対象は違っても、誰かに認められたいという人間の行動
は変わらない。
以上。
ところで、あなたの欲望が他人の欲望であり、あなたの幸福が
他人の幸福だとすれば、あなたはいったいどこにいるのだろう?
豊かな社会では「自分探し」の旅が流行するが、たいていの場合、
探すべき自分は最初から存在しない。
人は誰からも承認されない人生に耐えることはできない。
一方で、他人の欲望を生きる人生は破綻を免れないだろう。
大衆の欲望は無際限で、渇きは永遠に癒されない。
幸福のかたちを見失う理由は、たぶんここにある。
となると、近代の個人主義の追求って、わたしたちが
戦後教育の中で、目指した「個の確立」って、何だったん
だろう。
それにしても、
今や、自分の欲望は、誰かが、欲望を満たすための手段となる
ことを通して、満たされる時代だ。
わたしたちの存在は、誰かの存在の追求の手段でしかない。
わたしは、わたしでなく、他者のかたまりでしかない。
わたしを求めれば、求めるほど、わたし、わたしから遠ざかり
他者になろとしている。
わたしたちは、自由を追求すれば、するほど、他者の奴隷に
陥っていく。
自由を追求すればするほど、自由から遠ざかっていく。
そこで、橘氏は、いかように生きているのかと問いたい
のだが、
「いつの日かその扉を開けてみたい」と言っており、
彼の人生の指針のようなものが語られているが、ここで、
書きつらねてきたことに、つながる話は出てこない。
豊かな社会では「自分探し」の旅が流行するが、たいていの場合、
探すべき自分は最初から存在しない。
と言ったが、このことはどうしているのだろう。
このことに耐えて生きることなのか。どうなんだろう。