ハレとケ

2013年04月29日 | 日記
先日のブログ「ドレスの意味」に、読者の方から「日常と非日常」の観点から舞台衣装の意義を考察されたメールを頂きました。友人のCHIKAさんからも同趣旨のコメントを頂きました。このあたりの話は生命倫理を専攻していた頃に少し学びましたが、もう10年近く前のことなのでだいぶ記憶が曖昧になっています。そこで、久し振りにプチ社会学(?)してみようと思います(笑)。
言うまでもなくコンサートや展覧会に出かけることは「日常性からの束の間の脱出」です。私たちは決まりきったルーティンワークの日常には退屈してしまう。日常性のことを「ケ」と呼び、非日常の「ハレ」と区別したのは民俗学者の柳田國男でした(よね?)。退屈し、疲れてくると「ケ」のエネルギーが枯れてくる。これを「ケガレ」と言うのだとか。そこで、エネルギーを回復するために行うのが「祭り」である、という説があるそうです。あるいは、「ケガレ」と不浄を同義と捉え、聖なる世界との通路を開くために「儀式」を行うことが大事だという説も。芸術は聖なる世界への通路である、という主旨の論文もありました。
宗教的な儀式の際には、聖職者は式服に威儀を正しますね。集う人々も平服ではなくきちんとした服装をします。あるいは、お祭りの時もそれにふさわしい格好をします。いずれにしても、普段着では場にふさわしくないのです。
中学生の頃だったか、母に「美術館に行く時はきちんとした格好をしていかなくては失礼になるのよ」と言われ、服装は作品に対する礼を示すものなのだと思ったことを覚えています。音楽会の場合は、作品に対してと言うより演奏者に対する敬意の表現だと思っていました。演奏する側に立つようになると、お客様に対する礼としてドレスを着ていたように思いますが、作品や音楽芸術そのものに対する敬意や畏れ慎みの気持ちも含まれていたかもしれません。しかし、いつの間にかコンサートでドレスを着ることは一種の慣習と化してしまって、ほとんど何の自覚もなくなっていました。それと同時に人前で「あがる」こともなくなりました。ハレの日が日常化してきたということでしょうか。
プロの演奏家にとっては「ハレ」が日常の一部です。しかしお客様にとってコンサートは(お祭りか儀式かはともかく)非日常。演奏者も「ハレ」の日を迎える緊張感を忘れてはいけないのでしょうね。慣れが狎れになっては不遜になります。大切なことを思い出させてくれたK君、有難う!

ドレスの意味

2013年04月27日 | 日記
世の中はゴールデン・ウィークですが、私は普段と全く変わりません。大学の授業もあるし(最近は大学が世知辛くなってきて、半期15回の授業回数を確保するためハッピーマンデーは休まないことになっているのです)、連休中もレッスンやドイツ語講座や合唱団の練習はあるし、リサイタルの準備も進めなくては。連休中に招待状や案内状の送付と、プログラムとプログラムノートの印刷までできたらいいなと思っています。肝心の練習も、連休中にできる限り暗譜してしまいたいと思います。
今回のプログラムを通しで歌ってみると、やはり後半の中東欧ものは「重いなあ」と実感します。アンコールにも重い曲を選んでしまったので、ひょっとしたら腰が抜けてしまうのではなかろうか(比喩ではありません)、とちょっと心配。よくよくエネルギー配分を計算して歌わなければ。そうだ、衣装も考えなくては。
衣装と言えば、少し前に面白いご意見を聞きました。月1回の句会でいつも隣の席に座る若い男性から「声楽家の人って、どうして演奏会でいつもきれいな衣装を着るんですか?」と訊かれたのです。どうして、って言われても...(笑)。「演奏会ではドレスを着るのが普通よ」と言うと、「だって、お客さんは歌を聴きに来るんでしょ?衣装は関係ないんじゃないですか?声楽家の人ってきれいなドレスが好きなんですか?」と。何と答えたらいいのか困っていると、師匠格の年輩の男性が「音楽会では視覚的要素は本質的なものではない、と言いたいの?」と彼に訊いてくれました。「いえ、まあ、あの、僕はいつも不思議に思っていたんです。何できれいな衣装を着る必要があるのかなあと。フィギュアスケートなんかでもきれいな衣装を着てますよね」と、話がフィギュアスケートに転んで行きました。スケートは視覚的要素がすべてなので音楽会の場合とは話が違うと思うのですが、ひょっとしたら彼は「スピンやステップやジャンプの技術を競うのに何故きれいな衣装が必要なのか」と思ったのかもしれません。
彼の問いは、真正面から考えるとちょっとした難題ですね。私は普段全くおしゃれをしない人間なので、たとえシンプルなドレスでもともかくドレスを着て化粧をすれば、ステージに登場した時点でお客様がドレス(というか、普段と違う私)に幻惑されて、歌に多少のキズがあってもあまり気にならないのではないか、というまことに不埒な考えでドレスを着ておりますが(笑)。コンサートはトータルで楽しむものだから、衣装とかお花とか照明などの視覚的要素や、プログラムなどの知的要素も大切なのだ、ということでしょうか。終演後にどこかで食事をする、バスでなくタクシーで帰る、などコンサートとは直接関係のないことまで含んで楽しまれる方もいらっしゃるでしょうし。私が思いつく答えはこれぐらいしかありませんが、何か他に彼を納得させられるような答えをお持ちの方がいらしたらどうぞ教えて下さい。

