「父さんが・・・。」
電話の向こうの弟の声が止まった。沈黙の中に、堪え切れずにもれる弟の喉の音が聞こえた。
問い返すのが辛かった。察しはついたが、確認するのが怖かった。
「どうした?」
[入院した。今度は危ないかも・・・。」
「わかった。帰る。あんたは大丈夫?」
「・・・うん・・・。」
実家が遠い事が、これほど辛く感じた事は無かった。
その後、母からの連絡が入った。
「今度は、喪服を・・・。」
「わかった。」
まだ亡くなった訳ではない。それなのに、喪服の準備をと言わなければならない母の例え様も無い悲しさが伝わって来た。
私が帰るまで息をしていて欲しかった。だから、延命措置をと弟に頼んでいた。しかし、母は言った。
「延命措置がどんなに大変な物か知ってる?見ていられないよ。これだけ頑張ったおとうさんに、これ以上の苦しみを与えたくない。自然にしてあげたい。」
異存は無かった。
その夜は、弟が一晩中父に語りかけていたらしい。今までの事、これからの事。静かに、枕もとで一人で語りかけていたと母が言った。
父が健在だった頃、弟はよく父に叱られていた。私には甘かった父だったが、弟には殊更に厳しくあたっていた。おそらく、かなり反発心も持っていただろうが、同じ仕事を始めて、先輩としての父と接するようになり、尊敬するようになったと、いつか話していた。そんな気持ちを順々に語りかけていたようだ。
やっぱり父は待っていてくれた。翌朝早く、私が子供達と駆けつけるまで・・・。その後も、次々と訪れる親戚達を全て無言で迎えて、そして静かに眠った。
いつ眠ってしまったのか、誰も気がつかなかった。呆気ないほど静かだった。そして、信じられなかった。私自身が夢の中に居るようだった。
悲しみが襲ってくるのは、ずっとずっと後になってからだった。
永遠に答えは出ないです。
父は13年以上寝たきりでその後1年7ヶ月病院のベットの上で過ごし亡くなりました。
最後の3ヶ月は人工呼吸器をつけていました。
父の意志を確認しないまま意識がなくなってしまったので1日も欠かさず病院に通っていた母の「どんな姿になっても生きていてほしい」と願う気持ちを思うと延命措置は生きるためのたのみの綱でした。
父のほうはどうだったのか、15年も苦しんだのにまだ・・・もう解放してくれと言いたかったかもしれません。
私たち3人の子供はあの時思っていた事を母には言わないままでいます。
父の出棺の際 それまで涙を見せなかった母がハンカチで目をおさえながら「長い間お疲れさまでした」と父に言葉をかけていたのが記憶に残っています。
な~んて暗い話でごめんなさい。
まぎぃさんのコメントを読んだら思いだしてしまいました。
完全に寝たきりになって6年余り。
気管切開もしていましたし、喋る事も食べる事も出来ませんでした。
それでも安定はしていたのです。
最後の入院は、腸閉塞による急激な病状悪化でした。だから、手の施しようが無く、延命措置というと、心臓マッサージなどの救急医療だったのです。
寝たきりで骨も弱くなっている為、そういう施術をすると、骨折の恐れもあるという事でした。
だから、母は「やめて欲しい。」と言ったのでしょう。
来年には、7回忌を迎えます。でも、やっぱりまだまだ全てを笑って思い出す事は出来ません。
まぎぃさんのお話からすると明るい方のようにおみうけいたします。
我母はいつも年寄りあつかいされて憤慨しているようです。でも実際年寄りなんだから仕方ないのに~と思ってしまうのです。
100まで生きると申しております。
それと共に、精神的な健康にも、そーとー気を使って(?)いるようで、毎日楽しく明るく暮らしているようです。
以前にブログにも載せましたが。現在はぺ様に夢中
時々電話して来ては、韓国スターの話で盛り上がっています。こういう性格の母だから、長い父の看病にも耐えられたのかなと今は、感謝したいです。