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リタイアーのよもやま話

寝たきりの患者

2009-08-23 22:11:07 | 介護&エトセトラ
最近、父親のベットの反対側に、部屋替えで、患者が移動してきた。

すると、介護ベットの柵を揺らし音をたて、うるさくてたまらない。かなり、閉口してしまった。

なにやら、さかんに、口走る。よく、聞くと家に帰りたいようだ。

ベットに寝たきりで待たされっぱなしだというのである。

本人は、診察をしにきたくらいに思っているようで、なぜ帰宅できないのだと、いうことである。

当人は、入院しているという認識は、全くないようである。寝たきりの状態であるのも理解していないようだ。

家に帰ったからといって、寝たきりであるという理解はない。

それから、数日経って、黙ったきりになった。
誰に言っても、適当にあしらわれて、いつまでも、埒があかないので、疲れてしまったのかも知れない。

一昨日、昨日の二日間、一言もいわず、身動きもせずに、静まり返っていると、それはそれで、目立ってしまう。

すると、側にいる者として、当人の胸をうちを、いろいろと推測してしまうのだ。

寝たきり病院で、経管栄養の措置をされたことは、現場復帰は、不可能ということを宣告されたのと同じことである。

だから、寝たきりになって、若干の意識が働いている人にとって、この自分が現実にあることは、「死」を受け入れざるを得ないことになる。。
それは、父親の現実を承認することでもあるので、身内として、辛いものがある。

現役時代、足元にも及ばなかった父親が、突然に自分自身で何もできなくなってしまったのだ。

わたしにとっても、「まさか」の出現である。それは、きっと嘘に違いない。とわたしの心のどこかで叫んでいる。

さておき、この現実を強いられるという苦しみは、どのようなものであろうかと、病室の患者をみて、深いため息をついてしまう。

想像もしなかった「まさか」の運命、どのような思いで、現実を受け入れていくのであろうか。

もしかすると、その現実に抗いながら、死を強いられていくのか。

これは、この病院にいる医者・看護士、介護士、そして、見舞いにきている家族にも、いつか訪れるとともに、認めがたい未来でもある。

それからすると、まだ、「ボケ」の方が、周囲は、迷惑するとして、当人には幸せなことである。

蛇足ながら、「介護の歌」なるものがあったが、「千の風になって」の二匹目のドジョウを狙ったようないかがわしさを覚える。

昨日まで、バリバリにやっていた人が、気がついたら、身動きがとれない。

一瞬にして、自ら築きあげた地位・名声、権威・権力、富等全ての称賛が、取り上げられる。
寝たきりになって、自分の肉体の牢獄、ベットという名の牢獄、病院という名の牢獄の三重の牢獄に投げ込まれるのだ。

尿・便も垂れ流しだ。その不愉快さ、耐えがたいことだろう。
ましてや、時間がくると、下半身,時には全身を丸裸にされ,おむつ替えとくる。昨日までの、プライドは無残にも打ち砕かれる。

便秘になれば、強引に浣腸を強いられる。

わたしは、個人的には看護士も介護士も、免許を取得する条件として、同僚の前で、便失禁をして、おむつ替えをされるという経験をするべきだと思う。

痰をカーテルで除去する経験も鼻からの経管食の経験も必要だと思う。

そうでなければ、患者の苦しさや痛み、悲しみを知ることはないし、もしかして、場合にはよっては、医療という名を借りた患者への拷問をしているかもしれないという恐れを持つことはできないと思うからである。

とにもかくにも、「介護の歌」のような、現実を知らない人間が書いたとしか思えない歌が一人歩きするのは、高齢者の医療の現場の真実を覆い隠す。腹立たしい現象だ。

それにしても、いつの日か、訪れるであるかもしれないこの現実、未来において、当事者となった場合、わたしは、耐えうるだろうか。

そう思うと、いっそ、「ボケ」しまうか。はたまた、早々と自殺するしか、逃げようがないのかと、思い詰めてしまう。