goo

遠州濱松軍記 7 本多平八郎忠勝の武者振り

(一言観音堂)

遠州濱松軍記の解読の続きである。一言坂の戦いで、浜松城に撤退する家康軍のしんがりを努めた、本多平八郎忠勝の獅子奮迅の活躍を記している。

甲州勢いよいよ勝に乗り、天龍川を越しせめ戦う。家康公御勢は武田方の大軍中々防ぐべき様なし。御旗本も散々に見えにけり。その時、本多平八郎忠勝、味方勢、殊の外、弱りたるを見て、一先ず浜松城へ引き退き、家康公へ申し上げ候は、武田勢は殊の外大軍なり。これは織田上総之介信長公へ御加勢御頼み遊ばさるべきやと。則ち、もっともと思し召し、信長公へ早打ちにて、大久保次右衛門罷り越し、相頼み候えば、信長公にて、先年の恩ありと思し召し候て、柴田修理亮を大将として、御加勢ありき。
※ 先年の恩-この恩というのは何なのか、調べてみた。おそらく、2年前の元亀元年(1570)の姉川の戦いの家康軍の合流と活躍のことであろう。その結果、信長・家康軍は浅井・朝倉軍を破った。

然る時、本多平八郎忠勝、鹿の角打たる兜を居首に着なし、勝色おどしの鎧を着し、栗毛の馬に打ち乗り、十方切の鑓を馬の小脇にかい込み、信玄勢大軍の中へ乗り込みて、かの十方切、渦まくばかりに打ち合い/\相戦いけるに、当たる敵を中天突き上げ、当らざる敵をば大地にどうと石突にて突き伏す。
※ 勝色(かちいろ)- 日本に古来からある紺色の一種。褐色とも書いたが、現在の褐色とは違う。
※ おどし - 鎧の札(さね)を革や糸で結び合わせること。また、その革や糸。
※ 十方切の鑓 -「十方」とは「東・西・南・北の四方、北東・南東・南西・北西の四隅と上・下の方角」、つまり、全方角に振り回すことが出来たのであろう。本多平八郎忠勝の愛槍は「蜻蛉切」と呼ばれ、刃長43.8センチの笹穂型の大身槍で、柄の長さが6メートルと、普通の槍のより3割方長かった。「天下三名槍」の一つに数えられている。
※ 石突(いしつき)- 矛・薙刀・槍などの柄の、地に突き立てる部分を包んでいる金具。


誠に鬼神も及ぶまじくと、本多が武者振り、武田方兵者(つわもの)、馬場美濃守信房、山形(県)三郎兵衛政(昌)景、横田備中守、小幡(畠)山城入道、原五郎、匂坂彈正、三田兵部、多田淡路、山本勘助など、本多平八郎が働きを見て、自らを驚かざる者はなし。それより武田勢引き退きしなり。その時甲州方より狂歌に、

   家康に 過ぎたる者が 二つ有り 唐の頭に 本多平八

と読むるなり。

※ 唐の頭(からのかしら)- 外来のやくの尾の毛を束ねて飾りとした兜。贅沢なものだったので、節約家の家康には過ぎたものといわれた。


(一言観音)

一言坂から500メートルほど北に智恩齋というお寺があり、その門前に一言観音堂がある。一生に一度一言だけお願いすると叶えてもらえるという。一言坂に敗走してきた家康が参拝し、一言願ったら叶ったという話が残っている。さて、家康は何と願った?
コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )