インドで作家業

ベンガル湾と犀川をこよなく愛するプリー⇔金沢往還作家、李耶シャンカール(モハンティ三智江)の公式ブログ

インド移住までー天の配剤(2013年度文芸思潮エッセイ賞奨励賞作品)

2017-04-05 20:07:41 | E全集(受賞作ほかのノンフィクション、2017~)
インド移住まで―天の配剤


                                李耶シャンカール


 インドに暮らして、二十六年もの歳月が流れた。長いようで短かったこの期間を感慨を持って振り返るとき、私の脳裡を過るのは、そもそもの移住のきっかけとなったとあるホテルとの出遭いである。
 実名を明かすのは差しさわりがあるので、仮にホテル名を「ニルヴァーナ(涅槃)パレス」としておこう。そう、ニルヴァーナパレスとの邂逅がなければ、インドの東海岸部オリッサ(現オディッシャ)州の聖地プリーへの永住願望は断じて、産まれなかったろう。
 涅槃宮との遭遇は人生の摩訶不思議さに満ちたものだった。今をさかのぼること一九八五年五月、私は快適な宿を求めて浜をうろつき回っていた。人力車の車夫に無理じいに引いていかれた安宿に逗留を余儀なくされていた私は、プリーに長居するつもりで快適なホテルを捜し求めていたのだ。酷暑の盛りで、海は銀のるつぼに溶かしこまれたようなめくるめく光輝を放っていた。
 遮るものもない烈光を避けて私は背後に開けるなだらかな丘陵を下り、人家が疎らに立ち並ぶ地帯に紛れ込んだ。そのときだった。予期せぬ唐突さで、目の前に白亜の美しい館が忽然と顕れたのは。私は我とわが目を疑った。こんなひなびた海辺の町に似つかわしくない、瀟洒な威容がいぶかしさを掻き立てたのである。ふらりとおびき寄せられるままに門をくぐると、石畳の通路の先にほの暗い口を覗かせているアーチに刻まれた、Zという鉄冠が烈日を跳ねて稲妻のように閃いた。
 この館は果たして、ゲストハウスなのだろうか。円柱の林立する洒落たフロントにさらに歩を進めようとした矢先だった。鈍いエンジンの咆哮が轟き渡り、脇を掠め飛ぶ単車に危うく身を弾かれそうになった。間一髪でサドルから逃れ降りた男の長髪が獅子の鬣のように逆立っていた。地に横倒しになったマシンの排気筒からもうもうと白煙が噴き上げている。円柱の足元に怖じけたようにうずくまる異人を認めると、彼は駆け寄り、手を差し伸べた。「アイム・ソーリー」、なまりのない美しい英語で詫びる男の、白いコットンシャツの胸元に覗く膚が妖しい漆黒のきらめきを放っているのが目を射った。
 それが奇しくも、如来という名を持つ男との運命的ともいえる出遭いだった。

