歌う人のためのオイリュトミー・クラスvol.2終了

2019年05月13日 | 日記
昨日、福岡からU先生をお招きして、第2回目の「歌う人のためのオイリュトミー・クラス」を開催しました。
とてもとても有意義な時間でした。シュタープ(銅の棒)を使った基本の体作りが中心でしたが、激しい動きではないのに随分な運動量に感じました。心地よく疲れて、生命が喜んでいるのを感じました。
私は月1回ヨガに通っているのですが、動きに常に醒めた意識を伴わせるという点で、オイリュトミーとヨガは似ています。動きがゆっくりであることも。しかし、ゆっくりでも停滞なく動かないといけません。そんなに難しいことをやるわけではないのですが、一つ一つの動きに意味があり、うまくできない動きがある場合は、身体の問題と言うより、意識が切れていることが多いように思いました。何というか、これは「動く瞑想」とでもいう感じですね。
クラスが始まる前の時間に先生とお話をしていて、「うちの生徒さん達は、両腕を挙げて胸郭を開いた状態を、腕を下ろした時にキープできなくて息が落ちてしまう方が多いです」と言ったら、その言葉に反応されて、「腕を下ろす時って、エーテル体が下がる代わりにアストラル体が上がっていくんですけどね」と仰いました。私には何のことやらよくわかりませんが、何やら下半身、特に脚力と関係のあることのような気がしました。先生にとってもこの会話はレッスンの糸口になったそうで、終わった後に「始める前にあの話ができてよかった」と言って下さいました。
いろいろと印象に残る言葉があったのですが、「記憶には、感情や思考による記憶と、生命による記憶がある」と仰ったのには大いに納得しました。感情と思考(理性)の出どころは同じだ、というのは私の博論指導をして下さった哲学の先生のご意見ですが、対概念のように思われている理性と感情は、生命という包括的な次元から見れば同じカテゴリーなんですね。そして、生命が覚えたものが、本当の記憶として、一人の人間の全体に影響していくのでしょう。自転車乗りでも泳ぎでも楽器の演奏でも、できるようになった時には生命の次元に記憶されていて、もう忘れることはあり得ないわけです。だから、一度は覚えたはずだけど忘れた、というのは、生命の次元で覚えていなかったということなんですね。「体で覚える」という日本的な言い方がありますが、同じ事情を指しているのでしょう。そして、それには反復練習あるのみ。練習というのは、生命の記憶になるまで自分の存在全体に浸透させるということなんだ、と得心がいきました。
そういう意味でも継続的に学びたいと思い、来月から毎月、先生が「親と子のオイリュトミー」のグループの指導で熊本に来られる日の夜、6時からのクラスを開催させて頂くことになりました。たくさんの方に体験して頂きたいと思います。
実は今回、前日と当日で合わせてなんと10名ものキャンセルが出て真っ青になりました。先生から「次回からキャンセルポリシーを明示して下さい」とお言葉を頂きましたが、継続的に学んでいくにあたっては、そういうところもきちんとしないといけませんね。こういう催しにはドタキャンはつきものですから、やきもきしないで済むような体制づくりを考えます。

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