消費期限終了

リタイアーのよもやま話

尾崎豊 - 僕が僕であるために

2009-08-16 20:39:43 | 音楽
尾崎豊 - 僕が僕であるために



人生の不条理にあって苦しかった時、大晦日の夜遅く、レコード店にいた。すると、心に響く歌が流れてきた。
(どういう訳か、この地域、大晦日の日、12時近くまで、商店街が開店していた。)

それは、尾崎豊の「太陽の破片」だった。この歌を聴きながら、涙が止まらなかった。

ただ、「15の夜」、「卒業」を聴いた時は、ショックだった。

この内容はタブーで、表に出てこないものだと思っていた。

これを歌えるということがショックだった。

しかし、これは諸刃の剣でもあるのだ。

だから、彼が26歳で死んだのは、わたしは音楽的宿命だと思っている。

彼の歌は、その音楽的内容からして、一生歌い続けることは不可能なのだ。

歳を重ねるごとに、彼の音楽が、彼の人生を蝕んでいくのだ。

だから、彼が早死にしたことは、ミュージシャンとして、幸せな結論だったと思っている。




わたしたちは、かつて、70年代に「権力の否定」叫んだ。
叫べたことが、不思議だった。
それができるとは、思わなかったのだ。

しかし、わたしたちは、学生時代にそれが可能だということを知った。

しかし、それは、諸刃の剣でもあった。

わたしたちも、年を経ることにより、その否定した権力の側に立たざるを得ない羽目になっていくことに気づいたのだ。

わたしは、いつも、そのジレンマの中で、生きてきたと思う。

今は、世紀末だ。

わたしは、この世紀末は、わたしたちの世代の時代精神のたどり着いた末だと思っている。

この世紀末を思った時、わたしたちの世代が、その諸悪の根源だったのではと、最近思っている┄┄。



それはさておき、今日は、どういうわけか。

尾崎豊を検索してみた。

すると、「僕が僕であるために」のタイトルが目について、聴いてみることにした。

本来なら、この曲を最初に聴いておくべきだったと、今更ながら思った。
なにしろ、「15の夜」、「卒業」があまりにも、ショックだった。
それで、彼の他の作品を捜して、聴くなんて、思いつかなかった。

それにしても、いい機会だと思った。

というのも、わたしの人生で、彼の歌とオーバーラップしてくる部分があるからだ。

それはそうと、ストイックで硬派の彼の歌詞、彼が歌うからこそ、音楽として成り立つような気がする。

彼が歌った「僕が僕であるために」の演奏で、この演奏が気に入っている。

この演奏があったこと、ラッキーだったと思った。