 男は、それまで私が旅行者として付き合ってきた物売りや車夫などの下層階級とは一線を画した、上流社会出身の洗練さと優雅さを身に備えていた。最上カースト、ブラーミン出身、母親は州の首相を務めたこともあるほどの地元の有力政治家だった。ウィークデーは州都で母の経営する地方紙のエグゼクティブエディターとして勤務、週末のみオーナーとしてニルヴァーナパレスを管理していた。
 涅槃宮は、元王族の離宮を改装しただけあって、隅々まで贅の凝らされたたとえようもなく美しいホテルだった。天井の高い二層の構造が、周囲の居並ぶ人家群を差し置いて、屋上から長々と真一文字の帯を刷くベンガル海の絶景を提供してくれた。私は客人らしからぬ思い入れで涅槃宮に入れ込むと同時に、その愛着に優るとも劣らぬ入れ揚げようで、館の主に焦がれた。
 天上の美しいホテルを舞台に繰り広げられる恋愛ドラマに、私は酔った。目の前が椰子林のそびえる紺碧のベンガル海、自然の小道具も完膚なきまでに整えられていた。
 毎週末ごとに男は単車を駆って現れた。上流社会の子息がえてしてそうであるように、彼はヘロイン常習者だった。子供を欲する私は、自分が難産の挙句に、産み落とした男の赤子が六本指の奇形だったとの悪夢にうなされるようになる。もの狂おしさは次第に険しくなっていった。閨で男と分かち持つヘロインの幻覚もあったかもしれない。私は涅槃宮に住み着く宮廷娼婦(コーティザン)の霊に取り憑かれているように感じた。王に寵愛されて離宮に囲われたが、お見限りを嘆き、山車祭りで出会った村の若者と通じ、姦通の咎で城塔の牢に監禁された挙句に、牢番の隙を突いて脱出、塔から真っ逆様に身を躍らせたコーティザン、その宮廷娼婦の悲劇に、現世のかなわぬ恋を重ね合わせていたのである。すでに三ヶ月を過ぎて、ラブアフェアにも懶惰の影が忍び寄り始めていた。
 その折、浜で偶然声をかけられた日本びいきの学生に救いを求めるように、恋の悩みを打ち明ける。彼は私のよき相談相手だったが、そのうち予想外の展開で求愛され、日本への駆け落ち結婚を持ちかけられた。追い詰められた私は、最後の賭けに出た。男に真っ向から対決、パーマネントパーミッションがほしいと求愛を突きつけたのだ。しかし、あなたと結婚して永住権が欲しいとの私の含みあるプロポーズは無残にも、男の冷酷極まりない一言で退けられた。「俺はイミグレオフィサーじゃない」と。賭けに敗れた私はインド学生との出奔を決める。が、日本に到着して三ヶ月とたたぬうちに、十二歳も年下の未熟な若者との関係はあっけない終焉を迎える。田舎育ちの野心ばかり大きく実体の伴わぬインド学生は日本社会に適応できず、転落の坂を転げ落ちていった。良心の咎を覚えながらも、私は彼を見限るしかなかった。
 一年半を経て、単身涅槃パレスへ舞い戻る羽目を余儀なくされるが、前回の私の不貞の裏返しのように、恋敵の日本女性が突如出現、ドラマは波乱の展開を見せ、もつれにもつれ込んだ挙句、肉体関係を拒絶する元恋人に業を煮やしたように男はヨーロッパの長旅へと発った。

 男が不在中レストランで知り合ったのが、今の夫だった。破局がそう遠くないことを予感していた私は、プリーにホテルを建てるためのビジネスパートナーを捜しだしていた。ニルヴァーナパレスの女主人になるのが所詮かなわぬ夢なら、自分でホテルを造ればいい、底に男への対抗意識がなくもなかった。過去にホテル経歴のあるその青年は、私が求める誠実で信頼できるパートナーの条件に合っていた。以来、額つき合わせて、ホテル開業プランを練ることになり、そうするうちに互いの間に好感情が芽生える。
 三ヵ月後男が帰印、私と青年との親密な関係を洩れ聞くと、対抗心から出たのみのプロポーズで挑発してきた。しかし、私はあんなにも欲していた男の求愛を退ける。その夜、停電の闇に紛れて私の部屋に忍び込んだ男は不意打ちを衝いて抱きすくめる暴挙に出る。私は膝から下の力がへなへなと抜けていく脱力感に見舞われながら、なすがままになるばかりだった。男に抱かれている現実が夢のように思われ、視野の効かない真っ暗闇で本当にあなたなのと、何度も繰り返さずにはおれなかった。男は、ドント・ランナウェイと警告して立ち去った。
 私にはとてつもなく恐かった。このままニルヴァーナパレスにとどまれば、遅かれ早かれ男の餌食になるのは目に見えている。恋敵の日本女性が青春の貴重な五年を男に費やしながら、結局は結婚の約束を反故にされた二の舞を踏みたくなかった。煩悶した末、男が不在のウィークデーに、慈しんだホテルを後にした。逃げるなとの彼の警告を無視して、後ろ髪を引かれる思いで、最後の抱擁を手土産に立ち去ったのである。男が植えたアカシマリ、天の花が授からなかった子の代償のように、すくすくと実らせた純白の花片を雨のように頭上に降り注いだ。以後、ニルヴァーナパレスは未来永劫に禁断の園と化した……。

