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「歳代記5」 長州征伐のこと

(夕暮れのみのり橋-ムサシの散歩道)

歳代記の解読を進めている。

禁門の変で長州藩が御所に向けて発砲したとの理由で、長州藩は朝敵として幕府に長州征伐の勅令が出た。歳代記も長州征伐に触れているが、長州征伐は歴史的には第一次、第二次と二度に分けて考えられている。第一次は幕府側の参謀であった西郷隆盛が、長州藩で政権を握った保守派(俗論派)と交渉し、禁門の変責任者の三家老切腹などの条件を長州藩が受け入れて、決着した。

その後、長州藩では高杉晋作らが保守派を打倒するクーデターを起し、倒幕派政権を成立させ、民兵を募って奇兵隊などを編成し、また薩長盟約によって新式兵器を入手し、倒幕の準備を進めた。

状勢を踏まえて、幕府は第二次長州征伐軍を出した。歳代記の記述はこの第二次の長州征伐を記している。

元治二(丑)年三月二十九日は、いよいよ将軍様長州へ御進発遣され候、もっとも御先供は柳原式部太輔様外、御普代御大名様方、御旗本方、引続き御登り成られ、もっとも馬印、船印、小筒、大砲および鉄砲、戦い上の御支度にて御登り成され、御諸供は御普代御大名様、御旗本様方、追々御登りに相成り、将軍様御儀は大坂御城に御泊りにて、柳原様、彦根様、外御普代御大名様方、御旗本、長州境まで押寄せ、一戦これ有り候えば、双方とも即死、怪我人多く致しこれ有り、その場にて打ち死いたし候者もこれ有り、勝負の程は相分からず、石州浜田、松平右近将監様、御城焼き捨てられ、殿様おあとは、出雲松江様御城へ御立ちのきに相成り、小笠原様は一戦いたし候えども、殿様御幼少につき、肥後隈本へ御立ちのき、石州津和野、亀井隠岐守様は一家中とも、周防山口へ人質に相成り候次第、勝負印し置き候は今度ござなく候につき、本勝負の儀はまだ/\相分かり申さず候、筋道あらまし(以下不明)

幕府軍は、第一次長州征伐と異なり、薩長盟約で薩摩藩が出兵を拒否するなど、宇和島藩、佐賀藩なども出兵せず、四境に分かれた戦況がいずれも不利な状況下で、将軍家茂の死を理由に、長州軍と停戦を合意し撤兵した。事実上、幕府軍側の敗北となり、幕府の威光はいよいよ陰り、倒幕側を勢いづける結果となった。

歳代記の記述は途中のようでもあり、ほぼ終っているようでもあり、判然としないが、戦場から遠く離れた東海道金谷宿においては、やはり正確な情報を得るには限界があるのか、状況把握が中途半端で終っているように思えた。
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