風来人

2020年07月14日 | 日記
ヴォイストレーナーを始めて間もない頃、一風変わった生徒さんが入門されました。小さなイタリアンレストランのオーナーシェフのAさんです。Aさんが、業界仲間のSさんに連れられて初めてうちに来られた時のことは今でもよく覚えています。私の生徒さんだったSさんに「声を出すと爽快になるわよ。たまには気分転換しましょうよ」と言われ、引きずられるようにしてうちに見えたのでした。それじゃちょっと発声をやってみましょうか、というと、「えっ、声を出すんですか?」と仰るので私の方がびっくり(笑)。ともかくやってみましょう、ということで、アアアアアーーと私が声を出してみせ、「どうぞ、同じように出してみて下さい」と言うと、全然違う音程とリズムで声を出されたのでまたまたびっくり。「あれ、音が違いますよ。この音ですよ」とピアノをポンポンと鳴らして「もう一度ね」と促すと、さっきとは違う音程で外してきました(笑)。「あのー、音が違うんですけど...」と言うと、「そうですか、では」と、今度は「イイイイイーー」と歌われるではありませんか。さすがの私も一瞬頭を抱えました(爆)。でも、私は昔、全く音程の取れない小学生の男の子を教えた経験があり、その子は完全に音痴を克服して、何とバンドのボーカリストにまでなったので、音痴矯正に関しては腕に覚えがありました。幸いAさんは、あまり抵抗なく私の誘導についてきて下さって、半年もするとちゃんと音が取れるようになり、発表会でイタリア歌曲を歌われるまでになりました。そうなると歌にすっかりハマってしまい、「ジムに通うよりよっぽどこっちの方がいいですよね」と言いながら毎週のようにレッスンに来られ、お店でもイタリア歌曲やオペラのCDを流し、Aさんに影響されたお客さんやお友達が何人もレッスンに来られるようになりました。
身軽な独り者のAさんは、よく1か月ぐらいお店を閉めて、ふらりと外国へ出かけられることがありました。旅先のレストランで日本人のオペラ歌手と相席になり、歌を習っています、と言ってサンタ・ルチアを披露し、「お上手ね~」と褒められた、と話して下さった時の嬉しそうなお顔が忘れられません。ここ数年はレッスンからも遠ざかり、でも時々お知り合いにヴォイストレーニングの話をしては私のもとに送り込まれ、その方々もやはりAさんに似て一風変わったお方が多く、お蔭で私も随分視野を広げさせて頂きました。その方々も皆、やはり声を出すことに快感を覚えて毎週のようにレッスンに来られ、いつの間にか風のように去って行かれるのでした。
最後にAさんのお店に行ったのはいつだったでしょうか。とても美味しいお店でしたが、私が健康法の一つで小麦粉を摂らなくなって以来、足が遠のいていました。時々ふとAさんを思い出しては、コロナ禍のステイホームで飲食業界はさぞダメージを受けているだろうと案じつつも、忙しさにかまけて電話の1本もかけずにいました。
昨日、親しい友人から、Aさんが大病をされ、小康を得て退院されている間に事故で怪我をされて、あっという間に亡くなられたという知らせを受けました。驚きましたが、Aさんらしいな、という気持ちも湧いてきました。風のように現れ、風のように去って行ったAさん。この世の旅人のような方でした。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。