進歩

2013年04月25日 | 日記
昨日は、最近月1回通うようになった県南でのヴォイトレでした。昨年まで3年続けてこの地域の合唱協議会の招聘で合唱のヴォイトレをさせて頂きましたが、そのご縁で指導者層の方たちがご自分で発声を学ばれるようになったのです。その謙虚で前向きな姿勢は本当に敬服に値します。また、その向上心のゆえでしょう、それぞれの方が毎回一皮ずつ剥けるように発声が良くなっていかれる様子は、さすがと言うべきかやはりと言うべきか、感動的です。指導だけでなく演奏活動も行っていらっしゃる方たちなので、それが車の両輪のように向上の推進力になっているのでしょう。そういう方たちのお役に立てることは光栄なことだし、そのために自分も勉強し続け、歌い続けなくてはいけないので、良い循環です。
昨日のレッスンで印象的だったのは、体側を弓なりにそらしながら声を出すエクササイズの時です。そらす側の腕を頭上に挙げて脇腹を十分にストレッチしますが、その時腕が頭より手前に落ちてこないよう気をつけながらまっすぐに伸ばして声を出して頂くと、声の飛び方が全然違います。身体の使い方のほんのちょっとした違いで、出てくる声が歴然と変わってくるのです。こういう小さなことの一つ一つが、誘導すると瞬時に体が反応して声が変わるところまで体が順応しています。日々お忙しい中、工夫して練習を重ねていらっしゃることが窺われます。
どんどん良くなられるのが嬉しくてハイテンションでレッスンをすると、その興奮がしばらく私の体にも残ります。昨夜は目が冴えてしまい、かなり遅くまで起きていました。しかし今日の午後にはさすがに鎮静してきて、それと同時に少々疲れが出てきました。夜、老健の職員合唱団の練習に行ったのですが、範唱しながら音程がなかなか決まらず、やっぱり肉体の疲れは声に反映されるのだなあと再認識。今日は早寝します。

