平成18年に60歳を迎える。六十と縦に書くと傘に鍋蓋(亠)を載せた形である。で、「かさぶた(六十)日録」
かさぶた日録
金谷宿の助郷 (後) − 島田金谷の考古学と歴史

助郷免除の嘆願書が、比木村のような遠隔地から出るのは、ある意味止むを得ないかと思うが、以下の文書は金谷宿のお膝元である六ヶ村(後の五和村)から出された嘆願書である。その理由として挙げられている点が興味深いので、長い嘆願書のその部分を読み下してみる。
恐れながら書付を以って願い上げ奉り候
(前略)
私ども六ヶ村の儀、大井川通り上の方川縁にて、先年古川敷き水除堤およそ千七百間余御築き候なり、右古川敷き御田地開発仰せ付けられ候村々にて、至って地窪にて、かつ御田地の儀、小石引き平均し、作毛仕るに付、土少々これ有り候えども、石砂交じりにて、地味宜しからず、大井川大水の節は、床より冷水湧出、作毛水腐り仕る
用水の儀は大井川堰上が御田地相続き仕り候えども、大河の儀に御座候えば、堰上普請所出水の時々押し流され、大造りの諸色人足ども残らず自普請仕り、用水入用夥しく相掛かり難儀仕り候
その上前文申し上げ奉り候通り、土性宜しからざる場所ゆえ、秣(まぐさ)多分に刈り入れ申さず候ては、作毛一円実り申さず候ゆえ、最寄隣村へ秣代は山運上差し出し、秣刈り取り、漸う御田地相続き仕り候えども、全体土地柄宜しからず、殊に寛政年中より度々の入川にて、御田地夥しく亡所に相成り、その後追々開発仕り候地所も変地仕り、年々違作がちにて、村々困窮相募り、村借財相嵩み、潰れ百姓など年々出来、家数も追々相減り困窮仕る
その上御囲い堤出水の時々欠け崩れ少破の分は、村方にて取り繕い、かつ又水防人足高百石五拾人御遣い捨て、その上水御防村役金と唱え、高百石に付金壱両ずつ年々中泉御役所へ御上納仕り、無難の年柄にても村入用多分に相掛かり、金谷宿御伝馬助郷役、しばらく休役願い上げ奉りたき段、相談仕り罷り在り候内、さる子六月、大井川并大代川通り洪水にて、御囲い堤数ヶ所切れ入り、御田地大造りの荒地、亡所など出来、難渋の始末は、去年末巨細申し上げ奉り候通り、漸く露命相助かり候のみにて、中々御伝馬相勤め候手段もこれ無く、村役人とも差略仕り、これまで少々ずつ人馬差し出し候えども、勤め不足に相成り、金谷宿より日々不足賃銭催促これ有り、殊に必死と難渋仕り候
(後略)
文政十二丑年十一月
上記六ヶ村は牛尾村、嶋村、竹下村、番生寺村、横岡村、横岡新田の六ヶ村である。この六ヶ村(五和村)の田地は天正の瀬替えの結果出来た土地で、元々は河川床だったところ。天正の瀬替えについては、直接の資料がほとんどない中で、その様子を知ることが出来る史料として興味深い。田地に開発はしたものの、豊かな田地になるまでには色々と困難に遭遇したようである。助郷免除の嘆願書の理由として、やや大げさに書かれているとは思うが、それぞれは理由として納得できるもので、そういう苦労は200年経ってもまだ続いていたようである。
この嘆願書はもっと条件の良い村々で、助郷の役を逃れているところもあるのだから、そういう村々に回して、私ども六ヶ村は休役にしてもらいたいと嘆願している。
このように、助郷は出役する村々にとって、河川堤の普請などとは違って、何も受ける益がなく、余分な役であったから、不満が多かった。1849年には金納を認め、そのお金で宿駅が人馬を調達する制度が始まった。逆に見れば、村々にも貨幣経済が浸透してきたことがうかがえる。
助郷の制度は明治になり宿駅制度が廃止になると共に廃止された。
