インドで作家業

ベンガル湾と犀川をこよなく愛するプリー⇔金沢往還作家、李耶シャンカール(モハンティ三智江)の公式ブログ

故岡本信を偲んで(ジャガーズ・ライヴ動画)

2017-04-08 18:38:27 | ラッパー子息・音楽ほか芸能
受賞作全作をアップして一段落した昨夜、久々にGSミュージックを聴いた。
GSとは私と前後世代の人は百も承知の、グループサウンズのことである。
六十年代後半の時代に咲いた徒花だったが、彗星のごとく登場し、消えたバンドたちの名は忘れがたい。その筆頭がタイガース。が、私は二番手のテンプターズや三番目のジャガーズのファンで、ヴォーカルを務めるショーケン(萩原健一)や岡本信(故人)に夢中になっていた。

テンプターズの代表ヒットナンバーは、「エメラルドの伝説」だが、ジャガーズに関しては、「マドモアゼルブルース」が好きだった。スパイダースのマチャアキ(境正章)も好きで、「夕陽が泣いている」とかよく口ずさんでいたっけ。ジュリーは女の子のようで私の好みでなく、タイガースではしいてあげるなら、ドラマーのピー(瞳みのる)がかわいいなあと思っていた(後年、旧友がピーのマネジメント業務を請け負うようになるとは、誰が予想したろう。運命とは奇なもの)。

さて、GS関連記事は過去に何度も書いたが、今回は、ジャガーズ(活動期間1964-1971、1981-2009)のすでに他界したヴォーカル、岡本信について述べたい。彼が自宅マンションの風呂で心不全で絶命したのは2009年、還暦直前、59歳の若さだった。あれから、すでに七年以上の歳月が流れたわけだが、動画をチェックしていて、ジャガーズのクラブにおける生演奏を見つけたので、ご紹介したい。
信さんが四十代半ばごろの動画らしいが、ミリタリールックがいまだに似合っているし、じっくり覗いてみると、改めてジャガーズというバンドはいいグループだったんだなとわかる。ベースもギターもドラムもいいし、信さんの歌唱力が特筆に価する。ジュリーと引けをとらないうまさだったと思う、つまり、ソロとしても十分やっていける才能をもったシンガーで、71年の解散後ソロ歌手としてデビューしながら売れずに二年で中断、81年にジャガーズが再結成されるまで、新宿歌舞伎町で高級会員制クラブの経営に手を染めていたようだ。しかし、音楽への情熱は失わず、その傍らバンドやミュージカル俳優としての活動も続けていたらしい。

前置きが長くなったが、以下、ライブ演奏をどうぞ。
ザ・ジャガーズ    ライブ!!

信さんて、ほんと歌が好きだったんだなってことが伝わってくる動画。持ち歌何曲かの後、別のメンバーのカバー曲ヴォーカルになって、コーラスのみの脇になるとき、手でギターを弾くようなポーズをとるけど、彼ってギターもやれたのかな。手の感じからいくと、そうみたいだけど。

次に、後述のコメントにもあるようにハーフっぽい美男で、今で言うとイケメンだった信さんの若いころのデビュー曲動画もどうぞ。
ザ・ジャガーズ / 君に会いたい

以下はファンのコメント。
「本当に今の蛆虫のごとく湧いてくる名ばかりのイケメン達を見るとこちらが恥ずかしくなります。早逝した俳優なども真の美男子で品も備わっていました。信ちゃん、GS一のハンサムで歌も上手でしたね。病気を恨みます」

「岡本さんとは二回程お会いしましましたが1回目はGS真っ盛りの昭和44年1月、横浜駅前のスカイビルの公開録画番組の時と二回目は平成元年の福岡のディナーショーでした。ディナーショーでは他にタイガースのトッポ、ブルーコメッツの三原綱木さん、そして今は亡きシャープホークスの安岡力也さんの合同ディナーショーでした。実は僕も昔、バンドをやっていまして欠員が出た時にたまにオファーを受けていましてそんな関係もあり個人的にも岡本さん他と良く話をしていただきました。
やっぱりイケメンと言えば真っ先に岡本さんの顔が浮かびます。今の芸能界の誰でもイケメンとは訳が違います。本当に綺麗で端正な顔立ちでした。そしてナイーブな人でもありました。晩年は良く息子さんの事などを話されていましたが、歌唱力もあり俳優としても十分にやっていけた人だけに本当に早い人生が惜しまれます」

