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紅林衛達という人の業績

(顕彰碑のある釣学院)

静波の街中、西南の外れに近いところに釣学院というお寺がある。その門を入った右手に、「紅林衛達先生顕彰碑」が建っていた。こういう稗はこの頃は読むようにしている。この碑は昭和47年に建てられた新しいものだったから、読むには苦労が無かった。

紅林衛達氏はこの釣学院の末寺の住職で、寺子屋を開いて子弟教育にも尽された。そこに事件が起こった。碑文によると、

「当時大磯久保柄の農家は、海岸の国有地に塩畑を設けて製塩の業に従い、傍ら小作地を耕して生計を立てていた。たまたま明治十六年、この塩畑を地先権として払下げを申請した地主十三戸と、是に反対する農家六十戸との間に紛争を生じた。先生は農民を代表して、地主との折衝に日夜奔走されたが、円満なる解決を得ず。問題は法廷に移された。先生は是を一身に引受けて訴訟を進め、農民がその費用に窮するや、寺財の山林を売却してこれに充て、ついに勝訴に導いた。かくて、この塩畑は全村七十三戸へ農地として平均に分割払下げられた。小作者達は、ここに初めて自己の所有地を得て、感涙にむせんだ。明治十八年五月、両者の間に和解が成立し、三年の永きにわたる紛争に終止符が打たれ、村に平和が甦った。」

塩の道がこの辺りから長野方面に向けて通っていた。だからこの海岸辺に塩田があって当然であるが、この逸話は改めて塩田の所在を教えてくれる。「大磯久保柄」という地区はこのお寺より南へ1.5キロほど下った片浜海岸の集落である。

この逸話は紅林衛達氏の功績はもとより、戦後の農地解放に先立つこと半世紀も前に、農地解放と同様のことが明治の司法の手で行われたことに驚く。明治の司法もこの当時は始まって間が無く、おそらくは理想に燃えていたのであろうと思った。

これ以降の払下げにおいても、「この先例にならい全村民に分割される例となり、ために村人は海岸地帯に豊沃な農地を得て今日の繁栄の基礎を築いた」と書かれている。
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