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遠州濱松軍記 5 岡崎三郎信康の切腹

(二俣、清龍寺 - 二俣城跡の北東700メートルの所にある)

遠州濱松軍記の解読を続ける。

岡崎三郎信康公と申し奉るは、家康公の御二男なり。二俣の城へ御入り候て、甲州信玄方へ御内通遊ばされ候と、三ヶ国へ相聞かせし上にては、信玄公、威勢強く、岡崎三郎殿まで信玄方へ内通仕り候と風聞有りければ、いよいよ御命助け奉る様御座なく、御預かり居り候、平岩七之助、大久保七郎右衛門、同五郎右衛門、相談にて、三郎様御座遊ばさる、御殿、築地を一夜/\段々狭ばめ候えば、三郎信康公も御覧遊ばされ、さては、我が命、一日/\縮まり候と、御あきらめ、我が信玄へ内通致さざる申訳け一通、御認め、御切腹遊ばされ候故、大久保、平岩、三郎様御尊骸、御輿に乗せ、密かに九月十五日、天方山城之助に相送る。廿一歳なり。
※ 家康公の御二男 - 長男の間違いである。
※ 築地(ついじ)- 柱を立て、板を芯として両側を土で塗り固め、屋根を瓦で葺(ふ)いた塀。
※ 天方山城之助 - 天方道綱。遠州森の天方城主。信康は二俣城にて切腹し、その介錯を天方道綱が行った。



(清龍寺、信康公霊廟)

二俣、清龍寺に御尊骸を葬り奉る。人々、二俣の城へ罷り帰り申し候。岡崎三郎様、信玄方へ内通遊され候と申し訳け、岡崎の城より浜松へ御入城遊されたき御心躰なり。然る処、家康公、如何思し召し候や、直に二俣の城へ遣され候ゆえ、信康公御心外に思し召し、信玄方へ内通成らるとも、また讒言(ざんげん)にて候とも、この訳、得と相知れ申さず候。二俣清龍寺、御朱印五拾石付き候は、三郎様五十年季時に付き候なり。

これより以下は、昨日の書き込みの通り、信康の話ではなく、その母、築山御前の話が紛れ込んでいる。

浜松富塚村西来院、その時住持、三郎様御尊骸を地中へ隠し奉り候由を聞き伝え、その時住持、過去帳に附け置く。百年季に近き折りから、大久保加賀守殿へ申し達し、御茶湯料相願い候えば、大久保殿より上聞に達し候処、則ち西来院へ御朱印弐拾石下し置かれ候事。三郎様百年季に大法事の時、三五郎子孫より御霊屋へ石燈籠献じ奉る。三五郎子孫、水戸様に相勤め申し候。


(西来院、築山御前廟前に立つ、三五郎の子孫献灯の石灯籠)

野口三五郎の子孫は50年忌、100年忌の両方で、御霊屋へ石燈籠を一対ずつ献じている。その内の一対が、現在も西来院、築山御前廟前に立っていた。
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