独身だったのかと思ったら、息子さんがいたようで調べてみると、三笠れい子というあまり知られていない女優と結婚し、男児をもうけていることが判明(後年離婚)。信さんの息子とはTerraというバンドでヴォーカルを務めていた岡本真来(しんぎ)で、ソロでメジャーデビューを果たすも売れず、起業家に転身、しかし父の突然の逝去で今一度事業の傍ら音楽に復帰することに決めたようだ。亡父は真来が子供のころから、コンサートツアーに伴ったとかで、音楽の下地は自然培われたわけだ。
動画がいくつかあったが、以下の、父の死の二年後にアップしたオリジナル曲が一番よかった(歌のうまさのみならず、作詞作曲の才能もあるんだな)。
泣ける歌 「七段花  岡本真来 shingi okamoto

しかし、母似のせいか、ハンサム度は父より劣る。それに、少し太り気味では(こちらの動画チェック)。歌唱力は確かに受け継いでいるようだが、やっぱり亡父のほうがうまい。でも、信さんに音楽やってるお子さんがいたって事実はなんだか救われる。血は争えないというか。お父さんを越すような立派なシンガーになってほしい。
ほんと、岡本信はルックスも歌唱力も、話術・演技力にも恵まれていたのに、いったんは人気GSのヴォーカルとしてもてはやされながら、不遇をかこうことになった後年が惜しまれる。メンバー全員がロケバスでの事故で重症を負って活動中止に追い込まれ、この間オックスがのしてきて地位を奪われたってのも、不運だったけど、この人のキャパシティを存分に引き出せなかった芸能界の失態、本来ならジュリーやショーケンと遜色とらない成功をものにできた人だったと思う。
惜しまれる才能をしのび、最後に中学生だった私のお気に入りのナンバーをどうぞ。
マドモアゼルブルース ザ・ジャガーズ

★豆知識ウイキから一部引用)
ザ・ジャガーズの母体は、1963年に六本木野獣会のバンドとして結成された「野獣会オールスターズ」。1964年には「宮ユキオとザ・プレイ・ファイブ」というエレキバンドに発展、デビューに際しフィリップス・レコードで「ザ・ジャガーズ」(豹)と命名され、同レコード会社より1967年6月にレコードデビューを果たす。デビュー曲の『君に会いたい』が大ヒット。1968年3月には「進め!ジャガーズ 敵前上陸」で映画初主演。この映画は小林信彦による脚本のコメディだが、後年になりカルト映画として再評価される作品となる。
当時のGSの中では最もミリタリー・ルックが似合うことが評判だったが、デビュー曲以降のヒット(カヴァーである「キサナドゥーの伝説」など)が散発的であったこと、そして移動で使用していた専用のマイクロバスが交通事故を起こしメンバー全員が頭を縫うなどの重傷を負ってしまい、療養中に代役でジャズ喫茶に出演したオックスによって人気を奪われ1968年の夏以降はGSブームの中でも埋没した存在となってしまう。
GSブームが終焉を迎えた1969年夏以降は、ジャズ喫茶やゴーゴークラブが主な活動の場となり、1971年7月に解散。1981年、「さよなら日劇ウエスタンカーニバル」に出演、その後アサヒビールのミニ樽のCMに『君に会いたい』が起用されたのを機に再結成(メンバーは宮・岡本・宮崎・森田・沖津。当初は佐藤も参加)し、テレビ出演やライブ活動を行う。その後も同メンバーで活発にライブ活動を続けたが、2009年4月19日、岡本が自宅マンションの浴槽で死亡しているのが知人女性によって発見され(入浴中に心不全を起こしたものと断定された)、リードヴォーカルの死去によって事実上の活動停止となった。
コメント
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