 青年がマネージャーを務める安宿に移った私は、天と地ほどの差もある環境の変化に戸惑った。しかし、ホテル開設プランは着々と進んでいた。ネックになったのは、ビザの問題だった。いったんネパールに出て取り直したものの、それも三ヶ月がやっと、心置きなくホテルオープンに携わるには充分でなかった。窮地に陥る私に、青年はぼくと結婚すれば永住権が獲れると、突拍子もない提案を持ちかけてきた。ビジネスパートナーと仰ぐ彼と結婚だってえ?、私は開いた口が塞がらなかった。
 確かに彼には好感を抱いていたが、男に想いを残していた折でもあり、それにいざ国際結婚という現実が目の前に迫ってくると、家族の反対も予想され、躊躇が先にたった。青年はその後も、しつこくプロポーズ攻勢をかけてきたが、私はずるずると煮えきらず返事を先送りにしていた。
 結局のところ、弾みになったのはビザの問題だった。後三日で有効期限が切れる段になって、にっちもさっちもいかなくなった私は、清水の舞台から飛び降りるつもりで賭けに踏み切ったのである。親には事後報告の無謀さだった。私は志半ばでインドを去りたくなかった。青年とのホテル建設の夢に賭けてみることにしたのである。不謹慎な言い方かもしれないが、ビザという現実上の問題が結婚の引き金になったのだ。今思えば、そういう抜き差しならぬ窮状に追い込まれたこと自体が、すでに運命だったような気もする。天はすでに、この男と取り計らっていてくださっていたのではないか。
 一九八八年三月二十一日、法廷結婚という簡素な形式で三人の証人を立てて署名すると、私は三歳年下の三十歳の青年、ビダヤダール・モハンティの正式の妻となっていた。ビザが切れるぎりぎり直前のことだった。
 
 青春期の烈しい恋を懐かしく振り返る年頃になった今、ニルヴァーナパレスとの出遭い、美しい館のオーナーとの熱恋、インド学生との駆け落ち騒動、その後に待ち構えていた真のパートナーとの出会い、すべては天の配剤だったと思うばかりである。 
 で、肝心のギャンブルの勝敗だが、大勝とまではいかずとも、勝ちには変わりなく、私にはやはり天の采配が動いていたように感じるのである。


*解説
 2012年初めて文芸思潮誌主宰のエッセイ賞に投稿し、佳作(「日印の狭間で」)を射止めた私が、上位入賞を目指して長めのエッセイ(前回の五枚から制限枚数ぎりぎりの十枚)を送り、見事銅メダル(奨励賞)を勝ち取った自伝エッセイである。移住の動機が秘めた激恋だったことを明かしたものだが、このテーマに関してはすでに三連作を収録した小説書、「涅槃ホテル」を上梓しているので、詳細を知りたい方はそちらの自伝小説をご一読いただきたい(三十年以上かけてつむいだ激恋小説で、お薦めです)。
 余談だが、死ぬ前後悔することのひとつに記憶に残る強烈な恋愛をしなかったという項目があるそうで、この点に関しては、私は悔いなく逝けそうである。あんなに深く、烈しく、狂おしく人を愛したことはなかった。二十代の総決算ともいうべき大熱恋だった。
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日印の狭間で(2012年度文芸思潮エッセイ賞佳作作品)