またまた下あごの話

2013年04月23日 | 日記
演劇をやっている20代の男性が最近入門されました。本格的に声楽を勉強したらいいんじゃないかと思うような良い声の持ち主で、理解も速いのですが、発声時に下あごに力が入るのが気になっていました(日本人は大抵そうですが)。このNさんが、先日のレッスンでこんなことを言われました。「演劇のヴォイトレでは下あごを引きなさいと教えられていましたが、ここでは上あごを上げなさいと言われますね。下あごを引くと顎関節が固まったようになって口を開けるのが苦しいんです。でも、さっき棚の上に顎を載せて上あごを上げる練習をしましたけど、あんなふうに上あごを上げると、顎関節にかかっていた鍵が外れたような感じでラクに口が開くんですね」と。
そう言えば昔、「下あごを引きなさい」という言い方をよく聞きました。それにはそれなりの理由があると思います。一つには、下あごを前に突き出すと喉頭が上がって喉頭蓋が閉じ気味になり、発声時に声帯に負担がかかる、というもの。また、首筋が縮んで声帯の後筋がうまく引っ張れなくなるとか、首が肩より前に出てしまって姿勢が崩れ、呼気の通り道が狭くなる、といったデメリットもあります。しかし発声時に下あごを引くと、日本人の場合は上あごがとても上がりにくくなります。
「上あごを上げる」のは、口腔をなるべく広く開け、共鳴をよくするためです。しかしその時下あごは動かしません。つまり、「上あごを上げる」ことは「下あごを前に突き出す」ことと同義ではないのです。それがよくわかるやり方の一つが「棚に顎を載せて口を開ける」というものです。最初は皆さん、下あごで棚を押して口を開けようとします。しかしそれでは口が開かないので、「上を向くような感じで上あごを上げて下さい」と言うと今度は下あごを前に突き出そうとします(←下あごが前方にスライドするような感じ)。しかし下あごは棚で固定されて動けないので、仕方なく(?)上あごを上げざるを得なくなります。こういう一連の体の反応によって初めて、ご自分が今まで「口を開ける」ことと「下あごを下げる」ことを混同していたことに気づかれるのです。
日本人が下あごが固い原因は「顎関節の可動域の狭さ」、つまり顎関節の動きにくさです。顎関節が動きにくいのは、顎関節を動かす必要がないからです。なぜ顎関節を動かす必要がないかと言えば、喋る時に口を大きく開ける必要がないからです。日本語は口先で喋る言語なので口の奥で声を共鳴させる必要がなく、そのため口の中が省エネモードになっているのです。
下あごが固いと声が下あごに集まります。声は緊張の強いところに集まるからです。これを解消すれば、声が下あごから離れて上へ抜けてくれますから、頭部の共鳴腔(副鼻腔)で声が響きます。声が上へ抜けるようになると、声を出すことが格段にラクになります。棚を使った練習はオススメです。どうぞお試しを。

プログラムノート

2013年04月21日 | 日記
このところ、時間を見つけてはリサイタルのプログラムノートの作成に励んでいます。毎回、解説と訳詩には歌に勝るとも劣らぬ労力をかけていますが、私はおそらく本質的にはそちらの方が向いているのだろうと自分では思っています。音大生の頃も、いろんなところで「あなた、楽理科?」と訊かれたものです(楽理科の方には失礼に当たると思いますが(笑))。
今回は前半がモーツァルト歌曲、後半が日本歌曲と中東欧の歌曲という構成です。イタリア語や英語の曲を歌う時は訳詩に少々骨が折れますが、今回は日本語とドイツ語だけなので気が楽です。チャイコフスキーもドヴォルザークもアリャビエフも、ドイツ語に翻訳された歌詞で歌います(ドイツ語はヨーロッパでは通用範囲の広い言語なのです)。適切な訳文を作るためにじっくり原語の歌詞を読み込んでいくと、それ自体が暗譜の練習になりますし、音楽的な表現のイメージも浮かんできます。器楽と違って、歌はそんなに何時間も声を出しては練習できませんが、その分をこうして補うわけです。
訳詩と並ぶ、もうひとつの大事な作業が曲目解説です。歌い手の中にはこの部分を専門家に任せて歌に集中する方もいらっしゃいますが、私はこの作業が大好きなので、自主リサイタルの時は必ず自分でやることにしています。その曲目解説、今回は少し変化球にしようと思い、「エッセイ風のプログラムノート」と題して、その曲にまつわる思い出や個人的な見解なども織り交ぜた文章を書いています。これまで歌曲のリサイタルの時には訳詩の朗読やトークを入れていたのですが、今回はその代わりに軽い読み物で少しリラックスして頂ければ、という目論見です。と言っても、私の文章はどんなに柔らかくしてもやっぱり硬いのですが(笑)。
私のリサイタルには歌よりもプログラムノートを楽しみに来られる方もいらっしゃるので(笑)、その方たちがどんな反応を示されるかな、とちょっと緊張しています。でも、書いている本人が楽しんでいるんだから、きっと読まれる方も楽しんで下さるだろうと勝手に決めて(笑)毎日少しずつ筆を進めています(いえ、キーボードを叩いています、ですね)。どうぞお楽しみに!