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遠州濱松軍記 12 三方ヶ原の戦い(4) 家康浜松城帰城まで

(「平手監物墳墓之地」の石碑、浜松グランドホテルの近く)

「遠州濱松軍記」の解読を続ける。

榊原康政、城方へ引かずして、高林村、中澤村の間を引き、馬込方にて敵に追い詰められ危きなり。酒井左衛門尉忠次は中澤村の尾先にて、甲州勢と相戦い、源目口をば、鳥居彦右衛門尉元忠、固めける。敵短兵急に追いかけ来たる故、源目の木戸を開き、渡辺半蔵、同半十郎、桜井庄之助、脇尾五兵衛、右四人名乗り出で、鑓を合わせ、甲州勢を突き崩し、驚かしける。
※ 尾先(おさき)- 山裾の突端、ここでは中沢村のはずれ。
※ 短兵急(たんぺいきゅう)- 刀剣などをもって急激に攻めるさま。


また石川伯耆守、侍大将なれば、目立つ鎧を着し、甲州勢はこれを家康公とおもい、我も/\と追いかけ来たる。石川取って返し戦いけるに、大敵なれば、明光寺口を破れける処へ、酒井左衛門手立てにて、坊主首を上げるとて、刀の切先に突き懸け/\勇みければ、敵これを見て大きに驚き、山手へ直ちに散り/\となり引き退く。忠次は明光寺門の貫抜き堅めて、暫し息をつきけるこそ、酒井左衛門が手立てなりと。
※ 坊主首 - 信玄は剃髪していて、徳川の武将は「信玄坊主」と呼んだ。坊主首を信玄の首かと思い、武田方は大いに驚いたのであろう。

また家康公には名残木戸にて信玄公と合戦、その時、本多肥後守勘ヶ由左衛門、河合源五郎、長谷川紀伊守、加藤次郎九郎、信長公加勢、平手、長谷川橋之助、代脇藤八郎、山口飛騨守、加藤弥三郎討ち死にす。

それより家康公、名残口を御引き退き、鴨江村へ落ち延び給う。又々追いかけ来り、危い所へ平手家の組子どもかけ来り、相戦いて討ち死にす。鴨江村と伊場村の間、平手の墓印有り(上の写真)しなり。平手勢戦う間に、家康公、伊場村へ落ち延び給う。何とかしたりけん、御乗馬、歩行兼ねけり。それ下りさせ給う所へ、夏目藤四郎乗り来たり、我馬を差し上げ、敵と戦い討ち死にす。また柴田小兵衛火花を散らし相戦い、武田勢数多討ち死ぬ。誠に稀なる働きゆえ、この場を落ち延び給う。

伊場村名主権兵衛宅へ御入り遊され、暫く御休息遊され候内、また甲州勢七軒町の方より責め来るを、名主権兵衛、村中の百姓百余人にて討ち散らし、稀なる働きなり。その日も暮ければ、名主権兵衛御供にて、密かに鴨江小路より榎御門へ御入り遊さる。

また翌日、権兵衛召し出でさせられ候て、御手自ら、国増の御刀下し置かれ候。甲州勢、また榎御門へ押し寄せ来たるを、石川伯耆守数正、大久保七郎左衛門、言い合わせ、鉄炮を揃え打ちければ、敵散り/\に逃げにけり。
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