2017-04-05 19:49:30 | E全集(受賞作ほかのノンフィクション、2017~)
日印の狭間で

                                  李耶シャンカール

 インドに暮らして25年になる。振り返ってみれば、あっというまの四半世紀であった。東京での生活に見切りをつけて日本脱出を図ったのが、1987年32歳のとき、かねてより永住の地と焦がれていた東インド・オリッサ州のプリーという小さな町に移り住んだ。ここベンガル湾沿いの風光明媚な聖地にホテルをオープンするつもりで現地人パートナー探しが始まったが、一年後ひょんな成り行きでビジネスパートナーと仰ぐ現地男性と結婚、小さな洋館を借りて「ラブ&ライフ」という名の安宿をオープンした。
 今でこそ、インドも経済繁栄と持ち上げられているが、当時は後進国もいいとこ、順応するのにひとかどでない苦労を強いられた。それまで三度の渡航歴があり、インドのことは少しはわかったつもりでいた私だったが、旅行者としてざっと撫ですぎた体験と、実際に生活するのには大きなギャップがあり、インドでものを書いていきたいと思っていた私にとっては、インフラ整備等の物理的な環境が整っていないことが、苛酷な気候とあいまってしんどかった。停電しょっちゅう、蒸し風呂のような部屋で洪水のような汗を流しながらの原稿書きで体を壊す羽目になってしまったことも一度や二度じゃなかった。
 加えて、慣れない宿経営、オープン当初は日本人妻が経営するプリー初の宿というので、人力車の車夫が気をきかして日本人ばかり引っ張ってくるようになったせいである。そのうち、日本の有名ガイドブックにも推薦文が掲載され、ネームバリューはさらに上がった。しかし、土台女将という柄ではなく、貫禄のない私はいつも旅行者に間違えられてばかり、社交もどちらかといえば苦手のため、接待ともなると、かなり無理をしなければならなかった。何せ客商売のなんたるかもわからぬ、バックパッカー出身のど素人女将ゆえ、戸惑うことが多かったのである。こんなはずじゃなかったと、歯ぎしりすることもしばしばで、私の頭の中の、安楽椅子にのさばって傲然と使用人に指示を下すホテルオーナーの図はあえなく、雲散霧消した。夫にホテル経営歴があったため、何がしかの助力は得られたが、本来の執筆業との落差に、等し並みでない葛藤を強いられたのである。91年に新築移転以降は客層がインターナショナルに広がったため、ようやく、宿経営と執筆の両立が可能になった。

 とはいえ、長年異国に暮らすと、当然のように母国への郷愁が湧き上がってくるもので、距離があるがための美しい幻想と分かっていて、日本恋しさあまり、一ー二年に一度は帰国を繰り返した。後厄ということもあったのだろう、三十台半ばごろはとくに迷いの多い時期で、実験的に長めに日本に滞在しライター業に従事、理想と仰ぐ日印半々生活を実現しようと苦闘したこともあった。あの頃はほんとに帰国病に取り憑かれていたといって過言でないくらい、むしょうに日本に帰りたくて仕方がなかった。日本の物価に比べると十分の一の後進国で外貨価値のないルピーをいくら稼いだところで、将来性がないと絶望的になっていたのだ。ヒンドゥ教徒とイスラム教徒の対立などの社会不安も、帰りたい病に拍車をかけた。私には、同じインド人なのに、宗教が違うだけで殺しあう国民性がわからなかった。惚れ込んで住み着いたはずのインドへの不信感は黒雲のように膨れ上がっていた。

 このまま夫ともども日本に居ついてしまおうかと思ったこともあったが、結局、私にはインドを見限れなかった。それは、ベンガル海をこよなく愛していたということもある。東西にすがすがしい真一文字の海岸線を刷いて開ける壮大なベンガル湾、陸(おか)を洗う荒波の目に染む白さに、文明社会で降り積もった垢のことごとくがひだの隅々まで洗いすすがれていく爽快感を味わい、移住を決めた私だったのだ。すがすがしい青磁色の大海から昇る荘厳なるベンガルの朱(あけ)の暁が、そしておかに沈むサフラン色の壮麗な日没が、いつも私のホームシックを癒してくれた。孤独や寂しさを覚えると、私は常に海に向かっていた。そのうちに四半世紀が過ぎていたというわけだ。

 日本に戻りたいとの帰巣本能にそそのかされて一時帰国を繰り返しながらも、結局私はまたあの東西に長々と伸びる壮大な海へと戻っていくのだろう。インドにいて母郷を思い、日本に在ってインドを恋う、わが胸のうちに死ぬまでその矛盾を抱えていくことになるのだろう。母国と移住地と二つの国の狭間で引き裂かれる切なさは当の移住者にしか実感としてわからないものだ。わが遺灰の半分はベンガル海に撒いてもらい、残り半分は郷里の墓地に埋めてもらおうと、今からひそかに決めている私である。


*解説
 2012年に初めて、文芸思潮誌主宰のエッセイ賞にトライ、佳作を射止めた作品である。実はタイトルは、編集長に「ベンガル海に」との変更を迫られたのだが、改めて全集にアップするにあたって、オリジナルのタイトルに戻らせていただいた。
 以後五年エッセイ賞(奨励賞一度・佳作四度)に輝き、同誌主宰の小説賞・銀華文学賞(奨励賞一度・佳作五度)と、五年連続ダブル受賞の快挙を成し遂げた。
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